♭
「桜庭センパイが来てるから、外出るのやめとけって」
松永は顔を引きつらせていた。キャプテンとちあき先輩が亡くなった日から、松永は桜庭を怖がっていた。自分も殺されるのではないかと急に怖くなったらしい。殺されればいいのに。
ちあき先輩のように蹂躙され、キャプテンのように顔をつぶされてしまえばいいのだ。そもそも原因を作ったのは松永だ。
桜庭は時折、学校にやってきた。
あの事件から二年経ち、桜庭はもはや天災の類として扱われていた。桜庭は事件の噂をいいように使い、学校に来てはその学校にいる人間に悪意を振りまいた。目を付けられたものは、悲惨な目に遭っているという噂が絶えなかった。
もし、心が桜庭に目を付けられたら――。
そう思うと居ても立っても居られなかった。
松永の制止を無視し、図書館を出て教室に向かった。教室に通ずる曲がり角に差し掛かったとき、悲鳴が聞こえた。
見るとそこには、桜庭がいた。桜庭の足元には、体育教師の所田が顔を押さえ悶えていた。押さえた手から血が溢れていた。桜庭は所田の腹を蹴り、とどめを差してから、僕の教室に入った。
僕は駆け、教室の中を見る。クラスメイト達が怯えていた。恐る恐る逃げるもの、かたくなに目を反らすもの。その中で心だけは、そこにいることが不自然に思えるほど冷静に座っていた。
心はその端正な容姿を差し引いても、目立っていた。心だけが、桜庭を気にしていない様子だった。桜庭が心に気付き、近づいて行った。
僕の足はピクリとも動かなくなった。
心はスマホにイヤホンを差し音楽か何かを聴いていたが、目の前に来た桜庭に気付き、イヤホンを外した。
桜庭はその瞬間、彼の横顔を叩き、横倒しになった心の顔が僕の方を向いた。心の顔には、「なぜ」という疑問が張り付いていた。その疑問に解答を返す間もなく、桜庭は心の襟首をつかみ、教室から出て行こうとする。心は抵抗したが全くの無意味だった。
僕の横を桜庭が通りすがるとき、心の表情が僕に助けを求めていた。
僕はそのすべてから、目を反らした。
授業の始まりを告げるチャイムの音が、なにかの終わりを告げる悲鳴めいたものに聞こえた。
♭
「ミーコさん……今日のバイト、いけない」
僕は帰るなりそう告げて、部屋に籠った。身体の震えが止まらなかった。心のその後の様子を知るのが、怖かった。メッセージが来る可能性に恐怖を覚え、スマホの電源を切った。
「どうしたの? 怜くん」
廊下からミーコさんの声が聞こえた。僕は無視し続けた。
扉の開く音が聞こえた。
「怜くん? 入るわよ。大丈夫?」
普段のミーコさんは、僕が扉を開くまで絶対に開けようとしない。一緒に暮らしているけれど、あくまでも他人だったからか、そこだけはかたくなに守り続けていた。普段の僕だったら、勝手に自分の部屋を開けられていたら、怒鳴っていただろう。そうしなかったのは、ミーコさんとの距離が近くなったからではなく、扉を開けてほしかったからだと思う。
ミーコさんが電気の点いていない僕の部屋に入り、ベッドの前に座った。ミーコさんは僕の手に触れる。指と包帯の感触がした。触れた指先がとても柔らかかった。
ミーコさんは黙ったまま、僕の手を掴み続けた。時間が経つに連れ、冬の寒さを感じたが、なぜか身体の震えは少しだけ収まった気がした。
「ミーコさん……仕事は?」
「今日は休みよ。それに怜くんがいなかったら、歌いたくないもの」
「ごめんなさい。僕の所為で」
「本当にその気持ちがあるのなら、何があったか教えてくれないかしら」
「……」
僕はどこから話すべきか考えた。考えに時間を費やしても、結局答えが見つからなかったとき、ミーコさんが「全部教えて」と言った。
僕は語った。時折、話の順番がぐちゃぐちゃになりながらも必死で伝えた。僕が話す間、ミーコさんは手を離さなかった。うん、うん、というミーコさんの相づちを聴いているうちに僕の身体の震えはいつのまにか止まっていた。僕は全部話し終えた。
「それで?」ミーコさんは手を握る力を強めた。「怜くんはどうしたいの?」
「僕は……どうすればいいのかな?」
「私が訊いているのよ。それを。質問に答えて」
ミーコさんは僕の両手を掴み真正面に座った。
僕は考えた。
選択肢は始めから、二つしかなかった。
簡単な問題に見えたが、ひどく時間がかかった。選択肢で一つだけ明らかになのは、楽か大変かだった。僕はいつもこういった選択をするとき、楽な方を選んできた。正確にいうならば、それは楽などではなく何も考えていないに等しかった。考えて失敗したときのことを思えば、考えた時間が無駄になるのだから、考えない方がよく、楽な方を取るべきだった。
――これまでは。
「怜くん。逃げちゃだめよ」ミーコさんは両の手で、僕の右手を包み込んだ。「なりたい自分になるか、なりたくない自分になるか。怜くんはどっちを選ぶの?」
「僕は、僕には、なりたい自分なんか、ないよ」
僕の声はミーコさんまで届かないのではないかと思えるほど弱々しかった。
ミーコさんはそんな僕の声をちゃんと聞き取っていた。
「じゃあ、なりたくない自分はいるの?」
その問いに考える。
いじめられている自分。友だちのいない自分。恋人のいない自分。勉強のできない自分。運動のできない自分。自堕落な自分。家族を傷つけたくないあまり嘘をつく自分。偶然にだがやっとできた友だちを助けてあげられない自分。
なりたくない自分は、いま現在の僕自身のことだった。
「ミーコさん……僕は心に謝りたい」
「怜くん」ミーコさんは僕の肩をつかむ。「涙を流す労力があるのなら、前に進む推進力に変えるべきよ」
「前に進む推進力って、意味が二重になってるよ」
頭痛が痛いって言う言い回しみたいだ、と僕は思わず笑った。
「二倍進もうって意味なのよ。多分」
そんな風にうそぶくミーコさんが、僕は好きだ。
♭
僕は布団から抜け出し、ミーコさんの作ったからあげを食べた。十個以上は食べた。油に負けているようでは、僕の選択したものに対して打ち勝てないと思った。からあげを食べた僕は心の家に向かった。心の家まで、全力で走る。
心の家は電気が点いていなかった。心臓の鼓動が早まった気がしたが、全力で走ってきたからだと心臓に教え込む。
インターホンを鳴らす。鳴らした瞬間、心は部屋の中にいるとわかった。僕は居留守の達人なのだ。誰かが居留守をしている空気などすぐにわかる。インターホンを何度も鳴らしたが、心が出てくる気配がなかった。夜も更けていたため、呼びかけては近所迷惑になるだろうと自重した。
僕がここに来たのは、インターホンを鳴らしに来たわけでも、心の顔を見に来たわけでもない。謝りに来たのだ。だから、僕はドアの前で、何度も頭を下げた。心は見ていないかもしれない。僕の思い違いで本当は、部屋の中にはいないのかもしれない。
それでも僕は、何度も頭を下げた。何度も。何度も。
「もう、いいよ!」
インターホンから心の声が聞こえ、ドアが開いた。
僕は頭を下げる行為が習慣化しすぎてしまい急に止めることはできず、ドアに頭をしたたかにぶつけた。
「ごめんね。大丈夫?」
謝りにきたのに、謝られてしまった。自分自身のふがいなさと心がありのままで接してくれていることに、自然と笑顔がこぼれていた。
頭を押さえている僕を見て、心もぷっと吹き出していた。
心がお茶を出す準備をしている間、僕は見てはいけないものを見てしまった。僕の座った位置の正面にベッドがあり、そのベッドの床とのすきまにブラジャーが落ちている。どきりとした。脱ぎ捨てられた下着の淡いピンク色がひどく艶めかしく見えた。
心のルックスならば、女性を連れ込むのもわけはないだろう。そういえば布団のカバーもフリフリで女の子のチョイスでしかありえないものだった。連れ込むのではなく、もしかしたら同棲のようなことをしているのではないだろうか。ブラジャーを見ていると同級生が、大人の世界にすでに足を踏み入れていることに羨望と嫉妬が入り混じり、僕の股間はうごめいていた。
心がテーブルにお茶を置き、座った。ブラジャーは彼の体に遮られ見えなくなった。僕は謝りに来たはずなのに、心に恋人がいるのかどうかが気になっていた。そんな自分に嫌気がさし、その思いを振り払うように頭を振った。その勢いのまま頭を下げる。
「今日のこと、ごめん」
「今日のことって?」
とぼけたように言う心。頭を上げ、見ると彼は首を傾げ僕を見ていた。本当になんのことを言っているのかわからない様子だった。
「えっと、だから、あの人から助けてあげられなくて……」
「ああ、そのことね。大丈夫だよ。もしあの場で怜くんから助けてもらったりしたら、怜くんがもっとひどいことになっていたと思う。だから大丈夫だよ。ぼくのことは気にしないで」
手を振って何でもないことのように笑う心の笑顔は作り物のように嘘くさかった。
もっとひどいこと。というからには、何かしらひどいことをされたのではないだろうか。
「大丈夫って、本当か? なにかされたのか?」
「……ちょっと」心は言い淀みながら、続けた。「お腹を殴られただけだよ」
何の理由があって、僕の友人はそんなことをされなければいけなかったのだろうか。僕は、自分の殺したい人間リストに桜庭を松永の次に追加した。
「殴られたなら大丈夫じゃないだろう」僕は心に近づく。「殴られたところ見せて」
皮肉にも僕は、殴られることのプロだった。怪我の具合に応じた最適な治療を熟知していた。だから、少しでも治す手伝いができれば、そう思った。
「やめて、いいってば」
心の嫌がり方が尋常ではなかった。殴られた箇所は大分、悪くなっているのだろう。彼は、その傷を僕に見せまいと意固地になっているのだ。
「いいから見せるんだ」
なぜか僕まで意固地になっていた。嫌がる心の手を押しのけ、勢いあまりトレーナを胸元までめくり上げた。心の腹の痣はそれほどひどいものになっていなかった。
僕は一安心した。だが、視線を上げたその瞬間、僕は呼吸が止まった。視界の端に見慣れないものがある。
心の胸に痣のようなものがあった。それは殴られた痣などではなく、いまさっきまで何かに締め付けられた力が働いた跡だった。
そこで、ベッド下のブラジャーが脳裏で繋がる。
フリフリのベッドカバー。
ポルカドットの出会い。
それらが、全て繋がっていく。
心は――。
「やめてってば」
心が僕を突き飛ばす。ひっくり返りそうになった僕を見て、心は慌てた。僕が体勢を立て直すと安堵の表情を浮かべた束の間、顔を背けた。
「出ていって」
トレーナの裾を直しながら心は小刻みに震えていた。その震えは怒りなのか悲しみなのか判断がつかなかった。
「ちょっと待ってくれよ」
僕は心の傍に近づき、肩に触れようとした。だが、心の体の周りにさっきまではなかった空気の膜のようなものがあるのを感じ取った僕の手は、心に触れることなく、宙を漂った。
「出ていけ!」
心の声に僕の手ははじかれる。
こんなはずじゃなかった。
ただ、謝りに来ただけなのに。
心の触れてはいけない部分にまで踏み込んでしまった。僕はバカだ。
「心、ごめん。また、来るから」
そう言い残し部屋を出た。心は僕の発言を無視したまま人形のようにピクリとも動かない。
風にあおられた扉が盛大な音を立て、閉まる。