宇宙港からカノンの運転する月面車に同乗し、月の悪路を進むこと、約三時間。
アイリーンとヴィクトルが月の裏側にある南極エイトケン盆地に位置する保護施設へと着いたのは、月面時間の夕刻だった。
「ここまでカップルを装ってきたのは、何かと大変だったでしょうけど、大丈夫。ここではちゃんと、あなたの個室を準備してあるから」
「ありがとうございます」
月面車を施設内部に入庫し、停車させると、カノンは宇宙服を脱ぎながらそうアイリーンに柔らかく微笑んだ。アイリーンも初めての宇宙服を見よう見まねで脱ぎながら、カノンに礼を述べる。カノンの表情は穏やかで、告げられた言葉の内容もありがたいものであったが、アイリーンは、ふと、ここからはずっとヴィクトルが側にいるわけではない、ということに、なんとはなしに不安を覚えた。
そして、あれほど旅の始めは戸惑いしか感じなかった彼の存在が、知らぬうちにこれほどまでに身近になっていたことを、意外に思う。
――やっぱり、彼と列車のなかでいろいろ話せたのがよかったのよね。お互い、共通点なんて何もないと思っていたら、父を憎み続けてきたことは、びっくりするくらいいっしょだった。ただ違うことは――。
カノンの案内で保護施設の通路を進みながら、アイリーンは考える。施設の廊下は無機質極まりない、白を基調にした金属製の壁が続く空間だった。あたたかみというものはまったくない。しかし、ところどころ黒ずんでいたり、配線が剥き出しになったところも多く、ここが相応の年数を重ねた建物であるということは彼女にも感じ取れた。
建物は何重もの扉で厳重に管理されているようだが、カノンはその幾つものドアを、虹彩認証で難なくすり抜けていく。その後をヴィクトル、そしてアイリーンが追いかける格好となり、アイリーンからはヴィクトルの表情は見えない。
視界には、声も出すことなく黙々と進む、彼の栗色の短髪とスウェードのコートの後ろ姿が揺れるばかりだ。
――ただ、違うことは、私は父から愛情を余すことなく与えられていたけれど、ヴィクトルはそうじゃなかった、ということだけね。そのことについて、もうちょっと彼と話したかったな。そうすれば、もっと父のことが分かる手がかりを得られたかもしれない。
「さて、ここが外来者用の施設よ。今日はあなた方にはここに宿泊してもらうわ」
アイリーンの思考は、カノンのその言葉で遮られた。気がつけば三人は、十以上の扉を超えた末に、白く広いフロアに辿り着いていた。そこからはいくつものドアがある複数の廊下が分岐していて、さらに施設は奥深いことを窺わせる。
だが、ここまでもそうだったが、この施設には人の気配というものが感じられない。物音も、僅かに響く空調の音以外は、自分たちの足音が反響するのみだ。ここには、母をはじめとしたたくさんの被験体がいるはずなのだが。
アイリーンはそのことを疑問に思い、思わず、ぽろり、と言葉が漏らした。
「ここには、まったく、人がいないんですね」
「ええ、ここは施設の管理棟だから。ここは昔はね、施設職員の宿舎になっていたところなのだけど、管理棟にはもともと人は僅かしかいないの。でも、これより奥の保護棟にはたくさんの被験体がいるわよ。そこは以前、難民収容施設だったところだから」
「そうなんですか」
「そうよ。そして、そこにあなたの母もいる。でも、今日はもうこんな時間だから、面会は明日ね、アイリーン。はい、ここがあなたの部屋」
そう言いながら、カノンはひとつのドアを開けた。覗いてみれば、なかにはソファーとちいさな寝台が置かれている。思った以上に広さはあったが、どこまでも簡素な、ホテルの一室のような印象だった。アイリーンは促されるままに、トランクを片手に部屋へと滑り込む。
自動点灯のオレンジ色の灯りがアイリーンを照らした。
「じゃあ、あとで夕食を持ってくるから。ここで長旅の疲れを癒すといいわ。そして明日のお母さんとの再会を楽しみにね」
カノンが金髪を揺らしながら、そう微笑み、アイリーンを部屋に残してドアを閉めかける。アイリーンは思わず叫んだ。
「あ、あのっ!」
「どうしたの? アイリーン」
「あ、あの、私、ヴィクトル……、に言いたいことがあって……」
その声に、廊下の向こうに姿を消そうとしていたヴィクトルが振り向き、アイリーンを見る。彼の表情は、今もって感情というものが見えない。
だが、次のアイリーンの言葉を聞いて、彼の青い眼が、微かに、揺れた。
「あの、ヴィクトル。ここまでありがとう。あの、できたら、私……あなたとまた、お互いの父のことを語りたいわ……」
ヴィクトルの身体が、びくり、と震えて止まる。それから数瞬の間、彼は表情を凍り付かせたまま、身じろぎひとつせず、アイリーンの菫色の瞳を見つめていた。ヴィクトルの胸中に数多の感情が駆け巡る。彼は、この場でカノンがいるいないにかかわらず、全てをアイリーンに吐露したくなった。
数日のうちに、己の手で殺さねばならぬ少女に、その企み全てを。
しかし結局、ヴィクトルはこう呟くに留めた。必死の自制心を持って。
「また、機会があったらな」
そして彼は思い切りよくアイリーンの部屋のドアを閉めた。やや乱暴に。
ドアが閉まる瞬間、すでに見飽きるほどに見慣れてしまった、アイリーンの茶色いくせ毛と菫色の瞳が、ちらり、とヴィクトルの目を掠める。
だが、彼には、それを直視する勇気は、もう、なかった。
アイリーンと僅かな言葉を交わし、部屋のドアを勢いよく閉じたヴィクトルを、カノンはただ、じっ、と顔に笑みを湛えたまま見ていた。しかし、ヴィクトルとふたりきりになって彼を見つめる眼差しには、どこか皮肉そうな色が浮かんでいる。彼女は、微かに息を荒げ、青い目を見開いたまま廊下に屹立する彼へと、何か言いたげに唇を動かした。
しかし、結局、カノンはその言葉をかたちにする前に、宙へ散らした。今さら言っても詮無きこと、と思ったのだ。
だから、彼女はまったく別のことを口にすることにする。こちらのほうがより、ヴィクトルにとって重要だと思う事柄を。
「さて、ヴィクトル。あなたにも部屋は用意してあるから、そこで疲れを取りなさい、と言いたいのはやまやまなんだけど。ちょっとその前に、あなたには用があるの」
「なんだ。任務の遂行手順なら、もう、嫌というほど通信でやりとりした通りだろう」
「違うわ。それとはまったく、別のことよ」
そういいながらカノンは廊下を足早に歩き出す。やがて、その足はエレベーターの前で止まった。そしてやってきたエレベーターのなかにヴィクトルとふたり乗り込むと、ボタンを操作し、行先を地下四階に定める。途端に降下を始めるエレベーターに乗り、ヴィクトルが訝しげな顔をする。
そんな彼に、カノンは淡々と言葉を投げかけた。
「あなたに見せたいものがあるの」
「俺に見せたいもの?」
「死ぬ前に一度は見ておいて、損はないものよ。あなたの父に関すること」
カノンの言に、ヴィクトルは不審げに青い瞳を光らせた。速度を速めるエレベーターのなかの空気が、ゆらり、揺れる。
「……俺の父?」
やがてエレベーターは、軽やかなチャイムを鳴らし、目的地の地下四階に到着したことをふたりに知らせる。扉が開けば、先ほどの真白い空間とは打って変わった仄暗い廊下が姿を現す。そのなかにカノンはためらいなく足を踏み入れ、ヴィクトルは無言のまま、その背を追う。
数分後、カノンが立ち止まった部屋のドアには、「標本室」と書かれた古びたプレートがかかっている。暗い廊下ではあったが、卓越した視力を持つヴィクトルには、その文字がはっきりと読み取れた。
彼の背筋に悪寒が走る。
ヴィクトルの脳内には、かつて月の裏側の施設について軍で学んだ知識が蘇っていた。
――たしか、施設の地下には、数多の実験から産み出された、被験体のあらゆる標本が眠っていると学んだぞ。と、すると、この部屋は……。
そう知識を反芻したヴィクトルの顔は僅かに恐怖に歪んだ。しかし、カノンはかまわずそのドアのロックを解除すると、部屋のなかへ入っていった。
棚に並ぶ、ラベルが貼られた無数の瓶。
果たして、そこはヴィクトルの予想通り、被験体の標本で満ちた部屋であった。自動灯の白いひかりのなかに、あらゆる部位の臓器・腕・手・足・頭皮・毛髪・脂肪……といったかつて人間だった数多の欠片が浮かび上がる。
その光景にヴィクトルは、思わず吐き気を催し口を手で押さえたが、なんとか嘔吐するのは堪えた。すると、部屋の最奥まで足を進めていたカノンが手招きする。ヴィクトルはむかつく胃を押さえながら、カノンの元に歩み寄る。
彼女は、ひとつの大きな瓶を指さしていた。その瓶のなかには、臍の尾も露わな人間の胎児がぷかり、浮かんでいる。しかも、一体ではなく、複数の胎児が。
ヴィクトルの端正な顔が引きつった。しかし、それは瓶の中身を見てのことではない。彼が注視したのは、瓶に貼られたラベルに綴られた、被験体者の名前だ。
「ヨナ・ケセネス……」
ヴィクトルが呻くようにその名前を読み上げる。それは、彼にとって親しい者の名、他ならなかった。
呆然とする彼に、カノンが静かに傍に置いてあった数枚の書類を手渡す。
「どこかで聞いたことある名前の被験体だと思って、検索したのよ。そしたら、大当たり。クオ・ケセネスの母親であるヨナ・ケセネスの胎児だったわ。同姓同名の戦争難民かも、と疑って、胎児の採取日も調べたけど、この書類にあるとおり、それもクオ・ケセネスの出生日と一致している。間違いないわ。この胎児は、あなたの父の兄弟よ」
「父の……兄弟……。確かに、父の出自は、戦争難民だと聞いてはいたが……」
「暇つぶしに資料を漁っていてびっくりしたわ。まさか、ここでその名前を見つけるとは。これを知るだけでも、月に送られた価値はあったのかもしれない、と思うほどにね」
信じがたい、という表情で、書類と瓶の中身へと交互に視線を投げているヴィクトルの前で、カノンは語を継いだ。
陰鬱な部屋に、これ以上なく陰鬱な沈黙の帳が落ちる。
数分の時を経て、やがて、ヴィクトルが大きく息を吐きながら、呟いた。
「……父は、このことを……自分の兄弟がここにいることを、知っていたのだろうか……?」
「そこまでは記録には残ってないから、分からない。だけど、知っていたんじゃないかしらね。クオ・ケセネスは人格的にはろくな男じゃなかったけど、諜報員としては優秀だった、と閣下から何度も聞いたことがあるから」
カノンのその言葉は、途中からヴィクトルの意識をすり抜けてしまい、脳に入ってこなかった。
数多の人間の部位がゆらゆら揺れる部屋のなか、ヴィクトルの脳裏には父の面影が浮かんでいた。
ただし、それは今までに思い描いたことのない父であった。
この異様な部屋のなかで、標本となった自分の兄弟を見つめる父の姿だ。
その表情までは分からない。
ましてや、心情など、思い至ることすら出来ない。
しかしながら、父がやり場のない孤独を抱えて、ここに立っていたであろうことは、おそらく、間違いないのだ。