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第八十四話 孵化

 流れる水。

 吹き抜ける風。

 ゆっくりと木々が呼吸する。

 太陽が煌めいて光が降り注ぐ。

 太陽が沈めば世界は闇に沈み、湿気を含んだ空気が命を育むように優しくあたりを覆う。

 私は世界。

 私は大地。

 私は境界線を持たぬ存在。

 失った体は散り散りになって世界に降り注ぎ、それはまた再び凝集して私を形作る。

 曖昧な境界線がしっかりとした線を結び始めた頃、私の胸は再び鼓動を刻む。

 ここはきっと卵のなか。

 私は世界へ生まれ出るのを待っている。

 再び目覚めるのを待っている。

 目覚めた時。

 願いが叶うのなら、そこにはあなたがいて欲しい。

 愛しい人よ、側にいて。

 私を見つけて、側にいて。

 目覚める時があるのなら、その時には。

 できることなら、側にいて欲しいのアーロ――――


「うーん、よく寝たぁ~」

 私は卵の中で大きく伸びをしようとしました。

 とても深く眠ったので気分はよいのですが、卵の中では思うように伸びをすることもできません。

 これは孵化時ですね。

 私は口元近くにあった卵の殻をツンツンと突きます。

 ドラゴンの姿ですから、私の口はなかなか良い仕事をしてくれます。

 あっという間にヒビが広がって、どうやら殻を破ることができそうです。

 ツンツンがガンガンになり、ヒビはどんどん広がって、やがて外の世界を覗けそうな穴があきました。

「セラフィーナ!」

 聞き覚えのある声が響きます。

 アーロ! アーロです。

 私は一心不乱に卵の殻をガンガンと叩きます。

 早く出たい。

 早く彼に会いたい。

 口だけではなく、手足や尻尾も使って、いえ全身を使いながら卵の殻を割ってきます。

 ガンガンという音と衝撃と共にヒビは広がって隙間が出来ました。

 そこから見えるのはキラキラ光る美しい金髪。

 太陽みたいな金髪です。

 次に見えたのは、金色の睫毛に囲まれた目には澄んだ青色。

 こちらを覗き込んでいる目が見えました。

 私の心臓がドキドキと元気よく鼓動を刻みます。

 早く会いたい。

 その一心で卵の殻を破って世界に飛び出せば、そこには以前と変わらぬアーロの姿がありました。

「セラフィーナッ!」

 潤む瞳から涙が一筋こぼれていきます。

 涙に当たった太陽の日差しがキラキラ光って綺麗です。

 アーロの整った顔立ちは以前と変わらぬ、勇者には似合わない女顔。

 少しシワが増えましたか、アーロ。

 私は胸がいっぱいで言葉が出てきません。

 心の中も、頭の中も、言葉でいっぱいなのですが、口からこぼれてくるのは嗚咽だけです。

 アーロ。抱きしめてください、その筋肉質な体で。

 私を受け止めてください。

 私をギュッと抱きしめてください。

 私は抱きしめて欲しくて、卵の殻から出るか出ないかのうちに人化して、卵から飛び出るが早いか、アーロさまの腕のなかに収まりました。

 お父さまとお母さま、アガマやモゼルの笑い声が聞こえます。

 孵化してすぐにアーロの腕の中で泣きじゃくる私に呆れているのですね。

 私は泣き虫なんかじゃありませんよ。

 生まれた子は産声を上げるものではありませんか。

 だから私が泣いていても不思議はありません。

 そうでしょう?

 でも笑いたいなら笑えばいいです。

 今は許してあげます。

 私は泣くのに忙しくて文句を言う暇もありませんから。

「セラフィーナ。愛してる。愛してる」

 アーロの声を聞きながら、涙で言葉の出てこない私は、彼の腕の中で何度も、何度も頷きました。


 お久しぶり、世界。

 私とアーロが生きる世界。


「もう離さない」

「……っ」

 アーロはそう言うと、私の体を全力でギュッと抱きしめてくれました。

 勇者である彼の力は強いので、普通の人間では耐えられない力でしょう。

 でも私はドラゴンですから余裕です。

 涙で言葉は出てきませんが、私も同じ気持ちです、アーロ。

 もう離れません。

 ずっと一緒です。

 いつまで生きられるか分かりませんが、私は何度でもしつこく生まれ変わってあなたの側で生きますよ。

 あなたが死んでも生まれ変わるのを待ってますからね。

 本当にずっと一緒ですよ。

 覚悟してください、アーロさま。

 他のドラゴンはどうか知りませんが、私はしつこいのです。


 私はドラゴン。

 名前はセラフィーナと申します。

 人里から離れた切り立った山々が連なる領地で愛しい夫と愛し愛され呑気に暮らす、愛に満ちた美しき銀色ドラゴン。

 それが私です――――

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