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帰りのホームルームを終え、僕は心が一緒に帰ろうと誘ってくれるのではないかと期待した。友だちとはそういうものだろう、と。しかし心は、女生徒たちに強制的に「心くんの歓迎会をしよう」と誘われ、近くのファミレスに連れられて行った。
今日は転校初日だからしょうがないと諦めた。いつか一緒に帰れる日が来たらいいや、ぐらいで構えておかないといけない。
希望は胸の片隅にあっても、期待はしないほうがいい。
期待したときに裏切られたときのことを考えたら、期待しないことは、つらくならないための予防みたいなものだった。
松永に自転車を奪われたままだったことを思い出し、意気消沈の思いで歩いて帰った。自転車は家の裏に停めているから、なくなったことは父にはバレないだろうけれど万が一を考えなくてはいけない。自転車がない言い訳を探していると急に風が冷たいと感じた。自転車がない理由は、パンクしたから学校に置いてきたことにしようと思いついたところで、家に着いた。
「おかえり、怜くん」
父かと思ったら、すっぴんのミーコさんだった。休日のミーコさんのすっぴんは破壊力がいつもの倍はある。
「ただいま。ミーコさん」
「どうだったの。学校」
開口一番の質問が母より母みたいな人だと思う。見た目は、父より父なのだけれど。
「うん。まあ」
「何その反応。嫌なことあった?」
「嫌なことは、特にはないよ」
今日は松永が僕に興味を持たない日だった。蹴りを背中に三発受けただけだったので、安全な一日を過ごせたように思う。多分、川島心が松永の気を削いでくれていたようだ。
心が、女の子にちやほやされているのが、面白くなかったのだろう。松永は休み時間中に、取り巻きを連れて、どこかへ行ってしまいそのまま帰ってこなかったようだ。
永遠にどこかへ行ってしまえばいいのに。
「嫌なことは、っていうくらいだから、なんかいいことあったの?」
いいことと言われ、心の言葉を思い出した。
――ぼくと、友達になってくれよ。
「別にないよ」
「あら、怜くん。何笑ってるの。いいことあったんでしょー。教えなさーい」
象のひざみたいな肘で突かれた。
「何にもないって」
おせっかいなミーコさんから逃れ、部屋に滑り込む。ベッドに背を預けると川島心との会話を思い返した。気づくと僕は、顔をほころばせていた。
階下から、ミーコさんがラヴェルのボレロを弾いていた。僕は一人で死ぬほどへたくそなバレエのような踊りをしてみた。馬鹿みたいだったけれど。昨日までの僕よりはマシな気がした。
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夜、父が帰ってくるなり言った。
「みんなでごはん食べに行こうかあ。明日は僕の誕生日だから、前夜祭だよう」
給料日になると父は、外食に連れて行ってくれることがあった。我が家のささやかな贅沢ができる日。
今月からミーコさんもささやかな贅沢を分かち合う仲間に入った。ミーコさんとどこかに出かけるのは初めてだった。
「ちょっと、もう。お出かけなら、早く言ってよ。だから今日は料理作らなくていいって言ったのね。お化粧しなくちゃだから、待ってて」
ミーコさんはムダな抵抗をするために、部屋に向かった。三十分後に部屋から出てきたミーコさんは、オッサンからかろうじてオバハンぐらいの擬態には成功していた。
父の先月の営業の成績がよかったらしく、我が家で贅沢の最高峰であるステーキ屋に向かった。「ザ・ステーキ」というシンプルな店名で少し値段が高いけれど値段の分、シンプルに美味い店だった。ミーコさんは、五百グラムのステーキを頼む。僕と父は三百グラムが限界だった。
「おいしいね」
口いっぱいに肉をほおばるミーコさんはただの肉食獣だった。ミーコさんが草食系だったら、それはそれで気持ちが悪い。
「ミーコさんは、食べてる姿がカワイイねえ」
よくそんなセリフが吐けるものだと思う。僕がミーコさんの食べてる姿を見て抱いた感想は、ヤツの明日のうんこはものすごいだろうだった。食事中にそんな考えを抱いてしまい、気持ちが悪くなりかけた。
食事を終えると、ワインをしこたま飲み酔っぱらったミーコさんが、カラオケに行きたがった。ミーコさんの歌が聴きたかったから、翌日の学校もお構いなしで了承した。
カラオケに行くなんて、ずいぶん久しぶりだった。小学生以来かもしれない。そもそも人前で歌うのが、嫌いだ。人前で何かをするという行為すべてが嫌いだ。
ミーコさんが流行の曲を歌った。主に女性アイドルだったが、反吐が出るほど上手かった。
「次郎ちゃん、そろそろ歌ってよ」
ミーコさんが連続で三曲歌った後、父がリモコンを操作した。思えば僕は父の歌をほとんど聞いたことがなかった。
何を歌うのだろう。
曲を入力すると父はカバンを持って、「ちょっとトイレ」と言って出て行く。トイレにカバンを持っていく必要はないだろうと不思議に思った。
ミーコさんの歌が終わるころ、父がトイレから戻ってきた。
父が上着を脱いだ姿を見て、ぎょっとした。
父の上着の下の服は、ずいぶん珍妙な服だった。服というより、黒い包帯に見えた。その包帯らしきものは均一に一定の間隔に父の体に巻き付いている。そのせいで、マス目上に父の肌が覗いていた。
夜道で今の父を見かけたら、ただの変態だった。
夜道で見なくても、変態だった。
父が入力した曲が流れ始めた。
父は、全力でTMレボリューションを歌った。
僕は腹がちぎれるのではないかと思うほど笑った。ミーコさんは酔っているせいか、何故か号泣していて余計に笑えた。
二時間ほど経ったところで、帰ろうかと父が言った。僕も眠くなっていたので、賛成だった。短パン姿で歌う父のB‘zを見ていたい気持ちはあるが、体が限界だった。
「じゃあ、最後に一曲」
ミーコさんがマイクを持ち、座った。それまでは立ちっぱなしでアップテンポな曲ばかり歌っていたのに、急にゆっくりした曲で、しかも英語の曲だった。
カーペンターズのクローストゥーユーを歌うミーコさんの歌声は、まるで本物が歌っているかのような美声だった。
あなたの近くに、と優しく歌うミーコさんの横顔がきれいだった。
化粧も落ち始め、見かけはオッサン以下なのになぜかそう思った。
目に見えない美しさがそこにあった。