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第2話 秘密の関係

 穏やかな、優しい音。

 嬉しそうに弾んだ、爽やかな音。


 自分の名前なのにまるで知らない誰かの名前を呼んでいるような、現実味のない夢見心地な気分にさせる声を持つ人は、私が知る中で一人しかいない。


 不意に訪れた背後からの衝撃を踏ん張ることに精一杯で、振り返る余裕はなかった。


 それでもわかる。


 お腹に回された腕がぎゅっと力む時の強さも。

 擦り寄るように肩に顎を乗せる甘えた仕草も。

 そよ風が抜けていくように鼻腔を撫でる春のような温かい匂いも。


 体に伝うすべての感覚が教えてくれる。

 私を呼び止めたのは――古湊さんだと。


「今日は早く追いつけた」


 学校では遠くから眺めるだけだった雲の上の人が、今は私の目の前にいる。

 誰にでも無条件に振り撒くような笑顔とは違う、満開に咲いた花のような嬉し顔を私だけに向けている。


 後ろから体を密着させる古湊さんは、潰れるほど目を細めてニカっと白い歯を見せた。

 その顔は相変わらず目を奪われるほど端整で、私の胸を密かに高鳴らせる。


 無垢な彼女の笑顔に釣られて、自然と口角が上がった。


「無理して追いかけなくても大丈夫だよ」

「ううん、無理させてよ。1秒でも長く日依と一緒にいたいもん」


 まるでぬいぐるみを抱くような力加減でむぎゅっと全身の力を込めた古湊さんは、甘えたがりな子どものようにすっかり表情を蕩けさせていた。


「日依は? わたしと一緒にいたくない?」

「それは……もちろん、古湊さんが隣にいてくれたら嬉しい」

「えへへ」


 思い切り緩んだ口元がへにゃっと形を変える。


 クールで華やかな一面しか古湊さんを知らない人が今の彼女を見たら、きっとあまりのギャップに目を疑うだろう。


 頭の中で思い描く古湊さんの完璧な人物像とはかけ離れた振る舞いに、私は未だ慣れることができない。


「せっかくだから今日は寄り道したいなー」


 隣に並んだ古湊さんは、滑らせるように自分の手を私の手と重ね合わせ、するりと指を絡めた。

 ひんやりとした私の手とは対照的に、ほのかな温もりを感じる。

 その温かさが心地よくて、ほんの少しだけ彼女の手を握り返す。


 そんな些細な動きに気づいたのか、古湊さんは手を握ったまま上機嫌に腕を振り始めた。


 これから遠足にでも行くのかと思うほど、足取りは軽快だ。

 はつらつと歩く古湊さんに、歩調を合わせる。


 彼女といると、自分でも気づかないうちに背筋が延びる。

 目線も無意識に上を向く。

 まるで見えない力に上から引っ張られるように。


 古湊さんは一緒にいる人を前向きにしてしまう不思議な力を持っていた。

 だからだろうか。

 無性にわくわくした気持ちが沸いてしまうのは。


「どこに行くの?」

「日依はどこに行きたい?」

「私……? えっと……」


 寄り道したいと言い出したのは古湊さんなのに、急に振られて返答に詰まった。

 あなたとならどこでもいい、なんて丸投げするようなことを言ったら困らせてしまうかな。


「ちなみにわたしは日依とならどこにでも行ける」


 私よりも背の高い古湊さんは首を大きく曲げて、横から顔を覗き込んでくる。


 心の中を見透かされたのかと思った。

 同じことを考えていたというだけで、嬉しさのあまり胸が躍る。


「私も……どこでもいい。こうやって通学路歩いてるだけでも楽しいって思えるし」

「それってわたしのおかげ?」

「……うん」

「やったあ」


 無自覚なのだろうけど。

 古湊さんが私に擦り寄る時は、上体が横に傾くくらい体重をかけてくる。


 そのせいか、力の弱い私は寄り掛かる勢いですりすりしてくる古湊さんの圧に押し負けて、道の端の端まで追いやられてしまう。

 彼女の肩を控えめに手で押し返して、ようやく私を押していることに気づいてくれる。


 身長の高さや体格も相俟って、まるで加減を知らない大型犬のよう。

 もし彼女に尻尾が付いていたら、今まさに忙しないほど左右にバタバタと振られているはずだ。


「でもできれば、人気の少ない場所がいい、かな」

「あー……っと、そっか。見られちゃイヤなんだよね」


 すっかり舞い上がっていたところで突然“待て”をされたように、古湊さんは肩をストンと落とした。


 私の手を握る力が弱まっていくのが伝わる。

 それでも、手を離そうとする意思まではないらしい。


 今度は脱力した手で、感触を確かめるように指の間を摩ってくる。

 くすぐったいけれど、さっきまでの万力のような圧迫感よりはましだった。


 私に擦り寄りすぎるあまり体を押し込んでしまうのもそうだけど、古湊さんは自分の力加減を把握できていない。

 感情の度合いをそのまま物理的な力に変換している。


 そして彼女の感情表現は、起伏に乏しい私とは違い非常にわかりやすい。

 嬉しければ満面の笑顔を見せるし、不機嫌であれば眉根を寄せてぷくっと頬を膨らます。


 今はシュンと眉尻を下げているから、落ち込んでいる、もしくは残念がっているのだろう。


「あ、別に落ち込んでないよ」

「古湊さん、強がってる」

「いーや」

「……強がってる」

「んー」

「……本当に?」

「もー。日依は疑り深いな」


 ただでさえ隙間がないほど密着しているのに、古湊さんは甘えるようにさらに肩を寄せてきた。


 また体重をかけられるのかと思い、踏ん張る準備をしていたけれど、肩にのしかかる重みは予想に反して軽かった。

 歩きながらでも、しっかりと受け止められるほどには。


「日依が人の多い場所苦手だってわかってるのに、またわたしの勝手で振り回しちゃったかなって反省してただけ。“どこにでも行ける”ってのはほんとだからね。日依の行きたい場所なら、地の果てでも一緒について行くし」


 そう言って、柔らかく相好を崩した。

 地の果てまではさすがに行きたいとは思えないけれど。


 今さらながら、どんな表情をしていても様になる古湊さんの顔面に神秘を感じる。

 気を抜いている一瞬くらい、不細工だと思う顔が誰にでもあるはずなのに。


 かく言う私も、寝起きの洗顔中にふと自分の顔を鏡で見たとき、20年老けたのではないかと思うほどの面相に驚いたことがある。


 ところが、私の隣をご機嫌に歩いている彼女には、ある意味奇跡とも言える残念な顔の瞬間が一つもない。

 いつどこでどんな角度から見ても、写真集の中のモデルのような完成形が常にそこにある。


 それが意識せず自然体によるものだというのだから、根本的な体の作りが一般人とは違うのだなとつくづく思い知らされる。


 きっと今見せている笑顔も、何気なく浮かべているもの。

 だからこそ、私の中の罪悪感がちくりと胸の痛みを訴える。


「……いつもごめん。振り回してるのは私だから」


 雑多で賑やかな場所は苦手――学校も例に漏れず、だけど。


 “見られたくない”というのも、古湊さんが私と一緒にいるところを知人や学校の人に目撃されるわけにはいかないから。

 そのことは古湊さんに伝えているし、彼女もきちんと理解して私に合わせてくれている。


 二人でどこかへ行くという話題になれば、必ず私の意見を優先してくれる。

 古湊さんにも行きたい場所があるだろうに、私なんかのわがままを毎回聞いてくれて、申し訳なく思う。


「全っ然。謝るんならむしろわたしの方。……ごめんね、日依」

「……?」


 神妙な面持ちで視線を落とす。

 先ほどの“強がっている・いない論争”をまだ引きずっているわけではないようだった。


 突然切り替わった真面目な雰囲気に気圧されて、気を引き締めなければならないというプレッシャーに襲われる。


「お昼休みのあれ……日依を傷つけちゃったかもしれないって思って」


 お昼休み――何のことだろうと一瞬首を傾げるが、そういえば古湊さんと間接的に接触した瞬間があったなと思い出す。


 どれほど深刻なことを打ち明けてくるのだろうと身構えたけれど、杞憂だった。

 謝られるようなことでは全くなかったし、あんな些細な出来事で気に病んでほしくなくて、私はすぐさま頭を振る。


「ううん。私が望んだことだから、気にしてないよ」


 中庭の花壇に意識を向けていた時、友達と一緒に歩いていた古湊さんとすれ違った。

 あの時の彼女の態度は、まるで私を他人とでも思っているかのように素っ気なかった。


 本当は、こうして手を繋ぎながら帰り道を共にするほどの仲なのに。


 彼女が白々しく振る舞ったのは、時と場所によって人格が変わるとか、喧嘩をしていた当てつけに嫌がらせをしたとか、そういう訳ありな事情があったからではない。


 私がそうしてほしいと頼んだ。

 学校では極力関わらず、お互い他人の振りをしよう、と。


 理由はただ一つ。

 古湊さんと私が付き合っているから。


 片や学校一美人の人気者、片や地味で内向的な根暗。

 いわゆるスクールカーストの1軍と3軍の人間が、友達どころか恋人同士であることを周りに知られてしまったら、間違いなく平穏な学校生活を送れなくなる。


 なぜこの二人が付き合っているんだと、懐疑の目を向けられる。

 私だけが陰口の標的になるならまだいい。

 けれど私と付き合っているせいで、古湊さんの評判まで悪くなるようなことは何としても避けたかった。


 こんな心配をするなら、初めから付き合わなければいいだけ。


 彼女と恋人関係になったとしても、その先にあるのはいいことばかりではないとわかっていたはずなのに。


 心の中にいる冷静な自分が何度も忠告をしたにもかかわらず、結局当時の私は、猛烈にアプローチしてくる古湊さんからの告白を受け入れた。

 ただし先の理由から、学校の皆には私たちの関係を内緒するという条件付きで。


 昼間の古湊さんの態度は、私の自己中心的なお願いを忠実に守ってくれているがゆえのものだった。

 だから、彼女が私に謝る必要は一切ないのだ。


 古湊さんを安心させるために作った今できる精一杯の笑顔を、彼女は優しさに溢れた眼差しで愛おしそうに見つめている。

 それが何だか照れ臭かった。


「ほんとはね、日依はこんなに可愛い子なんだってみんなに教えてあげたいんだけど――」


 手を繋いでいない方の古湊さんの手が、私の顔の前にかざされる。

 反射的に立ち止まり強く目を瞑ると、前髪を横に流される感触がした。


 恐る恐るまぶたを開けて視界に入ってきたのは、あまりにも造形が整った彼女の顔面。


 とりわけ透き通った綺麗な瞳に見惚れていたら、顎をそっと持ち上げられて我に返った。

 ぶわっと、首から上が一気に熱を帯びる。


 “可愛い”と言われたことも、すぐ目の前に古湊さんがいることも。

 きっとこれは、恋人同士なら当たり前のこと。


 けれど、恋人らしい行為の中で手を繋ぐのがやっとの私は、これほどの至近距離で顔を触られると激しく動揺してしまう。


 目のやり場に困ってしきりにきょろきょろしている間にも、古湊さんは私の顔をまじまじと見つめている。

 しかし、この緊張で胸が張り裂けそうな時間はそう長くは続かなかった。


「……むり。やっぱやだ。日依の可愛さを知ってるのはわたしだけでいい。てゆーか誰にも教えたくない」


 いつの間に私の正面に回っていた古湊さんは、人目も憚らず大胆に抱き締めてきた。

 ここが通学路であることを忘れてしまったのだろうか。

 幸い、今は周りに人がいない状況だけど……。


「っ……古湊さん……ここ、外……」

「うん、外だね」


 慌てふためく私の反応を、楽しそうに笑いながら受け流す。


 私がスキンシップに未だ慣れていないことを知りながらからかう古湊さんは、いたずらをして喜ぶ無邪気な子どものようだった。


「恥ずかしがってる顔可愛いすぎ。絶対わたし以外に見せちゃダメだよ」


 しかと言い聞かせるように、彼女は私の耳元で妖艶に囁いた。



 付き合って数ヶ月経った今でも、夢なんじゃないかと思う。


 古湊さんの周りには、かっこいい男の子も可愛い女の子もたくさんいるのに。

 どうして何の取り柄もない瑞木 日依という人間を好きになったのか。

 私史上最大の謎と言ってもいい。


 普通に生きていれば、私たちが交わることは決してないはずだった。

 それなのに、会話をすることはおろか体を触れ合わせることすら今では当たり前になってしまった。


 身に余るほどの贅沢な世界に、私の心は今も追いつけずにいる。

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