♭
帰り道、なんとかしてお金を作り出す方法がないかと考えた。ミーコさんにお金を借りることを考えた。しかしミーコさんに借りて心に渡したとしても、結局ミーコさんにお金を借りたままだ。
それでは駄目だ。
考えたあげく僕がたどり着いた答えは、とてもシンプルなものだった。それは、労働だった。
バイトをすれば、心にお金を返すことだってできる。しかし大学受験が近づいているこの時期にバイトを始めて、すぐに辞めることになっても、働いた場所に失礼だと思った。
それに高校生のバイトで思いつくところが、ファーストフード店、コンビニ、カラオケ、ゲームセンターなど人前に立つ仕事ばかりでうんざりした。しかも松永が出没しそうな場所しかなかった。松永にバイトをしていることがバレたときのことを思うとそれだけで吐き気がする。
要は三万円稼げればいい。となると短期バイトしかないのだが、肝心な問題が一つあった。短期であれ、長期であれ、バイト先での人付き合いを思うと足が震えそうだった。
世の中の人々が、父やミーコさんや心のような人ばかりならいいのだが、それ以外の人に会うことを想像しただけで怖かった。人付き合いを自分から広げるなど、傷口に塩を刷り込み、ねじり込み、揉みこむような行為に等しい。
仕事だけの付き合い、と割り切れればいいのだが、そんな簡単に割り切れるような人間だったら、こんなところで足踏みをしていないだろう。
具体的な解決策は出せないまま家に着いてしまった。
玄関を開けるとミーコさんが、父の好きなクリームシチューを作っていた。父はまだ帰っていない。
正直に言って、ただ三万円を借りてしまおうかとも思うが、父に話が伝わってしまうだろう。もしミーコさんに口止めをしたとしても、罪悪感が付きまとう。
結局働くしか道がなく、高校生でもできるようなバイトかつ接客業以外で何があるか必死で考えた。掃除、とかどうだろうと思いついたとき、僕は天才ではないかと思った。
「もうそろそろごはんできるから、怜くん、手洗ったら」
ミーコさんにうながされ、台所で手を洗う。
掃除なら、人付き合いもほとんどないだろう。僕にうってつけの仕事じゃないか。
「できたわよう」
背後にいたミーコさんの声を聞き、更に思考は広がっていく。そうだ。ミーコさんのお店で掃除させてもらえないだろうか。
僕は思い立った瞬間、勢いよく振り向いた。
それが、いけなかった。
勢い余ってミーコさんにぶつかった。
「きゃっ」ミーコさんは持っていた皿を落とす。
「うわっ」僕は皿の割れた音に驚き飛び上がった。
そのとき、ひじに何かがぶつかったが、そんなことより破片を拾うことのほうがいまは重要だと思った。
僕はしゃがみながら謝った。
「ごめ――」
「危ない!」
ミーコさんが叫んだ。
振り返ると鍋がひっくり返り、クリームシチューが僕の元へ降りかかっている所だった。
さっきぶつかったのは、鍋だったのか。
そう思った瞬間――僕は背中を押され、吹っ飛んだ。
勝手口に背中をぶつけ、息が一瞬止まった。
獣のような声が聞こえた。
見るとミーコさんの両腕のひじから先は、クリームシチューで真っ白になっていた。そのせいか、ミーコさんの顔が一際赤く見えた。
どうしよう。救急車を呼ぶべきか。とりあえず洗い流すべきか。
判断に迷う暇があるならどちらもやればいいと思い、行動した。
「あ、怜くん」近づいてきた僕に向かって、ミーコさんは言った。「さ、皿の破片が落ちて危ないから、気をつけて」
こんなときまで、僕の心配なんてしなくていいのに。ミーコさんのやさしさに頭が下がる。
皿の破片を踏まないように注意して進む。台所の蛇口を全開に開け、ミーコさんの腕に付いたシチューを洗い落とした。クリームシチューの下の肌は、所々赤く爛れていた。
鍋に氷と水を入れ、ミーコさんの腕を冷やす。どこまで意味があるかはわからない。とにかく冷やすべきだと思った。
「救急車呼んでくる」
僕は言って、電話のところまで行こうとした。ミーコさんが僕の腕を掴んだ。ミーコさんの手はとても冷たかった。
「待って」
力強い声だった。
僕の腕を掴む力もその声に合わせたように強くなった。
「なんで」
「救急車は呼ばないで、これぐらいだいじょうぶだから」
「どうしてだよ。こんなに火傷がひどいのに」
「――――よ」
「え?」
ミーコさんの声は、か細く聞き取れなかった。ミーコさんが僕の腕を掴む力が一層強くなった。痛みに思わず声を上げそうになる。ミーコさんの手を外そうと、手を添えた。冷たかったはずのミーコさんの手は少し暖かくなっていた。
「次郎さんが、来るのよ」
意味がわからなかった。
ここは父の家なのだから、来るのが当たり前――来るのはここじゃないのか、と気づいたときミーコさんは、涙を浮かべていた。
「私のお店に、次郎さんが来るのよ……。誕生日だから——歌ってあげたいじゃない」
浮かべた涙はぽろぽろと落ちて、僕の手を濡らす。ミーコさんの涙は火傷するほど熱かった。
僕は謝ることしかできなかった。今日は謝ってばかりいる。
「本当に、ごめんなさい」
「謝らなくてもいいの。私は怜くんが怪我してなくて、良かったと思ってるから。こんな腕になっちゃたら、ピアノは弾けないわね……」
ミーコさんの目に、もう涙はなかった。しかし、表情には諦めが浮かび、泣いているときよりも悲しそうだった。確かにあの火傷の様子では、数日ピアノを弾けないだろう。
今日弾くことに意味があったはずなのに。
謝ってもどうにもならない。だからといって謝らないわけにもいかない。その気持ちを行動に移すべきだった。
ミーコさんに必要なことを考えたとき、僕は思うより早く言葉にしていた。
「ミーコさんが弾けないのなら、僕が代わりにピアノを弾くよ。だから、ミーコさんは歌ってあげてよ。父さんのために」
言ってから、ミーコさんのお店ってオネエバーだったことに気付いた。接客業。それもかなり特殊な。だがいまさら後に退くわけにはいかない。オネエバーで、働けたら僕には怖いものなんてなくなるような気がした。