♭
「今日のピアノの出来は、とてもじゃないけど合格をあげるわけにはいかないわね」
瞳ママは腕を組んで、射るような目つきを僕に向けた。 閉店した後に、店内の隅に呼び出されて懇々と説教を食らっていた。
怒られても仕方がない。心のことが気がかりで、ピアノに気持ちが入らなかった。譜面を間違えるようなことは幸いなかったが、瞳ママは重要な部分をしっかりと押さえていた。
「ねえ。怜くん。何があったのかは知らないけどさ、仕事は真剣に向き合ってもらわないと。私もミーコも、他の子たちも困っちゃうからさ」
「すいません。気をつけます」
「――何があったのか教えてくれる気はないかな?」
「え?」
まだ怒られると思っていた僕は、突然のやさしげな問いに口ごもる。何故だかオネエの人たちは僕にやさしかった。僕はいつも必死にピアノを弾いていただけで、やさしくされるようなことをした覚えは全くなかった。
「なんでもないです」
「そんなことないでしょう? 私にはわかるんだから」
「なんでですか」
「ミーコに一部始終を聞いたからよ」
僕はミーコさんを睨む。ミーコさんはナタリーとふざけ合っているのに夢中で僕に気付いていない。
「なんてね」瞳ママはパイプの煙をくゆらせた。「冗談よ。君はわかりやすい子ね」
「どうしてそんな風に思ったんです?」
松永達からは、「山グソ。おまえ、何考えてるかわかんねえからキモイんだよ」と罵りを受けたことがあった。そんな僕をもってして、わかりやすいとは、どういうことだ。
「顔」
「かお、ですか」
高い声で笑う瞳ママの目尻に皺が刻まれ、「怜くんは、いかにも困ってますって顔をしているのよ。誰か助けてください。僕に構ってくださいって顔をね」と続けた。
「そんな顔してますかね」
「現在進行形でしているじゃない」
瞳ママはのけぞって笑う。
「なになに。楽しそうじゃない。なんの話? 私も混ぜなさいよ」
ナタリーがずけずけと僕と瞳ママの空間に割って入る。
「怜くんの顔がわかりやすいって話。でもナタリーも似たようなものだけどね」
「ちょっとママ、心外」
「それがナタリーだから」ナタリーと一緒に近くまで来たミーコさんが追い打ちをかける。
「ミーコ姉まで、何なのよお」
ぐぐぐっと眉を寄せ、歌舞伎役者のような顔をするナタリーを見て、僕は思わず噴き出しそうになる。数秒堪えたが無理だった。
「おい新人ちゃん。笑ってんじゃないわよぉ」
ナタリーが僕を小突く。そのときふとナタリーの名前の由来を心が気にしていたことを思い出した。
「そういえば、ナタリーさんの名前の由来ってなんですか」
「怜くん、聞いちゃダメ!」
「後悔するわよ!」
ミーコさんと瞳ママが叫ぶように言った。ナタリーにも、ミーコさんのように悲しい過去があるのでは、と勘繰ってしまう。
「いいの。ママ、ミーコ姉。言わせてちょうだい」決意を胸に込め、ナタリーはまっすぐ僕を見つめ、衝撃の事実を語り始めた。
「それはね……ナタリー・ポートマンに、似ているからよ」
「はあ? ハリウッド女優の?」首をこれ以上ないほど僕は傾げざるを得なかった。誰もが美しいと思うほどのあの超絶美人だと?
「ええ」
顔を赤らめて、はにかむナタリーの顔は、到底ナタリー・ポートマンに見えない。まだモーガン・フリーマンなら納得いくのだが。
「あの『レオン』のナタリー・ポートマン?」
「ええ。『スターウォーズエピソード1・2・3』のナタリー・ポートマンよ」
「『ブラックスワン』のナタリー・ポートマン?」
「もうやめて」ミーコさんが手で顔を覆い、「この子に悪気はないの。悪く思わないで」瞳ママは虚空を見つめる。そこで、この人たちがふざけていることに気付く。
「えっと……ナタリー? 似ているってどこが?」
「ホクロの位置よ」ナタリーは両手で右頬と左頬のホクロを指差した。
「そこだけじゃねえか」僕は思わず言っていた。
一瞬、殺意が芽生えた後、ミーコさんと瞳ママが、腹を抱えて笑い始めた。僕もつられて笑い、ナタリーだけが真剣に怒っていた。
家に帰ってから、僕は手紙を書いた。心に向けて。ナタリーの名前の由来を書き、ナタリー・ポートマンの画像を印刷したものを封筒に入れた。学校に行く前に、心の郵便ポストに入れておこうと考え、眠った。
その日の夢に、ナタリーが出てきそうで怖かった。
♭
心の家に着いた瞬間、胸騒ぎがした。心の家の前に、吸い殻とペットボトル、ビール缶、菓子のゴミが散在していた。まるで誰かがここで宴会でも行ったかのようだ。
玄関のドアノブがなくなっていた。ドアノブがあった場所の周りは、傷だらけで何が行われたかを容易に想像することができた。
ドアノブがあった空洞に手をかけ、ドアを開く。
室内は昨日まであったであろう清潔さのかけらなど、微塵もなくなり、そこにはおぞましい悪意だけがあった。枕にブラジャーとショーツが取り付けられ、心の顔写真が貼り付けられていた。
僕は急に息苦しさを感じ、呼吸を求めた。部屋に入ってから、呼吸をするのを忘れていたらしい。呼吸をしたことにより、心の感情が、僕の体内に入り込んでくるようだった。それは感じたことのない感情で、悲しみと怒りと憎悪と殺意が混ざったモノを悪意が撹拌させているようだった。
部屋の隅にノートパソコンが置かれていた。ノートパソコンがそこにあるのが、どことなく不自然に感じた。僕は恐る恐るノートパソコンを開いた。モニタの中心に動画ファイルがあり、「山グソへ」というタイトルが付いていた。
そのファイルに不気味さを覚えながらもクリックする。
真っ暗な画面に、甲高い悲鳴声が聞こえた。それは、女性の声ではなく、心の声だと瞬時に悟る。粗雑な手つきでカメラが動き出す。どうやら、サッカー部の部室のようだった。
心は棚に括りつけられ、服と髪が乱れていた。怒りを露わにして、カメラを睨んでいる。そこで僕は、まるで自分が怒りを向けられているかのように錯覚する。それはあながち間違いではないのだろう。彼がいまこんな目を受けているのは、僕の所為なのだから。
不意に画面外から、なにかが勢いよく心にぶつかった。サッカーボールだ。いくつものボールが心を目がけて飛んでいく。心にボールがぶつかるたび笑い声が響いた。
松永がぬっと画面に現れた。汚物のような笑顔が張り付いている。
「おい、山グソ。見えてっか? お前ら、調子乗ってるから、とりあえずどっちが上かケジメつけることにしたわ」
低い音。鈍い音。乾いた音。音が響くたびに心のうめき声が聞こえた。怒りのあまりかみしめた奥歯が、割れそうなほど痛かった。
「いまから十万円持って謝罪しに来たら、許してやっから、この動画見たら、すぐに部室まで来いや」
こいつらは、阿呆だなと思う。この動画があれば、暴行罪、脅迫罪の動かぬ証拠となるだろう。警察署に寄り、この動画を見せ、逮捕してもらおう。
「警察に言ったら、どうなるかわかるよな? もし言ったら、こいつの秘密をSNSで全校生徒にバラす。こいつが二度と社会に出れないようにな」
松永は心に近づき、学生服のボタンを取っていく。学生服の下は、シャツ一枚もなく、下着だけを身に付けていた。
一同がゲラゲラと笑い出す。
「なんで、ブラジャー着けてるんですかー?」「ウケる。最高かよ」「生オネエはっけーん」
口々に心を罵り、手に持ったスマホで写真を撮っていく。シャッター音が非情に鳴り響き、その音が心から表情を奪っていく。
「山グソ。いいか、今日中に十万円持ってこい」
松永が話し終えたとき、一人の子分が松永に近づき耳打ちをし始めた。松永の顔に下品な笑みが膨らんでいく。
「傑作だ」松永は子分と腹を抱え、笑い始めている。その様子に、他の子分たちも集まり、松永はひそひそと話していた。何を話しているかは、わからなかったが、僕と心に不利益なことであることは容易に予測できた。
話し終えると下品な笑い声が巻き上がる。松永は、涙を流すほど笑っていた。心は話し声が聞こえていたのか、弱々しく首を振り始めた。
「ははは、おい山グソ」松永は涙を拭いながら、笑いをこらえきれずといった様子で話し始めた。「おま……おまえ、金用意しなくても、いいや。そのかわり……コイツとセックスしろ。そうしたら、許してやるよ」
「超おもしれえ」「松ちゃん、マジ最高かよ」「笑い過ぎて腹いてぇ」
笑いの輪が爆発的に広がった。それに比例して、僕の怒りも比例する。
僕の中で出来上がった憎悪の器に、怒りがくべられたとき、突如割れるような耳鳴りがした。松永が続けて何か言いかけていたが聞く気など起きず、僕はノートパソコンを壁にぶん投げた。パソコンの画面が割れ、耳鳴りが止み、束の間の静寂が訪れた。これで、悪行の証拠が消えてしまったという後悔も少なからずあったが、心の尊厳を守るためには、こうするべきだったのだと自分に言い聞かせた。
心を助けに行かなくてはいけない。
心が直してくれた自転車に跨り、サッカー部の部室へと急ぐ。僕は初めてできた友だちを最悪な形で失いそうなことに気付き、涙が溢れた。だが涙が零れないように我慢しペダルを漕ぐ。
頼むから、間に合ってくれ。
神とか運命といったものに対して、僕は必死に懇願した。だが何も返答は何もなかった。だがその間、以前ミーコさんが言っていたこと思い出し、そこに答えを得た気がした。
――涙を流す労力があるのならば、前に進む推進力に変えるべきよ。
いまが、そのときだ。