彼女は薔薇のような人だった。
いつ見ても華やかで美しく、どこにいても目を引くような圧倒的存在感を放つ。
世界中に数多ある花の中でも特に人気と知名度があるように。
その美貌から学校内で彼女のことを知らない人はいないというほど有名で、老若男女を問わず誰からも好かれていた。
廊下を歩けばすれ違う人全員が振り返り、教室でただ座っているだけで自然と人が集まり、彼女を初めて見る人は口を揃えて”綺麗だ”と言う。
まさに『花の女王』と呼ばれる薔薇に形容するに相応しい魅力的な女の子。
けれど、世の中にはこんな言葉がある。
”美しい花には棘がある”と。
外見がどれほど美しくても、人を傷つけるような危険な一面もあるから気をつけなさい、という意味で使われる。
だからきっと、体裁や容姿に関しては十全十美な彼女でも。
実は裏の顔を持っていたり、誰にも言えないような秘密を抱えていたり。
はたまた内心では自分以外の人を下に見ていたり、相手によって態度を変えていたり。
性格が悪いと思われるような一面を、もしかしたら隠し持っているのではないかと僅かながら考えたこともあった。
だって、あまりにも完璧すぎるから。
欠点があるのだと疑いでもしないと、同じ人間なのにどうしてこうも違うのだろうと卑屈になってしまう。
しかし、この世に完全無欠な人間なんて存在するはずがないという私の持論は、徐々に破綻していくことになる。
これらはすべて小耳に挟んだ話だけれど。
学校を休んだ友達のためにわざわざノートをまとめ直したり。
購買で大好きなパンが売り切れて買えなかったと嘆く面識のない生徒に、滑り込みで買った最後の一つを無償であげたり。
大雨の日に傘を忘れてしまった先輩に折り畳み傘を貸して、自分はずぶ濡れで帰ったり。
他にも、電車の中で泣き止まない赤ちゃんをあやしたり。
見知らぬお婆さんのために横断歩道を一緒に渡ってあげたり。
道に迷った外国人に積極的に話しかけたりと、学校の外でも他人を思いやる行動をとるのは変わらないのだという。
このように、彼女に関わる話で出てくるのは聖人君子のようなエピソードばかり。
少しでも粗探しをしようとした自分がとても恥ずかしくなった。
世の中には、棘のない薔薇もあるらしい。
外面はいくらでも良いように取り繕えるけれど、内面まで淀みなく透き通っている人を、これまで生きてきた中で私は誰一人として見たことがない。
美人で、温厚で、人望がある。
正真正銘非の打ち所など何一つない、薔薇の中でも彼女はさらに一線を画す特別な花。
そんな彼女を、私はただ遠くから眺めるだけだった。
薔薇のような美しい花は、近くで見ればより鮮明な華やかさを感じられる。
けれど、離れていてもその輝きを見失うことはない。
だから私は、気付かれることなくこの場所から静かに観賞するだけでいい。
彼女の側に行ける人たちを羨ましいとは思う。
それでも、間近で見るには眩しすぎて、近付きたいと思うことすら贅沢すぎる。
彼女と違って、誰にも見向きもされない道端にぽつんと生えている細くて小さな雑草。
それが私だから。
隣に並ぼうとするなんておこがましい。
正面から目を合わせることも、何気ないおしゃべりをすることも、ましてや友達のような関係になることなんて。
多分――絶対に叶わない。
彼女とは根本的に生きている世界が違う。
このまま一度も関わりを持つことなく高校の3年間を過ごして。
卒業する頃には、見た目も心も美しい子が本当に実在したのだと、感動的な思い出として記憶の片隅にこっそりと残るだけで、私は満足するのだと思う。
雑草のように主張せず、周囲に干渉することもなく、波風を立てず静かに息を潜め、そして何事もなく卒業する。
たまに薔薇の花を視界の隅に入れて、密かに心の栄養を補給しながら。
そんな、平凡よりもずっと落ち着いた学校生活を送るはずだった。
◇
入学した翌日から、彼女は磁石のように周りの人を引きつけていた。
積極的に自分から話しかけているわけではないのに自然と人が集まってくるのは、生まれつきそういう体質だからなのだと思う。
どこのクラスにも大抵一人はいる。
近寄りやすくて、話しやすくて、一緒にいたいと思えるほど楽しい人。
彼女の場合、高嶺の花のようなオーラを醸しているものの、どんな相手でも平等に歓迎し対等に接する態度と類稀なるコミュニケーション能力で、近寄り難いという印象を払拭している。
私が古湊さんを初めて見た時、呼吸を忘れて全身が石のように固まった。
彼女の目は、周りの平均的な女子生徒よりも頭半分ほど高い位置にあった。
テレビや雑誌の中でしか存在しないと思っていた、顔が小さくて胴体が短い、手足がスラリと伸びた典型的なモデルのような体型の持ち主。
ミルクティーにほんの少しモカを混ぜたような甘い薄茶色の髪は胸下まであって、ふんわりと緩く巻かれている。
高校生とは思えないほど大人びたシャープな顔立ちに、左右対称の弧を描く桜色の唇。
凛々しくも色気のある瞳に真正面から見つめられたら、1秒も耐えきれず顔を逸らしてしまうだろう。
これほどまでに美の黄金比を見事に体現した姿形の女の子を、もはや人間だとは思えなかった。
自分の意思とは関係なく、視線が彼女の姿を勝手に追ってしまう。
その時の私は、”人”というよりも”美術品”を見ていた感覚に近かった。
生きる芸術と言っても過言ではない人をただで拝見するなんて恐れ多い。
鑑賞料を支払うべきなのでは。
なんて意味のわからないことを、本気で思ったりもした。
古湊さんが同じクラスだとわかった日――入学式を終えたその日から、あまりに神々しい雰囲気を纏う彼女を私は直視しないようにした。
頭の中が真っ白になって、意識を奪われたように目が離せなくなってしまうから。
そして今でも、学校の中にいる間は極力彼女との接触を避けるようにしている。
お昼休みの教室は、窮屈だ。
居場所がなくなるから。
授業中は決められた時間に決められた場所で、決められたことをただやればいい。
けれど、休み時間は違う。
どこへ行くのも、何をするのも、誰といるのも、全て自分で決めなければならない。
その自由が、居場所がある人とそうでない人の行動をはっきり分ける。
私にはお昼休みを共にする友達はいない。
友達がいなければ席を移動する必要もないから、特に行く宛てもない。
そうなれば、必然的に自席で過ごすことになる。
周りは誰かと一緒にいるのに私だけ一人でいるという状況が、”孤立”をより際立たせる。
最初は居た堪れなさがあった。
でも、私を奇異の目で見る人たちの存在を気にして無理に友達を作ろうとする方が苦痛だった。
そうやって自分を犠牲にするくらいなら、私は一人のままでいい。
お昼ご飯を食べる前に、お手洗いへ行く。
この時間は比較的利用者が少ないはずだけれど、今日は偶々数人の女子生徒が洗面所を占領していた。
楽しそうにおしゃべりをしながら、髪の毛を整えたりスマホをいじったりしている。
女の子は身なりを気にする子が多い。
私が美容的なことに無頓着なだけで、それが当たり前なのかもしれない。
私にはいじるほどの髪は――さすがにあるけれど、わざわざ整え直したりするほど気にしたことはなかった。
女子生徒たちの邪魔にならないよう、ひっそりと個室へ入る。
教室へ戻る途中の廊下でふと立ち止まった。
窓から見える中庭の花壇で、思い出す。
そろそろ冬を迎える時期だ。
寄せ植えする花を何にしようか。
冬といえば、バンジーやビオラが定番かな。
ガーデンシクラメンやノースポールも可愛い――
「っと。ごめんねー」
「あ……すみません……」
花壇に気を取られてぼーっとしていたら、誰かの肩がぶつかった。
相手の顔も確認せず、反射的に頭を下げる。
どんな場面でも人と話す時に口を衝いて出る、お決まりの第一声がこれだった。
対話に慣れていない私は、おまじないのように無意識に「すみません」と謝罪をしてしまう。
どうにかしたいとは思っているものの、骨の髄まで染みついた癖はそう簡単には治らない。
おどおどしながら顔を上げた頃には、ぶつかった誰かはすでに通り過ぎていた。
背後を振り返る。
3人の女子生徒が並んで歩いていて、その真ん中に一際目を引くスタイルの女の子がいた。
「あれ、あんな子同じ学年にいたっけ?」
「いるいる。確か……
「何で知ってんの?」
「前期の委員会が同じだった。ね、秋と同じクラスでしょ」
「……ああ、うん」
「どんな子? やっぱ大人しい感じ?」
「さあ……あんま話したことないから」
「確かに、ああいう子と秋が仲良くしてるとこ想像できないわ」
「なんか暗そうだしねー」
「でもそういう子に限って意外と素顔可愛かったりして」
「えー、そんな漫画みたいなことある?」
「じょーだん」
「てか秋聞いてよ。うちの彼氏がさ――」
会話の声が遠ざかっていく。
顔が広い古湊さんは、他クラスにも多くの友達がいる。
今日のお昼はあの子たちと過ごすようだ。
友達と食べるご飯は、一人で食べるご飯と味が違ったりするのだろうか。
食べ物のことを考えたら、空腹を訴えるようにお腹が小さく鳴った。
気持ち足早に教室へ戻る。
放課後になると、校内はどこも賑やかになる。
部活動や委員会に励む生徒たち、教室や廊下で話に花を咲かせる生徒たち。
活気に溢れる空間から逃れるように、私は校舎を後にした。
すっかり見慣れた代わり映えのしない通学路を、とぼとぼ歩いていく。
一人で外を歩く時は顔を上げられない。
目のやり場に困るから、ずっと下を向いて自分の靴先を見ている。
無気力な足取りも、前を向けない姿勢の悪さも、自信がないことの表れだということは自覚している。
本当は変わりたいと思う。
好き好んで一人になっているわけではない。
ただ、一人にしかなれない現状を甘んじて受け入れているだけ――
「
突然、視界が揺れる。
私の名前を呼ぶ声がして、花のような甘い香りがふわりと舞った。