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家に着くと父がワインを飲んでいた。父にしては珍しく夜更かしだなと思ったら、案の定風呂上りのミーコさんだった。いくら、楽だからといって、父と同じパジャマを身に付けるのだけはやめてほしい。キャミソール姿のミーコさんを肯定しているわけではないのだが。いつもの僕なら、なにかしらイヤミの一つでもいうのだけれど、今日はそんな気分にもなれなかった。
「怜くん。おかえりなさい。どうだった? お友達と仲直りできたの?」
僕は首を振って返した。いつもの僕ならば、部屋に引きこもりにいくところだったが、ミーコさんに話さなくてはいけないことがあった。
「途中まではよかったと思うんだけどさ……。ダメだったよ」
「ダメって何が? 聞いてみてから私が決めるわ」
傲慢な物言いのミーコさんに呆れると同時に、その傲慢さにどこか心が安らぐのも感じた。
「僕の友達がね、男だと思っていたんだけど。実はそうじゃなかったんだ。だから、ちょっと違うかもしれないけれど、その――」
「私たち、みたいなってこと?」
「そう、なのかもしれない。詳しいことは訊けなかったから、わからない」
「じゃあ、怜くんの勘違いなんじゃないの?」
ミーコさんに問われながら、僕の説明が足らないというよりは、僕自身がその事実から逃げようとしているからか、核心を話せずにいた。
「違うんだミーコさん。ブラジャーがあったんだ。ベッドの下に」
「でも、それだけじゃ、わからないでしょ。きっと付き合っている彼女のものよ」
「だから違うんだって。それだけじゃなくて、ブラジャーを着けた跡が彼の胸にあったんだ」
ミーコさんは、目を一際大きくさせ、黙り込んだ。
「それを見たから、心を怒らせてしまったんだ。また来るって言い残してきたけど、無視されちゃったよ。ねえミーコさん? 僕はどうすればいいのかな?」
「また訊いてる。怜くんがどうしたいのかを考えるべき、なのだけれど今回ばかりは、さすがのわたしも助言しちゃうわ。無視されたって怜くんは言ったけれど、否定されていないってことは、望みはゼロじゃないわよ」
「え?」
「その子は、怜くんのことを嫌いになったから怒っているんじゃなくて、自分でもどうすればわからなくなったから怒ってしまったってことよ。だから、怜くん、当たって砕けろ、よ」
「なんで、恋のアドバイスみたいになってるんだよ」
「あれ、違ったっけ?」
「違うって」
「まあいいわ。あとは、怜くん次第ってこと。その子のありのままを受け入れるか拒絶するか。拒絶したら、怜くんのその悩みなんて一瞬で無意味になるから、いま悩んでいるってことは、怜くんはその子のことを受け入れたいのよ。でも、怜くんが受け入れたとしても、その子が受け入れるかどうかはまた別の話。でも、ゼロじゃないから、希望はあるんだから、それに賭けてみるのも悪くないんじゃないかな」
「でも、ミーコさん。その希望に賭けても、また失敗するだけだよ」
そうだ。きっとそうだ。すべてが悪い方悪い方に転がっていくだろう。いままでもそうだった。何をやっても、うまくいかない。
「だから、なによ」ミーコさんは満面の笑みを浮かべる。「私なんか、怜くんの四億倍も失敗してるわよ。始めからうまくいかないって思うのはやめなさい。そんなクソみたいな考え、自分に不利益しか生まないのよ。いい?」
僕は、頷きを返す。確かに今まで、駄目だからといって、今回もそうだとは限らない。じゃあ、四億に一回ぐらいはミーコさんの言う通りにしてみてもいいかもしれない。
「とにかく」ミーコさんは人差指を立てる。「押してダメなら引いてみろってことよ」
「さっきと言ってる事違うよ。ミーコさん」
「え、そうだっけ?」
ミーコさんが豪快に笑う。
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昼休みになっても、心は学校にこなかった。いつものように、屋上のドアを開ける。
はしごを昇るとそこに巾着袋が置いてあった。何かしらの予感を覚えながら、巾着袋を開く。中には弁当箱があった。見覚えがある。心のものだ。
心が来ているのかと辺りを見回したが、屋上に隠れられるようなところはない。どうしてここに弁当箱だけあるのだろう。もしかしたら心は学校まで来たけれど、教室までは入って来られなかったのかもしれない。
ポルカドットで心と目があった翌日の僕のように、クラス中の噂になっているのではないかと怖くなったのだろうか。そして、弁当だけ食べて帰ったのかもしれない。弁当箱を持ち上げてみると重かった。中には、ほかほかのごはんと色とりどりのおかず。巾着袋の中には、まだ何かがあった。それは折り畳まれたメモだ。メモを開く。
――よかったら、これたべて。
メモを読んで、気付く。わざと忘れたのではなく、僕のために置いていったのか。弁当は、とてもおいしかった。だが、僕はどうしてこれを一人で食べているのだろう。
心と一緒に昼食を取ったときのことが、つい最近のことなのに、懐かしく思えた。
弁当箱の入った巾着袋をカバンにしまい、歩いていると急にヘッドロックをされた。むわっと広がる脇の臭い――松永だ。
「痛い。やめて」
僕は松永の腕から逃れようとしたが、締め付けが強まり逃れられなかった。痛みと悪臭に殺されそうだった。
「やだね。やめねえ」松永は左手で僕の頭を殴りながら言う「やめて欲しいか?」
「だから、やめてって言ってるじゃないか」
日本語も理解できない腋臭野郎に、膨らむ殺意。
「じゃあ、条件がある」
理不尽な松永にしては珍しく交換条件を示唆してきた。嫌な予感がする。
「な、なに?」僕は条件をハナから呑む気などなかったが訊いた。
「転校生の家、教えろ」
「なんで?」
「アイツ、一人暮らしいじゃん。俺らの遊び場にしようと思ってんの。俺、頭いいだろ」
どこが? と問うてやりたかったが、ぐっと堪える。
「オマエ最近調子に乗って、あいつと仲いいから知ってんだろ?」
「知、らない」
頭の締め付けが更にきつくなる。
僕は心のことを絶対に話さないと胸の内で誓った。もう、友達のことを裏切りたくはない。
「知ってるに決まってんだろうが。オマエと安倍が話してるの聞いてたんだっつうの。安倍に、なんか頼まれて、今日、アイツん家行くんだろ」
確かにその通りだった。休み時間前、担任の安倍先生に、明日までに必要な書類を渡し、翌日受け取って来てほしいと頼まれていた。そのときに、安倍先生は、「川島は一人暮らしだから、友達の山口に頼みたいんだよ」といった。友達というフレーズに、僕は一も二もなく返事していた。心の家に行く口実ができたと胸が高ぶった。
それを、聞かれていたのか――
「なあ、連れてけって。なあ!」
不意に腹を殴られ、うずくまりそうになるが、頭の締め付けのせいで無理だった。腹を殴られるという痛みには慣れることなどない。
「嫌だ。……絶対に」
「はあ? 山グソのくせに調子のんじゃねえ」
「あれ、まっつー何やってんの」取り巻きその一の声がした。
「こいつがさあ、俺らの遊び場になる場所教えてくんねえんだよ」
「なに遊び場って?」
「あの転校生いるじゃん? あいつ一人暮らししてるらしい。だから、その家借りてさ、たまり場にしようと思って。ほら、そしたらラブホ代とかかかんねえじゃん? 部室だと嫌がる女もいるしな。あと部室寒いし」
「さすが、まっつー頭いい名案じゃんそれ」
こいつらの頭は性器でできているのではないだろうか。
「だろ? だから、早く教えろや」
取り巻きその一に尻を蹴られ、松永からの拳骨を頭部にくらう。
取り巻きその二、その三が集まり、僕はしこたま弄ばれた。暴力を受けている間、目を閉じ、歯を食いしばりながら、心の作った弁当の味を懸命に思い出していた。
次の授業のチャイムが鳴ると松永達は、暴言を残し去っていった。
そのとき僕は、なぜかわからないが松永達に勝ったような気がしていた。廊下のガラスに映った僕の顔はとても勝者のようには見えなかったのだけれど。
次の放課も、松永達がちょっかいをかけてきたが、僕は耐えた。松永達は僕に怖気づいたのかもしくはあきらめたのか、驚くほどたやすく、僕にちょっかいを出すのをやめた。
完勝だ。
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ぼろぼろの姿のまま、心の家にたどり着く。途中何度も振り返り、松永達がついてきていないかを確認した。姿は見えなかったが、用心のために通常使わないルートを進んだりもした。
インターホンを鳴らすのは、やめておく。僕はまだ顔を合わせるのが恐かった。プリントの入ったビニール袋をドアノブに吊るし、メッセージを送る。これできっと気付いてくれるだろう。
帰ろうと振り返ったとき、バイクの音が聞こえた。排気音が無駄にうるさかった。その音が近づいてきている。
「よう。山グソ」
目の前に現れたのは、原付に乗った松永達だった。なんで、ここがわかったのだろうか。僕の心情は、よほどわかりやすかったのだろう。
「なんでわかった? って顔してるなあ」松永が僕の心情を言い当てる。「種明かししてやるよ」
そう言って松永は、スマホを耳に当てる。どうやら電話をかけているらしい。それになんの意味があるのかは不明だ。僕の番号は松永達には知られていない。そもそも僕がスマホを持っていることを松永は知らないはずだった。
突如、僕のカバンが振動した。松永のニヤニヤ顔が不快だった。振動の主を探る。そこにあったのは、見たことのないスマホだった。悪趣味なストライプのカバーが付いている。
取り巻き達がどっと笑う。スマホの画面は、地図のようなアプリが立ち上がっていた。このアプリを活用し、松永たちは、ここまでつけてきたらしい。
なんて卑怯な奴らなんだ。僕は睨む。
「おい、なに睨んでんだよ。山グソのくせにそれおれのだから返せよ」
部下その一が近づき、僕の手から悪趣味なスマホを奪う。奪われた際、不意に肩を押され尻もちをついた。
「そこが、アイツの家なんだな」
松永達は一様にいやらしい笑みを浮かべていた。松永が、一歩ずつ近づいてくる。
僕は一歩も動かなかった。決して動けないわけではない。友人を悪意から守ろうという確固たる意志で僕は立つ。
「どけよ。山グソ」松永は僕に唾を吐く。
その唾が靴にかかった。僕は松永から目を反らさなかった。
「……嫌だ」
「はあ?」
「嫌だ、って言ってるんだ」
「なに? てめえ、調子――」
不意に扉が開き、松永に勢いよくぶつかった。松永はうめき声をあげた。扉の内側にいた心が扉を開いたまま僕の手を引っ張り、家の中に招き入れた。
僕が玄関に入ると同時に心が扉を閉める。
「ふざっけんな」
閉まり切る直前に、外側から松永が扉を掴んだ。心がバランスを崩す。その姿を見て、僕は慌ててドアノブを掴む。二人がかりで、何とか閉めた。松永が外から扉を蹴っている。
「ありがとう」
僕は心に言ったが、彼は無視をした。僕を無視したまま彼は電話を取り出し電話をかけ始めた。話から察するに、警察に電話しているようだった。
「あいつらがいなくなったら、すぐに出て行って」
切り捨てるように言う心に僕は反論ができない。松永達が喚きながら、扉を蹴る音が鳴り響いていた。僕は玄関に立ったままでいた。心はテーブルの前でひざを抱えて座る。僕らは無言のままだった。
外から、「やばい。警察だ」という声が上がるとにわかに静かになった。このままだと心の言った通りこのまま出て行かなくてはいけないが、とりあえずはなにか話さなくてはと焦る。
「これ、先生から渡されたプリント」
プリントを渡そうとしても、心は視線すら合わせようとしなかった。仕方なくテーブルに置きながら、弁当箱を取り出す。
「お弁当美味しかった。また作ってくれよ」
そのとき、心がうなずいたように見えた。だが、心は抱えたひざに顔を埋めたまま動かなくなった。
うなずいたのか、うなだれたのかわからないまま僕は家を後にする。
扉が閉まった後に、控えめに鍵を閉める音が聞こえたとき、さっきのはうなずきだったのではないかとわけもなく思う。