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第61話 繋がりの在処

 ――ああ……。


 アイリーンは白い壁に囲まれた面会室のなかに入り、目の前に座る、三十代半ばと思われる女性を見た途端、菫色の瞳を見開いた。そして思った。


 ――間違いない、幼い頃ずっと傍にいたあの女の人だ。……つまりは、私の母だわ。


 管理棟の一室で一夜を過ごした彼女は、今日はさらに施設の奥にある保護棟へと、カノンの先導で案内されていた。そこでは被験体と見られる多くの男女が、広い体育館のようなフロアに集まってサッカーをしていたり、その隅のベンチで本を読んだり、談笑していた。


 しかし、その誰もが落ち着かない様子かつ、生気の欠けた表情で、顔つきもどこか暗かった。

 そして、それはカノンの姿を認めるとより顕著で、それまで話をしていた人が黙りこくったり、そそくさとその場を離れてどこかに消えていく人もいた。アイリーンはそんな人々を訝しく思いながら、そのなかを進み、やがて、フロアの一部にあった狭い部屋に案内されたのだ。


 そのドアをカノンが開け、恐る恐るそれに付き従い入室してみれば、「その人」はすぐ目前で待っていた。カノン、アイリーン、そしてレベッカ。三人の女が対峙する部屋に、外の喧騒がやけに響く。


 自分と同じ菫色の瞳が、穏やかなひかりを湛えて笑っていた。それから、肩でひとつにまとめた茶色のくせ毛も、己のものとよく似ている。


「アイリーン。こちらの女性が、レベッカ・カナハラ。あなたのお母さんよ」


 カノンが金髪を揺らしてアイリーンの方を向き、朗らかに笑いながら言う。目の前に座る女性はまだ何も口にしない。だが、静かに目の前に佇むその姿を見ただけで、心は激しく乱れる。鼻の奥が急速につーんとし、なぜだか無性に泣き叫んでしまいそうな衝動に駆られる。

 すると、カノンが耳元で囁いた。


「私はしばらく場を外すわ。アイリーン、レベッカ。ゆっくり再会の時を楽しみなさいな」


 そう言い残してカノンは部屋の外へ出て行く。

 ゆらり、と空気が揺らぐなか、アイリーンはレベッカの前に置かれた椅子にゆっくりと座り、己の母と対峙した。


「不思議ね」


 やがて、会話の口火を切ったのは、レベッカの方からだった。目の前の母は顔色は良くなく、記憶にあるそれよりも、ずっとやつれて見えた。もちろんそうとは知らずに共に暮らしていた頃より、十数年の時が経過している。たしか、母は今年三十六歳になるはずだ。だが加齢のせいだけでない衰えが透けて見えるのは、アイリーンの気のせいだろうか。


 けれども、その血色の悪い唇に浮かぶ微笑みは、とても穏やかだった。自分と同じ菫色の両眼も、また同じである。

 アイリーンはなおも、つん、とする鼻の奥の痛みを堪えつつ、ちいさく、尋ねた。


「何がですか」

「あなたは、ジーンによく似ている。彼の面影を引き継いでいる」

「……そりゃ、父ですから……」


 レベッカの静かな声にアイリーンは戸惑いつつ答える。ところが、母は思わぬことを彼女に、さらり、と告げた。


「違うわよ。あなたはジーンの子じゃ、ないのだもの」

「え?」

「やっぱり、カナデさんはそこまでは話さなかったようね」

「……どういうことですか?」

「あなたは私の子ども。それは間違いないわ。でも、ジーンとの子どもじゃない。あなたの父は、私がいた連合国の諜報組織の男性なの」


 アイリーンは思いもせぬレベッカの言葉に瞳を瞬かせた。驚きのあまり、声を出すこともできず、ただ母の顔を凝視する。すると、レベッカは目を伏せた。寂しそうに。または、痛々しさを感じる目つきで。


「それがそもそもの、私の罪なのよ。私はあなたを取り上げたジーンを騙した。そしてそれゆえ、ジーンに殺された。そして彼はそれを理由に、送られてしまった。この、月の裏側へと」

「……ええ、っ……」

「つまり、ジーンの罪のそもそもは、すべて、この私に責任があるのよ。あの人はただ、どうしようもない運命に抗えなかっただけ」


 そしてレベッカは、今度ははっきりと寂寥に満ちた声音でアイリーンに向かって言った。彼女の瞳をまっすぐに見つめて。


「ジーンは何も悪くないわ。そして、百歩譲って彼が罪を犯していたとしても、あなたにその血は流れていないの。一滴すら」

「……そんな……」

「アイリーン、だからね、ジーンがあなたにしたことは、血も通わない、しかも自分を騙した女の子どもでありながらも、ただひたすらに命を守ろうとした、それだけなのよ。そして、それがすべて」


 その言葉を聞いた瞬間、アイリーンの心の奥の何かが決壊した。アイリーンの瞳から、つぅっ、と一筋の涙が伝う。次いで、微かな囁きが、口から漏れた。


「……お父、さん……、お父さん……」


 なおもアイリーンの頬を流れる涙は止まない。

 そして、溢れる涙を拭くこともできず、彼女は心のなかで独り言つ。


 ――だから、私は……やっぱり、お父さんが、好きだったことに間違いはないんだ……。そんな、優しいお父さんだったんだから……。


 アイリーンは何度も何度もその言葉を胸中で噛み締める。そして、目の前のレベッカを見つめ、こう、掠れた声で礼を告げた。


「……教えてくれてありがとう……お母さん」

「やっと、そう呼んでくれたわね。アイリーン」


 レベッカが笑った。ただし、今度は心から嬉しそうな、憂いのない表情で。そして両手を、愛しい我が子の肩に静かに差し伸べる。

 次の瞬間、アイリーンは強い力で母の胸元に抱き寄せられた。思わず自分を抱きしめた人の瞳を見上げれば、そこもまた、濡れていた。



 それから、レベッカはアイリーンに、ジーンに撃たれて被験体になってからの出来事を話した。被験体となってからの話は、カナデからかつて聞かされていたものとほぼ同じだったが、彼女がヴィクトルの父であるクオの手足として使われ、半ば愛人同然だったという告白には大きな衝撃を受けた。


 しかし、アイリーンにとって救いだったのは、その後の凄惨な運命はともかくとしても、父と母、そして自分が心穏やかに暮らした数年があったという事実だった。もはや思い出しようもないバイカリスク基地の宿舎での生活ではあるが、そこには平穏と愛情に満ちた暮らしがあり、そのなかに自分もいたという真実はアイリーンの心を何よりもあたたかくさせるものであったのだ。

 もちろん、そのときなお、母はスパイ行為を続けており、父はそれを知らなかったに過ぎない。だからこその愛に満ちた生活だった、という皮肉も現実だ。

 それでも、アイリーンにとっては、三人で仲睦まじく過ごした時間が確かにあったこと、それは何よりの慰めであり、喜び他ならない。


 たとえそれが偽りの平穏だったとしても、自分は確かに父と母の愛のもとに生きていた。

 それを知り得ただけでも、アイリーンは幸せだった。



「話が弾んでいるところ、悪いんだけれど」


 気がつけば、二時間近くが経過していたようだ。アイリーンは扉を開けて入室してきたカノンの声に、我に帰った。カノンは打ち解けて会話しているアイリーンとレベッカの姿に、心から安堵したような顔をしている。


「カノンさん」

「アイリーン、まだ明日以降もお母さんと話す時間はたくさんあるわ。今日はここまでにして、宿舎に戻ったらどうかしら。そんなに一気に話すと、お母さんも疲れちゃうわよ」

「お心遣い感謝します。カノン保護員」


 レベッカがカノンに頭を下げる。だが、その瞬間、母の顔に陰が差したのが、アイリーンには不思議だった。しかし、それを問う間もなく、レベッカは再び顔を上げ、そして椅子から立ち上がった。

 その顔つきは、もう先ほどの穏やかな母である。


「じゃあ、私は部屋に戻ることにします。アイリーン、また明日も話しましょうね。今日は嬉しかった、とても」

「私もよ。お母さん」


 アイリーンも釣られるように椅子から立ち上がり、母に笑いかける。

 すると、レベッカが胸元のポケットから何かを差し出した。


「ああ、そうだわ、アイリーン。これ、あなたにあげるわ。私がジーンから、クリスマスプレゼントにもらったものなの」


 そう言う母の手元を見れば、銀色の鈍いひかりを放つロケットペンダントが、ゆらゆら、揺れている。アイリーンは手のひらのうえに乗せられたそれを見つめながら、言った。


「お母さん、いいの? そんな大事なもの」

「いいのよ。今日の記念に取っておいて、ね」


 そう言われてしまえば、アイリーンとしては受け取るしかない。彼女はペンダントを丁寧な手つきでジーンズのポケットにしまう。

 その間にレベッカは、部屋を出て行っていた。


 ――また、いくらでも会えるわよね。お母さん。こうしてせっかく会えたんだから。


 別れの言葉を言いそびれたアイリーンは、心のなかでそう呟く。それから、カノンの視線に促されるように、彼女もまた、部屋を出た。



 ――私、月に来て、よかった。閣下に感謝しなきゃ。それに、私をここに連れてきてくれたヴィクトルにも。


 その夜、アイリーンは自分の宿舎で、ベッドにごろり転がりながら、一日の出来事を反芻した。目の前では、オレンジの灯の下、別れ際に母から受け取ったロケットペンダントが、ゆらり、ゆらりと揺れている。


 ――ちゃんと、私、愛されていた。父も、母も、私を愛してくれていた。たとえ、その後、人に蔑まれるようなことをしても、それだけは変わりなかったんだ。


 アイリーンの脳裏に、朧げではあるが、父ジーンの面影がふんわり浮かぶ。考えて見れば、物心ついて以来、こんなに穏やかな気持ちで父のことを思ったことはなかった。


 ――といっても……父、じゃないのだけど。まさかね、血が繋がっていなかったなんて。「穢れた血が私にも通ってる」。そんなことを考えていたけど、そもそも血すら繋がっていなかったなんてね。ああ、ヴィクトルにこのことを早く教えたいな。そして改めて、お互いの父について語り合いたい。


 そう思いながら、アイリーンはペンダントのロケットになんとはなしに指を触れさせた。するとロケットの蓋が音もなく開く。まるでそれを待っていたかのように。

 そして、そこから滑り落ちてきたものがある。

 ベッドのうえに転がったのは、折り畳まれた一枚の白い紙だった。


 ――お母さんが入れたままにしていたのかしら。なんだろう。


 アイリーンはそれをつまみ上げ、広げる。

 するとそこには、こう綴られた文字があった。


「アイリーン。私のことはいいから、すぐに月から離れなさい。一刻も早く、地球に戻って」


 菫色の瞳が、大きく見開かれる。


 そして次の瞬間、建物ごとアイリーンの身体は激しく揺さぶられた。

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