音が消えた。
カルは片手をついて息を吸いながら目を擦った。
すると見えてきたのは、いや、聞こえてきたのは――。
「ウワアアアアアアアア!」
腹の底から轟く、悍ましい絶叫だった。
突然の衝撃に意識を朦朧とさせてしまい、カルは自分が今どこにいるのか分からなくなった。
端々から様子を伺うと、雪が積もり、藍色の影が街を覆う路地裏。
――そして、額が熱かった。
「どういうこと⁉」
シャルロットの叫びが聞こえ、不可解な熱風が強く吹いた。
やっと目の焦点が合い、前方がじわじわと見えてきた。
そこに見えたのは、雪景色に合わないくらい『赤い炎』だった。
「……なに、あれ?」
思わず呟いた。
燃え上がる炎は血のように濃く、その中心で人影がゆらめいていた。
周囲の雪を蒸発させ、焦げた鉄の匂いを立ち込めさせて。
まるで意思を持つように形を変えていた。
カルは先ほどの記憶を急いで思い出した。
(男たちが「我々は~」を詠唱したときから記憶が曖昧だ。
いきなり目の前が熱くなって、赤くなって、その時に誰かに吹き飛ばされた?」 ……もしかして、シャルロットが炎から僕を助けてくれたのか?
でも、なんで燃えているんだ?)
「アアアアアア」
耳覆いたくなるくらいの悲鳴が聞こえ、燃え立つ異様な炎が路地を走った。
その様を見て、カルはまた一つ、曖昧になっていた記憶を手繰り寄せることができた。
ラスカルとミードは互いに目を合わせ、蒼白になった顔を引きつらせていた。
叫ぶように聖書を掲げた瞬間、彼らの手から炎が噴き出した。
『なんだこれは……!』。
ラスカルが絶叫する間もなく、業火は二人を飲み込んだ。
「シャルロット」
カルは気が付いて、ぽつりと名前を言った。
「この炎、ナナさんが言っていた、奇妙な……」
「……え?」
言われてシャルロットも炎を見つめた。
揺れる業火は、見れば見るほど荒々しく、そして今にもこちらに迫って来そうな勢いで空に延びていた。
人を焼いている炎。
確かにその点で言えば、ナナの火傷とも共通していた。
とすると、なんだ。
まさか、『モルデ』と『ゲイザード』は。
「……なんてことを」
シャルロットは全てを汲み取り絶句した。
思わず口元を歪ませ、炎に包まれた二人の男の影をじっと見つめた。
「あの本だわ」
「え?」
シャルロットはひとり奥歯を噛みしめながら、あのカシーアの様子を思い浮かべた。
(ずっと疑問だった。
聖書を媒介にして行使される『聖装』という技は、所有者に沿って構築された術式には見えなかった。
まるで『武装』としてではなく、『目的』として作られたような。
司教が着るための『衣』ではなく、ある種の『研究成果』の一環であると常々、考えていた。
いや、そんなこと考えなくても分かったはずだ。
カシーアで一度見た術式の緻密さ、
あれほど複雑な術式を本に内包しているとするなら……。
それは誰にでも扱えるものではなく、適合者しか扱えない特別な武装のはず!)
シャルロットはここ数ヶ月抱いていた疑問が、たったいま腑に落ちた。
カシーアで見た『聖装』。
その特異な技術がただ一介の司教全員に支給されているのは。
はっきり言って『異常』である。
あの聖装に籠められる技術は計り知れない。
要は『司教の為に特注した』が通用しないほど、あの本に集められた魔術技術は恐ろしいものなのだ。
故に、『聖装に適合した人物を司教に指名する』のだろう。
だから、適合しない者が使用しようとする。
強い拒否反応――『炎』が出る。
「あの本があの人たちを『拒絶』している。この異様な炎の正体は、あの聖書の拒絶反応だわ! 早くあの本を手放させないと」
「いい燃えっぷりじゃない? やっと罠にかかってくれたみたいねぇ」
ふと羽毛のように舞い降りた品のある声とは裏腹に。
発された言葉は到底純然とは言えない外道のソレだった。
女の声にシャルロットとカルは音の元へ顔を見上げた。
「ほんとうだよ。もう、寒いのは苦手だっていうのに」
女性の声と中性的な男性の声が頭上から聞こえ、やっと二つの影を見つけた。
目を凝らすと、――それは雪よりも白い衣を着た二人組だった。
大きな胸に海藻のような長髪、ツリ目の薄赤い瞳に色気を纏わせた口紅が淡く広がっており、胸ポケットに白い薔薇を刺している女性がいた。
その横には、ボサボサな灰色のパーマに隈の目立つ瞳。
白いロングコートの下には髪と同じ色のセータを着込み、右手で頭髪をかき回す気だるげな男性。
「……誰よ、あんたらは!」
シャルロットが食いしばるように叫んだ。
男の方が薄い眼を無気力に向けた。
「……自己紹介だってさ、する?」
「まあ礼儀にならうなら、そうなるわよね。でも、め・ん・ど・い」
女性の方はやけに嫌味のある喋り方をした。
それに、隣に座っている男性すらも嫌な顔をしてみせた。
「きみの喋り方はいつもしゃくにさわるね」
男はおでこに親指を抑えながら苦言を呈した。
「フン。自己紹介したいなら、坊やがしなさい。私は聖書の回収をするわ」
「はいはい」
それに女は両手を組んでそっぽ向き、男は「またか」と言わんばかりの対応をした。
女性は屋根上から下に降りて身軽に着地し、燃え盛る炎の中に平然と入っていった。
そして気だるげな男性はうなじに右手を回して。
武装しているシャルロットとカルに向けて自己紹介を始めた。
「ぼくは司教のザバクだ。そこの面倒くさがりの女は同じく教会所属、たしか第七司教だったね。『失格』のラクテハード」
「司教……っ!」
名を呼ばれた女。
――ラクテハードは炎の中からひょっこりと出て来た。
彼女は二冊の本を脇に抱え、『異様な炎』に焼かれることなく息をついた。
「ザバク、なんで私だけ肩書込みなのかしら」
「ぼくに自己紹介をまかせたんだ。異論はみとめないよ」
ラクテハード――、ザバク――、彼ら彼女らは自らを、司教と名乗った。