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♭の章:第8話 落下する自転車

 ♭


 カラオケで遅くまで外出したせいで、すぐに出発しないと遅刻ギリギリの時間に起きた。自転車をぶっ飛ばせば間に合うだろう。


 家を出て、自転車に乗ろうと思ったが、当の自転車がなかった。盗まれたのか、と思ったが、松永に奪われたままだったことを思い出した。盗まれたことに変わりはなかった。


 遅刻しないように行くことは諦め、川沿いの田んぼ道をゆっくり歩いていく。本来の通学路は国道側の道を行く方が近かった。わざわざ田んぼ道を通る理由は、人通りが少ないことだった。


 昨日松永に会ったのは、天災のようなものだ。昨日松永は部下どもに、「最近マジ寝てねえ。大学生のセンパイの家で泊まり歩いてんだ。センパイたちマジ眠らせてくんねえの。めんどくせえなー」となぜか自慢話に聞こえるような愚痴をこぼしていた。昨日はたまたまこの辺りの先輩の家に泊まっていたのだろう。


 今日は、松永はいないようで安心した。蝶が、僕の目の前を遮るようにして川の上を飛んでいった。なんとなく蝶を目で追うと視界に異様なものが写った。


 川の段差が一段下がったところに、なにかがあった。それは、坊主の滝修行のように、水に打たれていた。近づいていくとかなり大きいものだった。近づくとそれは自転車だということがわかった。フレームには見覚えのあるロゴがあり、最近替えたばかりのライトが見えた。


 僕の自転車だった。


「高校生になったんだから、ちょっとイイやつ買おうよ」と高校入学と同時に父が奮発して買ってくれた自転車だった。


 タイヤはボロボロで、ホイールは折れた傘のようなありさまだった。そこで僕は父への言い訳を考え始め、その途端、自分が情けなくなり、何もかもが嫌になった。


 父の悲しむ顔は見たくなかった。

 言い訳を言って父を悲しませるぐらいなら、死にたい。


 唐突に思ったのではなく、耐えていたものがその瞬間に消え去ったのだ。


 死のう。

 それがいい。

 それが一番いい。

 我慢の限界だった。


 でもその前に、父が買ってくれた自転車を助けてあげなくてはいけなかった。

 僕はガードレールを越え、土手を下り、川のそばへ近づいた。ズボンの裾をまくり裸足になる。


「あれ、怜くん? 何やっているの。そんなところで」


 声を掛けられ振り向くと心がいた。


「……えっと」


 言葉に詰まる。自分でもどうしてこんなことをしなくてはいけないのか、わからなかった。昨日といい今日といい、なぜこんなことばかり起こるのだろう。

 僕は、楽しいことだけしていたかった。

 自分の心に波風を立たせたくなかった。

 人と関わらなければ、波風なんて立つわけもないのに。


 でも――


 人と関わらなければ、心が言ってくれた言葉で喜ぶこともーー

 昨日のカラオケで楽しむことも――

 できなかった。


 そう思うと僕はどうすればいいか、わからなくなった。

 好きな人だけと関わることができたらどんなに楽だろう。

 どうして嫌な奴がこの世界にいるんだ。

 なんで嫌な奴が、僕に関わってくるんだ。


 僕のことなんて無視していればいいだろうが。


 でも、そういう嫌な奴がいるからこそ、好きな人がいるのだろうか。


 そう思うと何も考えることができなくなった。体が動かせなかった。


「どうしたの。大丈夫」


 心は僕と同じように、土手を下ってきた。


 視界が揺れた。心が体をゆさぶっているらしい。


「何があったの」


 心が僕の正面に廻りこみ、まっすぐに見つめてきた。僕はそこでようやく体を動かせるようになった。目を反らし、自転車を指差す。


「ん、あれって自転車?」


 僕はうなずいた。頭がとても重かった。


「そっか。あれ、怜くんのなんだね」


 心は僕の肘辺りの服を掴んだ。

 幼いころに怪我をして泣いたとき父が頭をなでてくれたことをなぜか思い出した。


「あれ高校の入学祝いに父さんに買ってもらったあんまりないモデルのやつでさ。なんて言って、父さんに謝ればいいかわかんないや」


「怜くんは一つも謝ることなんてしてないでしょ。ちょっと待ってて」


「え――」


 心は靴が濡れるのも構わずに、川に飛び降りた。浅瀬だから、くるぶしほどまでしか水位がない。しかし、自転車が捨てられている場所には、心の身長より高い場所から水がとめどなく流れている。そのため、自転車を掴んだときには、彼の全身はずぶ濡れになった。


 僕はそんな彼を手伝えずにいた。水に打たれる彼のことを見惚れたように眺めていた。


「あ、怜くん。ちょっと手伝って」


 心の声に我に返る。


「う、うん、ごめん」


 僕は慌てて、川へ繋がった階段を下り、心の元へ向かった。

 先頭の心が自転車の前輪を持ち、僕が後輪を持ちながら、階段を上がっていく。階段に苔が生えている部分で、ぐっと踏ん張ったせいで、足を滑らせ態勢を崩した。

 とっさのことだったので、自転車から手を離していた。そのせいで心もバランスを崩していた。


「うわっ」


「心、危ない! 手を離せ」


 僕の叫び声で、心は手を離した。僕は体を起こしている最中に自転車と正面からぶつかり、落下した。


 その途中に見えた心はなんとかバランスを崩さなかったようで、ホッとした。

 次の瞬間、後頭部に衝撃が走り、視界が真っ暗になる。


 このまま死ねたらいいのにと思ったけれど、心にお礼を言わずに死ねないなと思う。


 ♭


 いいにおいがした。


 魚を香ばしく焼いたにおいに僕は目を覚ます。腹が減っていた。においの出どころを探そうとしたが、頭が痛み諦めた。ここはどこだろう。見たことのないフリフリがついた布団に僕は包まれていた。


「おはよう」


 心の声がした。

 頭の痛みを我慢しながら、心の方を向いた。

 心が慌てたように言う。


「まだ、寝てた方がいいよ」


「うん、大丈夫。ここ、どこ?」


「ぼくの家。怜くん倒れたまま動かなかったから、安静にした方がいいと思って、連れてきたんだ。救急車を呼ぼうかとも思ったんだけど、自転車のことが怜くんのお父さんにバレると思ったから、やめておいた。よかったかな?」


「ありがとう。頭はちょっと痛むだけだから大丈夫」


「でもあんまり痛みが続くようなら、病院に行った方がいいよ。ねえ、怜くん、お腹空いてない? もうお昼だし、ごはん作ったんだ」


「うん空いてる。でも学校は?」


「一日ぐらい休んでも平気だよ。そんなことより、ごはん、ごはん」


 背の低い丸いテーブルが心の家の食卓らしく、色鮮やかな料理がぎゅうぎゅうに並べられていた。昨日見た弁当にも驚いたが、食卓に並べられていた料理はまるで発光しているようにうつくしい。

 鮭のホイル焼きから、醤油とバターが絡み合ったにおいがした。よだれが溢れた。茶碗に盛られる炊き込みごはんは、旬の食材がこれでもかと言わんばかりにあふれている。


 僕は頭の痛みなど忘れ、数分で炊き込みごはんを三杯も平らげた。食器を片づけたあと、心が紅茶を淹れてくれた。


「あー、うまかった。心、料理上手だね」


「そんなにおいしかったかな? 人に食べさせたの初めてだったから、緊張したけど、そんなに喜んでもらえたなら、作ったかいがあるね」


 主婦か、君は。


「また作ってよ」


 僕は平然としたふりで、思い切って言ってみた。断られたら、どうしようと胸の中はパニックだった。


「え、うん。喜んで」


 快諾してもらえたようで、ホッとした。

 その後、僕たちは、会話をして過ごした。昨日の父とミーコさんのカラオケの出来事を話した。ミーコさんの容姿と父の衣装を伝えると心は腹を抱えて笑っていた。


 楽しい時間はあっという間に過ぎ、ふと心の家に来た経緯を思い出したときには、夕方だった。


「もうそろそろ帰らなくちゃ。あ、そうだ。僕の自転車ってどこにある?」


「ウチのアパートの駐輪場に置いてあるよ」


「ちょっとの間だけ、そのまま置かせてほしい。自転車の壊れたうまい言い訳を思いつくまででいいから」


「そのことなんだけどさ。あの自転車直してみない?」


「それができれば、いいんだけど……。僕、バイトしてないから、あんまりお金持ってなくてさ」


 言いながら、心に金を催促しているような気がした。当然そんなつもりはないのだが、会話の流れでそんな風に聞こえなくもない。


「ぼくが貸すよ。お金」


 父がよく言っていたことが頭をよぎる。

 人間は金で驚くほど簡単に変わる。怜くんも返すあてもないのに、お金を借りたりしてはいけないよ。

 保険の営業マンである父は金銭の問題に関しては厳しかった。仕事柄、金銭にまつわる嫌なことも見ているのだろう。


 父の言葉を思い返せば、お金を返すあてがあればいいということだ。

 僕はあることを思いついた。それをミーコさんに相談しようと思いついた。ミーコさんなら、もしかしたら相談に乗ってくれるかもしれない。


「心にお金を借りるわけにはいかないよ」


「ううん、大丈夫気にしないでいいから。お金は払わなくてもいいよ。それに、実はもう修理してもらったんだ」


「え? 誰に?」


「近所の自転車屋さん」


「いくら?」


「前後修理したから、三万円したよ」


 バイトをしていない僕にとって、三万円はかなりの大金だった。昨日、贅沢しようと父とミーコさんと使ったお金もそれぐらいだったはずだ。そんな大金をすぐに出せる心の財布事情が気になった。


「心ってバイトしてるんだっけ」


「ううん。仕送りで生活してる」


 心の親のお金を使うなんて、とても申し訳なかった。今すぐにでも心の両親に菓子折りを持って挨拶に行かなければいけないとも思う。


「そんな大事なお金――」


「全然っ大事なんかじゃないよ。こんなの」


 僕の言葉を遮って心は声を荒げる。それまで輝いていた彼の眼から、光が消えた気がした。


 心は立ち上がり、棚の上に置いてあった封筒を取り、テーブルに投げた。封筒の中から、数え切れないほどの一万円札が散らばった。


「これが僕のひと月の仕送り。いち高校生がこんなに使うわけないのにさ。ホントにあの人たちは狂ってるんだ。お金は余るほど持ってるし。三万円ぐらいわけないから修理代出すよ」


 三万円ぐらいわけない。という言葉を聞いた途端、僕の中で得体のしれない感情が沸き起こった。


「そんな言い方しなくてもいいじゃないか。それは失礼だよ」


 それは怒りだった。

 親身になって自転車を運んでくれた友人に対する態度ではなかった。

 食事を振る舞ってくれた友人に対する態度ではなかった。 

 介抱してもらった友人に対する態度ではなかった。


 それでも、僕は怒っていた。


 松永に侮辱されても、ただ我慢していただけの僕なのに、なぜこんなにも怒っているのだろうか。


 きっとそれは、昨日の父とミーコさんの三人で楽しかった時間を侮辱された気がしたからだ。

 つましい生活の中で訪れるささやかな贅沢。あの時間を侮辱されたような気がしたからだ。


 もちろん心にそんなつもりがなかったのはわかっている。

 それなのに、怒りが止まらなくなってしまった。


「どうしたの。怜くん」


 心の怯えた顔を見て、我に返る。


「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ。僕の勝手な……」


 どう謝ればいいものか、わからなくなった。どうしようもない人間だ、僕は。


「ごめんね、ぼくの方こそ。何か気に障ることを言っちゃったんだね。でもね、ぼくは――子どもを子どもと思わない人たちのことを、親とは思えないんだよ」


 心は重力に押しつぶされそうな顔をして、言葉を振り絞った。僕はその顔を見て、申し訳ない気持ちに襲われた。彼にも、計り知れない事情があることに気付いた。


「心にどんな事情があったかは、わからない。僕にも僕なりの事情があって、怒ってしまったんだ。本当にごめん。君がお金のことをゴミのように扱ったのが、許せなかったんだよ」


「ごめんね。嫌な思いさせちゃって」


 ずんと空気が重くなり沈黙が続いた。


 何分か経って僕は思い切って切り出す。


「そろそろ帰るよ。いろいろありがとう。必ず三万円は返すから」


「わかったよ。じゃあ、気をつけて」


 靴を履いていると心が僕を呼んだ。


「ねえ、怜くん」


 振り返り、心を見た。


「今度、カラオケ行くときは、一緒にいってもいいかな」


「もちろんだよ」


 約束を交わし、玄関を開ける。部屋に充満していた重たい空気が空に流れていくのを感じた。

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