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翌日から僕は学校に通いだした。心の家の前で待ち合わせをした。
学校に向かう途中、僕は心に忠告した。
「学校の中では僕とはあまりしゃべらない方がいい」
「どうして、そんなこと言うの……」
「僕は、クラスのみんなからは、空気のような扱いを受けているんだ」
「いじめ、ってこと」
「そうかもしれない。基本的にみんな僕を無視して過ごしている。だけど例外があって、あの松永ってヤツには、暴力を振るわれている。この前の自転車を壊したのもアイツだ。心が転校して来る前には――」
バスケットボールの授業後に受けた仕打ちを語った。
「先生には、相談しないの」
「したよ。したけど、諦められた」
「そんな……。じゃあ、これからは放課の間はぼくと過ごそう」
「ダメだよ。それは。君もいじめられてしまうかもしれない」
「大丈夫。ぼくはいじめを受けるのには、慣れているから」
「え?」
どうして? と続けようとしたが、心の眉には、あの溝が浮かび、僕は訊くことを躊躇った。とても、いじめを受けるのに慣れているとは思えなかった。しかし、彼は明らかに、いじめを受けることに恐怖を抱いているように見えた。そもそも、あの理不尽な暴力に慣れることができる人間なんていない。
学校が近づき、登校する生徒の姿が辺りに増えてきた。
「とにかく、学校の中では極力話さないようにしよう。いいね。じゃあ昼に、屋上で」
僕は心に迷惑が掛からないようにするため、早足で学校に向かった。待って、という声が聞こえたが構わずに足を早めた。
1時限目の放課になったとき、僕は素早く教室を出て、図書室に向かった。図書室という崇高な空間には、松永一派を遠ざける結界が張られているらしく、僕は図書室を避難場所としてよく利用していた。
図書室にはほとんど人がいなかった。静かなひとときのおともに、カフカの「変身」を手に取った。手に取った理由は、なんとなく聞いたことがあるタイトルだったからだ。もしかしたら、僕はこの本を読めば、何者かに変身できるのではないかと淡い期待を抱いたせいもある。
本を開こうとしたとき、急に廊下が騒がしくなった。逃げろ、ヤバい、と口にしながら、何人かが廊下を走っていく。
どうせ、仲間内でふざけあっているのだろう。うるさい奴らだ。
その内の一人が、図書室のドアを開けた。僕の場所から後方のドアだったので、顔は見えない。
「ここなら、やり過ごせるかも」
騒々しい奴らが、がやがやと入ってきた。十人ぐらいはいるようだった。
静寂な時間はあっけなく終わりを告げた。初めから、図書館にいた数人が騒々しい奴らに睨みを利かせ不満を露わにしていた。僕もその人たちに加担する。
後ろを見ると松永一派並びに松永連合軍だった。平たく言うなら、三年サッカー部だ。
「あ、山グソじゃね?」
松永一派の足軽が、僕に気付いた。松永が僕を睨む。
「てめえ、何やってんだよ。こんなところで、調子乗ってんじゃねえぞ」
調子乗ってねえし、本読んでんだよ。図書館は本を読むところだろ、ばーか。
僕は聞こえないフリをして、図書室を出ようとした。
「おい、いま、出ない方がいいぞ」
珍しく松永は友好的な態度だった。この態度を取るときは大概、あの人が来ているときだ。
「桜庭センパイが来てるから」
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二年前に暴力事件を起こし退学処分を受けた桜庭は学校に対して、松永に対して、全ての人間に恨みを抱いていた。桜庭本人は知る由もないが桜庭が人間に恨みを抱いた発端は、松永が関わっている。
松永は事あるごとに、その事件のことを物語のように語り、自分自身をその物語の主人公であるかごとく美化し、騙った。松永に言われ、サッカー部のパシリとして部活動に参加していた僕もその場に居合わせてしまった。松永の美化された部分を削りとってしまえば下劣で最低なストーリが出来上がる。
サッカー部だった桜庭は、その醜悪な容姿から恋人ができず、常に不機嫌な顔をしていた。サッカーも特別上手いわけでもなく、ただ、モテそうだという不純な動機で始めていた。
その容姿とサッカーの実力不足から、桜庭はチームメイトから迫害を受けていた。
当時、三年生だというのに、後輩の飲み物を買いに行くという屈辱を受けていた。その後輩の中には、当然のように松永達が含まれていた。そんな屈辱を受けても、桜庭は部活に通い続けた。
桜庭は、マネージャの米山ちあき先輩に思いを寄せていたからだ。不純な動機で始めた桜庭は、続ける動機も不純だった。だが、桜庭にとってはそれは不純ではなかった。
桜庭は、ちあき先輩と付き合っている、と思い込んでいた。そう思うのにも、理由があった。桜庭はちあき先輩から愛の告白を受けていたと思っているからだった。
桜庭がちあき先輩と思い込んで、メッセージのやりとりをしていたのは、松永だった。
松永も当時のキャプテンの「お前がメッセージで女のフリをして桜庭を騙してからかおうぜ」という命令を受け断るに断れなかったのだが、松永の行為は行き過ぎてしまった。
松永はそのキャプテンを嫌っていた。キャプテンの彼女であるちあき先輩を桜庭のメッセージのダシに使ってしまった。
ある土曜日の練習のときのこと。
キャプテンはチームメイトを帰らせた。キャプテンはちあき先輩とのセックスを部室で行いたがった。高校生がお金を使わずに行為に及ぶなら、誰もいないとわかり切った部室は絶好の場所だったらしい。部員はこぞって鼻を膨らませながら、学校の中で、事に及ぶ背徳感がたまらないのだと語っていた。サッカー部の中で、部室をラブホ代わりに使うのは暗黙のルールであり、互いに協力関係が結ばれていた。それを松永が破った。
ちあき先輩と付き合っているキャプテンに対する嫉妬が松永にあった。松永は部下のスマホを取り上げ、一部始終を隠し撮りするため、ロッカーの上に設置した。松永は手軽に無修正の生々しい動画を撮って、小遣い稼ぎに動画サイトにアップするんだと嘯いていたが、もちろんそれは自分の性欲を満たすためでもあった。
その日、松永は桜庭にメッセージを送った。ハートマークを大量に使い、色っぽい内容のメッセージを送信した。
そして、事件が起こった。
桜庭はメッセージを見て、全力で部室に引き返した。松永一派は覗き見をしようと先回りをしていた。部室はカーテンが閉め切られ、なにも見えなかったが、松永の部下のスマホは、ロッカー内のスマホと繋がっていて、内部の様子が映し出されていた。
全力で部室に向かう桜庭を見て、松永達は笑った。桜庭が部室に入った後、松永だけは臨場感のある画を撮るために、自分のスマホを手に部室に忍び寄った。
松永はドアを少しだけ開き、中を覗いた。松永以外は、キャプテンにバレるのを怖がったため遠巻きに見ながら、スマホを交互に見ていた。僕はそのスマホを持たされるという役目だ。僕はその画面を食い入るように見た。
松永が部室を覗いたとき、そこには激昂した桜庭と下半身をむき出しにしたキャプテンと同じく下半身をむき出しにしたちあき先輩がいた。
桜庭にとって、『自分の彼女』だと思っている人物が別の男に抱かれているのを目撃してしまったのだから激昂したのも当然だ。
「なにやってんだてめえは」
「なにしてんだ桜庭ぁ!」
半裸のキャプテンも怒りを露わにする。
「こっちのセリフだろうが! 人の女に手だしてんじゃねえぞ」桜庭はキャプテンの服に掴みかかった。
「はあ? 意味不明。なにいってんのキモっ」
ちあき先輩は衣服の乱れを直しながら、桜庭の発言に嫌悪感を露わにした。
「なんで、ちあきがてめえの女なんだよ」キャプテンはズボンを履きながら、桜庭の腹を蹴った。スパイクを履いたままの蹴りは強烈だった。
桜庭は吹っ飛び入口にぶつかる。
扉が壊れ、覗いていた松永は下敷きになりそうになった。扉から危うく離れた松永はキャプテンと目が合う。
「桜庭センパイが覗きに来たのが見たんで、伝えにきました」松永は咄嗟に嘘をついた。
「おまえが原因だろ。なんでこんなことになったのか説明しろ」
キャプテンは松永の嘘を瞬時に見破った。
松永はキャプテンに経緯を伝えるために部室に入りキャプテンに近づいた。松永はキャプテンの命令に逆らえず、正直にメッセージのやりとりで桜庭がちあき先輩と付き合っていると思いこませたと説明した。
ちあき先輩は、「最低」と松永を詰ったが、キャプテンは「クソおもしれえな。傑作じゃねえか」と褒めた。そんなキャプテンに呆れたちあき先輩は「男なんてどいつもこいつもクズばっかり」と言い放ち、その場を離れる。
ちあき先輩は通りすがりに桜庭の腹を思い切り踏んづけようとした。だが、その足を桜庭が掴んだ。桜庭は足を引っ張り、転ばせ、ちあき先輩はその場に気絶した。
一部始終を聞いていた桜庭は起き上がりながら、ぶしゅうぶしゅうと果物が潰れたような音を立てていた。それは桜庭が、ちくしょうちくしょうと何度も繰り返している声だった。
桜庭は足元にあった外れた扉の両脇を掴み、部室に入り、キャプテンと松永に目がけて突っ込んだ。扉の枠とロッカーに二人同時に挟まれ、キャプテンと松永の二人は、体内にあった酸素が一瞬でなくなったようなうめき声をあげた。
桜庭は扉から手を離し、息も絶え絶えに床に倒れ込んだ松永の顔面を三発ほど殴った。桜庭の手は、松永の歯で皮膚が破け、真っ赤になった。
次に桜庭は、キャプテンを狙った。腹を押さえひざを付いているキャプテンの顔を蹴り上げる桜庭。仰向けにひっくり返ったキャプテンの顔面を何度も踏み潰した。キャプテンの顔から、ぶしゅうぶしゅうという血と唾液が溢れる音がした。
キャプテンが動かなくなったことを確認した桜庭は、気絶したままのちあき先輩の足を無造作に掴み、部室に引きずり込んだ。
桜庭はちあき先輩の衣服を剥ぎ取り、性欲をぶちまけた。
スマホ越しに一部始終を見ていたサッカー部員は、教師を呼びに行くことにした。
騒ぎに気付いた教師が遅れて部室にやってきたが、教師が桜庭を怒鳴っても引きはがそうとしても桜庭は腰を振るのをやめなかった。
学校側は警察沙汰にするのを避け、即日桜庭を退学させた。退学させることによって、我々は関係ないです、という無意味なアピールをしたかったらしい。ちあき先輩は警察に通報することで桜庭に犯されたということが、既成事実になるのを恐れ被害届は出せなかった。
その事件をきっかけにちあき先輩は部活に来なくなり、ついには学校にもこなくなった。
キャプテンは、蹴られた後で顔がボコボコになり、一生治らない傷が顔に残った。
キャプテンは部活にくるたび、松永を蹴り飛ばした。
松永は蹴られた数の二乗、僕を蹴った。
キャプテンに対して深い恨みを覚えた松永は、ちあき先輩の家の近くにキャプテンと桜庭を呼び出すことを画策した。
鉢合わせした二人は、当然のように掴み合いになった。桜庭がキャプテンの力を上回り、桜庭はキャプテンが持っていたちあき先輩の家の鍵を奪った。そして、キャプテンの目の前でちあき先輩を蹂躙した。と松永が語っていた。
翌日キャプテンとちあき先輩は、この世からいなくなった。
二人を見つけたのは僕だ。
公園のブランコの上で、二人はブランコよりゆっくり揺れていた。
僕がこれまで自殺をしなかったのは、彼らの死体があまりにも無残で哀れだったからだ。
ブランコの軋む音が、辺りに響いていたことを未だに思い出す。