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♭の章:第13話 誰かのためにピアノを弾くということは

 ♭


 明け方に寝たせいで、当然のように寝坊した。そもそも始めから学校に行く気などなかった。


 リビングで、ミーコさんだけが寝ていた。父は仕事に行ったらしい。あんなに夜更かししても仕事に向かう気力があるなんて、父は大人だ、としみじみ思う。


 朝ごはんをほおばり、洗濯をしているとミーコさんが起きてきた。


「怜くん。ぐっもに」


「ミーコさんおはよう」


「学校行かないの?」


 ミーコさんの問いに聞こえないフリをした。ミーコさんはそれ以上追及しなかった。


 洗濯物を干し終えるとインターホンが鳴った。


「すっぴんだから、怜くん出て」


 アンタの場合、むしろすっぴんの方がいいだろうと胸の内で毒づきながらドアモニタを見た。どうせ宅配便か勧誘だろう。だが、そこにいたのは、心だった。


 彼には家の場所を教えた覚えはなかった。なぜ僕の家がわかったのだろう。よく見ると心は僕の財布を持っていた。どうやら心の家に置いてきてしまったらしい。なにか住所を示すようなカードかなにかが、入っていたのだろう。


 昨日のことが頭をよぎる。


 目を見開き、眉をひそめた心の顔。


 彼は財布を渡すついでに僕のことをからかいにでも来たのだろうか。僕はドアモニタを眺めつづけた。心は何回もインターホンを押した。


「怜くん? どうしたの。私が出ようか?」


「いや、いいよ。勧誘みたいだから……」


「あら、そうなの。私が追い返してあげるわ。見てなさい怜くん」


 ミーコさんがいらないおせっかいをやいた。ミーコさんはドアモニタを覗き込む。


「ん? 怜くんと同じ制服じゃない。お友達じゃないの?」


「ミーコさん、ごめん。向こう行ってて」


「わかったわ」

 ミーコさんは僕の顔を見て大きくうなずきリビングを後にした。


 ――ぼくと、友だちになってよ。


 心が言ってくれたあの言葉。


 彼の気持ちは、あのときと変わってしまっただろうか。


 直接訊いてみたかった。


 心がインターホンから離れていく。


 そもそも心はなぜポルカドットにいたのだろう。高校生が遊びにくるような店ではない。入口のネオンにオネエバーと書いてあったから、間違えて入った可能性は皆無だ。何か特別な理由でもない限り近寄らないはずだ。


 僕自身、かなり特別な理由があったから、あの場所にいた。だから、あの店にいたという事実は、なにか特別な理由があったのではないか。


 僕はたった一日、二日で友だちを失いたくなかった。弁明すれば伝わるかもしれない。もし伝わらなかったとしても、行動しないよりはマシだ。


 僕は意を決しドアモニタの通話ボタンを押した。


「待ってくれ」


 モニタの中で心が振り向いた。笑顔を見せながら、モニタの前に立つ心を見て、関係性が途切れていないことを感じた。


「ごめん、出るの遅れた。寝てた」

 玄関を開けながら謝った。


「おはよう。寝てるところお邪魔してごめんね。はい、これ忘れ物」

 心は財布を僕に渡した。


「ああ、ありがとう。心は学校は行かないの? もう十時過ぎてるよ」


「君の方こそ」


「まあ、そうだけど……」


「学校は行ったよ。でも怜くんがいなかったから、ここまで財布を届けにきたんだ。もしかしたら、財布を探して遅刻してるんじゃないかと思って急いで来たんだ。道に迷ってこんな時間になっちゃったけど」


「そんなことはなかったんだけど。ごめん。財布忘れたのいま気付いたし……あ、立ち話もなんだし、家上がっていく?」


「いいの?」飛び跳ねるような仕種をして、心は笑顔を見せた。


「僕も昨日、お邪魔させてもらったし」


 僕は中に入るように執事みたいな手つきで促した。


「じゃあ、お言葉に甘えて、おじゃまします」


 心の僕に対する態度は昨日までと変わらなかった。

 リビングのソファに座る。コーヒーを作りテーブルに置いた。


 ソファに座った瞬間になんとなく気まずくなる。口を開きかけてはやめることを繰り返した。心も同様でなにもしゃべらない。多分、僕と同じでしゃべらないのではなく、言葉を探していたのだと思う。コーヒーに口を付ける。熱いだけのコーヒーで口を湿らせ、僕はようやく口を開いた。


「なんであの店に来たの」

 心は僕の言葉に待ち構えていたかのように、素早く答えた。


「君の方こそ」


「心に借りているお金を返すために、バイトを始めたんだ」


「嘘だ。高校生が深夜に働くなんて無理だよ。それに、君があんな場所で働けるような人間だったら――一人、屋上で昼食を食べていないだろ」


 心がまっすぐに僕を見る。


 ポルカドットで、僕を見つけたときと同じ顔だ。眉の溝に嫌悪感を露わにしている。


「あの人たちに弱味を握られているんじゃないの」


「……え?」


 心の眉の溝がぐっと深くなったときに、そこには嫌悪ではなく、別の思いが込められていることに気付いた。


「だから、その……オ、オネエバーで働くなんて、よっぽど何かがあったんじゃないの。それとも、君って……」


 心の言いかけた言葉に、手をかざし遮る。


「僕はオネエじゃない」


 断固否定すべき問題だ。僕はそれを機に、弁明した。父とミーコさんの関係から始まるポルカドットに居た経緯を語った。全て話し切るまでに、三十分以上費やした。


 父とミーコさんの関係の意味不明さにてこずった。なぜあの生命体は惹かれ合っているのだろう。


「そうなんだね」安心したような笑みを浮かべた心の眉の間には、うっすらとだが、まだ溝があった。


「で、心はどうしてあそこにいたの? 僕も教えたんだ。教えてくれよ」


「飲み物を買いに出かけたら、君があの謎のオネエとタクシーに乗っているのを見かけて、誘拐か、もしくは何らかの事件に巻き込まれたんじゃないかと君が心配だったから追いかけた。でも、そういう理由があったんだね。安心したよ」


 ぎこちなく笑う心。あの溝は消えてはいない。


「オネエバーなんて、初めて行ったけど。ぼく、感動しちゃった。あのショーはとても素晴らしかったよ。あと怜くんのピアノ上手だね。あのモノマネする人もすごい面白かったし」


「ああ、ナタリーね」


「なんでナタリーなの」


「さあ?」


「あのめちゃくちゃキレイなダンサーも、オネエなんだよね」


「うん、僕も驚いたよ。あの人は源五郎」


 心の笑い声がリビングに響いた。

「なんで源五郎なの?」


「さあ?」


「あの歌の上手い人が、ミーコさんだっけ」


「そうそう。父さんの恋人。僕があと三年若かったらグレていたと思うよ。顔が双子よりソックリなんだよ。見てよ、ほら」


 僕はスマホを操作し、父とミーコさんの写真を見せた。先日のカラオケの写真だ。網模様の服を纏う父が、汗を飛ばし歌っている写真でもある。


「本当だ――」

 心は最初の内、我慢していたが、耐えきれなくなり吹き出した。


「なにこれ、どういう状況で、こんな服着ているの」

 そこで歯止めが利かなくなり笑い、僕もつられて笑った。


 ひとしきり笑い合ったあと、心はスマホを取り出す。

「ねえ、そうだ。君の番号教えてよ」


「……うん」


 胸の鼓動が激しくなった。父とミーコさんと母の三人しか、入っていなかった番号に新たな番号が登録され、スマホが少し重くなった気がした。


 僕は、すぐさま「友達」というカテゴリーを追加した。


「あ」心がピアノの前に立つ。「ねえ、昨日の曲弾いてみてよ」


「いいよ。昨日の曲ってどれのこと?」


「最後に演奏した曲。クロストゥーユー……だっけ?」


「わかった」僕はピアノの蓋を開いた。


 楽譜を準備して、鍵盤に触れる。ミーコさんが父だけのために歌っていたように、僕も心だけのために演奏した。


 昨日、誰かのために演奏することの楽しさを知った。


 今日、誰かのために演奏することの喜びを知った。


 楽譜がぼんやり歪んでいった。だから目を閉じた。


 楽譜はすでに頭の中に入っていた。

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