「しくじったわ、ヴィクトル」
カノンがそう忌々しげに顔を顰めながら、ヴィクトルの部屋に入ってきたのは、もう彼が夕食を済ませ、床に就こうかという時間だった。施設内には爆発音が断続して響き、なにか起きてはならぬことが起きてしまったのを、彼は既に感じ取っていたが、カノンの言葉にことの次第を知り、青ざめていく唇を噛む。
「気づかれたのか、彼らに」
「ええ、被験体たちが蜂起したわ、彼らに勘づかれたのよ、私たちの計画を」
「いったいどこから情報が漏れやがったんだ……?」
ヴィクトルは脱ぎかけていたセーターを急いで着直しながら呟いた。そして、傍のテーブルに置いてあった銃を装着する。だが、その動きは、カノンから見れば少し緩慢に見えて、彼女は思わず声を尖らせた。
「なに、のろのろしているの。そんなに悠長にしている場合じゃないのは、分かっているでしょう。この機を逃したら、私たちが被験体を一掃するチャンスはもう、ないのよ?」
なおも連続して施設内に木霊する爆発音に重なるように、カノンが金髪を揺らして激しくヴィクトルに迫る。しかし、ヴィクトルの反応はなおも鈍い。彼はじっ、と銃を身につけながらも青い目を床に投げている。そして、カノンはようやく気づいた。
ヴィクトルの身体が、僅かにだが、細かく震えていることを。
「しっかりなさいよ! ヴィクトル! それでも名誉あるタハ閣下の親衛隊員なの?」
「……」
「……それともなに? いまさら、あの娘がかわいそうになったってわけ?」
ヴィクトルは答えなかった。頷くことも彼はしなかった。しかし、彼はカノンの言葉を否定することもできない。
なぜなら、カノンの推測は、まさに彼にとって図星でしかなかったから。
「……よく、わかったわ。ヴィクトル」
暫しの間を置いてカノンの冷徹な声が響く。現実を思い知らせてやる、とばかりに。
「あなたができない、っていうなら、私がやるだけよ。計画変更よ。ガスを精製したら、まず保護棟に流す予定だったけど、順番を変更するわ。最初にこの管理棟から流す。保護棟を充満させるに十分なガスはまだ精製が間に合っていないけど、幸い、管理棟の人間を死滅させるに十分な量は、出来上がっている」
「……やめろ……」
「ねぇ、ヴィクトル。二十世紀に起きたナチスドイツによるユダヤ人の虐殺はあなたも知っているわよね? そう、強制収容所でのガス室における虐殺よ。あなた、あのガス室のなかが
「……やめてくれ!」
ヴィクトルが鋭く叫び、カノンの言葉を遮る。しかし、遮りながらも、カノンが自分になにを促そうとしているかを察し、彼は端正な顔を強張らせた。
果たして、それからのカノンの宣告は、その推測を裏付けるもの他ならなかった。
「それが嫌なら、計画通り、アイリーンをまず殺してきなさい、ヴィクトル。これは命令よ」
「……しかし」
「ヴィクトル、忘れたの?
カノンの淡々とした、だが温度を感じさせない語りをヴィクトルはなおも身体を震わせて聞いていた。
すると、カノンが急に右手をヴィクトルの身体の方に差し伸べた。彼女の手のひらが、頬を摩る。ヴィクトルは突然のカノンの仕草に、身動きひとつすることもできなかった。カノンはヴィクトルの頬を撫でながら、彼の青い眼を射るように見つめる。
そして、それまでの厳しい声音から一転した柔らかな、だが、寂しげな響きを持って、こう囁いた。
「私たちは、ユーラシア革命軍政府の
ヴィクトルの胸にカノンの言葉が鋭く刺さる。彼の目は弱々しいひかりに揺れ、なおも床を見つめたままだ。
だが、彼は数分の後、結局、こうちいさく囁いた。まるで、己を無理矢理、納得させるが如く。
「……そうだったな」
それから彼は顔に差し伸べられたカノンを手を掴んで、それを下に降ろし、自分の身体から離させる。そして、ゆっくりと腰のホルダーの銃に手を伸ばす。
心を凍らせて。
その手はもう、震えてはいなかった。それを確かめたカノンが彼に声をかける。
「分かったなら行ってきなさいな。アイリーンのもとに。その間に私はガスの精製を急ぐわ。全て、計画通りことが運ぶように。頼んだわよ」
「ああ」
ヴィクトルが呟く。その声もまた、カノンの先ほどの言葉と同じく、熱を感じさせないものだ。
そして彼は、もう何も口にすることなく部屋を出ていく。その後ろ姿をカノンもまた、黙ったまま見送る。
彼女もまた、心を、頑なに凍らせて。
アイリーンは突然の爆発に揺れる部屋のなか、どうすることもできず慌てるばかりだった。そして、ひっくり返らないように足でなんとか床を踏み締めながら、手のひらのなかにあるロケットペンダントに視線を投げる。もちろん、そのなかから現れた紙片も、握りしめたままだ。
――お母さん? どういうことなの? 月から離れろ、自分のことはいいから、って。そしていったい、外では何が起こっているの?
アイリーンは改めて紙に綴られたメッセージに目を走らせる。そこに綴られた文の内容は、まるで、まさに今、非常事態に陥っていると思われるこの月の裏側の現況を見越したもののようだ。彼女の背筋に寒気が走る。
だが、自分にここから逃げ出すことを強く勧める母の意図については、まったく理解が及ばない。母は自分に、いったいなにから逃げろ、と言っているのか。そして、いったいなんの危機がアイリーンに迫っているというのか。
「……そうだわ! ヴィクトルなら、分かるかも」
その言葉とともに、アイリーンの脳裏にヴィクトルの姿が浮かぶ。そして彼女は決めた。この施設内にいるはずの、彼を探しに行こうと。もしかしたら彼も、アイリーンの安否が気になって自分を探してくれているかもしれない。そう思えば、アイリーンの胸中には勇気が湧く。何故なら、すでに彼女にとって、ヴィクトルの存在は信頼に足りるものであり、何よりも心強いものとなっていたから。
だから、身を翻し自室を出ようとしたアイリーンの目前に、他でもないヴィクトルその人が現れたとき、彼女の胸中は安堵に溢れた。アイリーンは彼が無事でいてくれたこと、そして、思い描いていたとおり、自分を助けに来てくれたことが何より嬉しく、大きく喜びの声を上げ、彼を見つめる。
「ヴィクトル! よかった、無事で!」
「アイリーン」
果たして、アイリーンの嬉しげな声に比べて、ヴィクトルが放った彼女の名を呼ぶ声は暗く、固かった。
そして、その表情も、まるでなにかに追い詰められた獣のように、険しいものだった。
アイリーンにはそれが不思議だった。意外すぎて、思わずなぜそんな顔をしているのかを問う言葉を繰り出すこともできなかったくらいだ。
だから、彼が自分の胸に向かって銃口を向けているのにすら、気づくのが遅れた。
そして、それに気づいて、どうして、とヴィクトルに質す間すらアイリーンには与えられなかった。
「君を苦しませたくないんだ。許してくれ」
アイリーンの耳に届いたのは、そんなヴィクトルの掠れた声と、続いて鳴り響いた銃声のみである。
彼女はヴィクトルが放った銃弾が、自分の身体を貫き、派手に血飛沫を上げる光景を、まるで他人事のように呆然と見つめることしか、できなかった。脳を軋ませる激痛も、流れ出る血液の感触も、我が事のように感じられず、アイリーンは菫色の瞳を瞬かせながら、ただ、こう、唇から言葉を漏らすだけだった。
「……ヴィ、クト、ル……?」
ちいさな声を残して、アイリーンは、茶色い肩までのくせ毛が揺らしながら、ゆっくり床に崩れ落ちていく。
その光景を、ヴィクトルは無言のまま見届けた。
いまや、ひかりすら失せた、昏い瞳で。