カルは立ち尽くすことしか出来なかった。
過去の記憶、トラウマが波のように押し寄せてきた。
だから女店員は強引にカルの手を引っ張り走っている。
路地裏を駆け、角を曲がり、そして案外早くに辿り着いた。
「……ぇ?」
それは、赤だった
カルはそれを見て、虚ろな瞳を見開いた。
女店員は無言のまま腰を抜かし、その場に勢いよく尻餅をついた。
その光景をみた女店員の足はもう使い物にならなくなった。
あまりの震えに、立つことができなくなった。
「――――」
路地裏の一角には、ギチギチに詰められた騎士たちが、屍の山のように鎮座していた。
身の毛がよだつ物体に、思わず視界の端に黒いモヤがかかっているような錯覚を感じた。
その異様な場所に彼女は取り乱した。
「どぅ、ど、どういうこと⁉」
錯乱しながら足元に視線を落とした。
真っ赤な鮮血が間近にまで広がっていた。
「ひっ」
「……」
血の匂いが鼻を刺激し、わなわな震えた両足は一そう震えを早くした。
絶望、だった。女店員にとって、その騎士の山は紛れもない絶望でしかなかった。
街を守る存在、彼女の世界で一番頼れる彼らが、こうも呆気なく、そして尊厳なく蹂躙されていて、足がすくんで動けなくなった。
だから、追い付かれた。
「彼らの働きは立派でした。グッドでした」
低い一声が名もなき死体に賞賛を送った。
振り返ると、自分らが走って来た道の中心にあの司教が立っていた。
司教は目を閉じ、本を脇に添えながらカルと店員に言葉をかける。
女店員は思わず、空から光が舞い降り彼を照らしているような錯覚をした。
それほど男の存在感は色濃い物だった。
「見つけました。赫病者よ」
ふと呟かれた一言に、女店員ははっとした。
そしてすぐさま、足が震えているのにほぼ無意識で立ち上がりカルを守るように両手を広げた。
その行動に男は眉を顰めた。
「……はて。あなたは情報によるとただの店員でしょう? どうして、庇うのです?」
男は甚だ疑問そうに尋ねた。
確かに先ほどから女店員の行動はやや常軌を逸していた。
再三言うが、彼女はシャルロットやカルと親しい訳ではない。
あくまでただの店員として彼らに接し、変に固執するほどの縁はなかったはずだ。
なのに今、男が見て疑問を抱くくらいに、彼女の態度は命を賭してカルを庇おうとしていた。
だがどうやら、時間がないことを男も分かっていた。
「分かりました」
女店員の傲岸不遜な態度を赦し、男は言葉を紡いだ。
「では交渉です。あなたがその子供を引き渡せば、私はあなたに何もしません。ついでにその痛めつけてしまった騎士達も助けると約束しましょう。加えて、直近の街で起った悲劇、トラブルを、私が全て解決してみせましょう」
「…………」
「あなたには良い条件だと思いますが、どうでしょうか?」
男は冷静に提案した。
彼女は一向に、その場から動こうとしない。
彼女の表情は必死だった。
男の前に立ち震えながらも果敢な態度を示す。
そんな彼女をみて男は――ダメか。
と呟きかけた瞬間に、彼女は重い口を開いた。
「……私には、歳の離れた兄がいる」
「…………」
ぽつりと語り出し、司教は固まる。
「兄は立派な人だ。規律を重んじ、人の力になりたいと願う、いわゆるいい人。……私は違う。私は、悪い人だ。家族以外はどうでもよくて、他人の笑顔に靡かないような冷たい人間だった。でも、それでも、……私は人一倍に繊細だった」
彼女は拳に力を籠め、涙目になりながら男を睨む。そして続けた。
「そんな私を、他者への共感性が低い私を、それでも愛してくれた兄が、私にはいる。だから分かるの……、痛いくらい想像できるの……、大切な人が奪われる悲しみが、苦しみがぁ!」
そんな彼女は胸の上で拳を作り、溢れんばかりの激情と涙を外に出しながら、彼女は男を軽蔑するような視線を向けた。
「私はね、あなたみたいな『素晴らしい提案』をすれば素直になる人間じゃないの!」
拒絶の言葉を飛ばすと、男は不快そうな顔を見せた。
「……面倒くさいですね、あなた。まるで美しくない」
「お前の美しさで他人を計るな! この子のことも、お前の基準で決めるのだけは許さないからな!」
「やかましいお方ですね」男は声を凄ませた「全く興ざめです。あなたのような凡人に私の仕事の意義深さなんて、分かるはずないでしょうね」
「ポジショントークで悦に浸るな!」
「……ちっ。だから、面倒くさいと言っているでしょう。まずまずあなたは、誰なんです」
顔を歪ませ苛立ちを募らせる男に、――長い金髪を揺らし、青い瞳を揺らす彼女は威嚇するような視線を維持し、問いに反射的に叫んだ。
彼女の激情を含めて、思いっきり。
「――私はラディーナ・クラム……! 力も何もないけど、目の前の大切な人が奪われるのだけは許せない! 例えこの騎士さんの山の中に兄が埋まっていても、兄ならきっとこういうわ!」
強い言葉にしては、体が小鹿のように震えている彼女だった。
彼女、ラディーナの意思は確かに強かった。
例え騎士たちが太刀打ちできなかった存在だとしても、だからなんだと吐き捨てて、その場に勇敢に立った。
そんな彼女の意思を見届けた男は、ふっと真顔になった。
「……なるほど。これは想定外だ」
男は、右手で脇に添えていた本を取り出した。
そして表情変えずに彼女を見つめた。
「では、邪魔者を排除しますか。全ては、――平和の為に」
刹那、司教は右手で開いた本を持ちながら、左手をラディーナに向けた。
そして、哀愁含んだ瞳に何かを写し、静かに呟いた。
「魔術、
月白色の閃光が形を成し、司教の左手に集まった魔力が鋭利になって彼女を捉えた。
そして男が左腕に力を籠めようとした。
「っ」
――ギンッ。と。鉄が震え激突する音が路地裏に響き渡った。
「…………え?」
ラディーナはきょとんとして、無意識に倒れている騎士の山を見た。
そして、彼女は頬を赤く染めて、目を見開いた。
その時、倒れた騎士の山から、一つの剣が男の頭部めがけて投擲されたのだ。
男は当たる寸前で顔をひっこめギリギリ命中はしなかったが、投げられた剣は建物の壁に突き刺ささるほどの威力を有していた。
そして司教ではない男の声が、その場に響いた。
その声はやけにハキハキとしていた。
「――程よい過大評価だな、ラディーナ」
そこには騎士ジェパード、いいや、ラディーナの兄。
ジェパード・クラムが。
仲間の血痕を浴びて崩れた衣服で立ち上がっていた。
その様子を発見したラディーナは、肩を震わせ始め、次に大粒の涙を目頭に溜めた。
「……ぅ、うう。おにぃいじゃぁん!」
「ごめん、心配させただろう」
ラディーナはこの路地に入り騎士たちの有様をみたときから、兄の安否だけが気掛かりだった。
だからあんなにはっきりと司教に立ち向かったのだ。
カルを助けたい。
姉弟のような愛を壊したくないのも本音だったが、ラディーナにとって騎士たちの有様は、深い悲しみと怒りを抱かせるには、充分すぎる一幕であった。
一連の流れをみていた男は、それでもまだ顔色変えなかった。
しかし男の声は一そう、毛虫を払いのけるような苛立ちを孕んでいた。
「……暑苦しい兄妹愛を見せてくれて、ありがとうございます。では、兄の方を殺せば、その子供をこちらに手渡してくれますか」
男は、眼前に立ちふさがった騎士を睨んでそう述べた。
ジェパードは体の一部の鎧が剥がれ、右手からは出血していたが、それでも立った。
家族の為、そして、見知った人物の大切な人間を守るため。
「まず、お前の名前を聞かせろ」
ジェパードは言った。
男は、口角を少し上げた。
「私の名はハーブクレイア。第十の司教」
「ハーブクレイア。勘違いするなよ」
「ん?」
ジェパードは倒れている仲間から剣を拝借した。
そして司教を名乗った男に強い物言いをして、左手で剣を司教に向けた。
「俺は死ぬ気でここに立っている訳じゃない。生き延びるためにお前の前に立つんだ。思惑通りにさせないぞ。街の平和も、家族の命も、誰かの大切な人も、守る」
ハキハキと言いながら、強い意志で剣を構え、眼光を光らせた。
それはシャルロットが知っていた本来あるべき、由緒正しき、威厳のある『騎士』――そのものであった。
そんな彼をみて、司教はついに顔が歪み訝しんだ。
そうして、哀愁漂う瞳を作ってにわかに口を開いた。
とても不満そうに、口を開いた。
「呆れますね。では、いっそのこと皆さんを『救済』しましょうか」
司教はそう言ってから、右手で『聖書』を捲った。