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第3話 二人きり

 私は古湊さんのことを“古湊さん”と呼んでいる。


 世間で恋人同士がどんな名前で呼び合っているのかは、わからない。


 下の名前、ニックネーム、二人称――。

 そもそも、恋人だからといってこの名前で呼ばなければならない、なんて決まり事はないわけで。


 私が彼女を名字で呼んでいるのは、何となく語呂がいいというか、声に出した時の発音がコロコロしていて可愛いから……というのは半分本当で半分嘘。

 実のところは、下の名前で呼ぶのが純粋に恥ずかしいだけ。


 誰かを名前で呼んだのは、小学生の時が最後だったと思う。

 以降、めっきり呼ぶ機会はなくなった。


 それどころか、誰かを呼ぶという行為すら一年間の中で片手で数えられる程度しかない。

 私の交友関係がそれだけ狭いことの表れだった。


 何より人の名前というものは、特別感があるように思う。

 まるで踏み入れてはいけない領域に足を突っ込むような感覚がして、口に出すことがためらわれた。


 古湊さんを名前で呼びたいと思ったことは、ない――と言えば嘘になる。


 彼女の下の名前は、“秋”と書いて“とき”と読む。

 月並みで単純な感想だけど、初めて聞いたときは綺麗で素敵な名前だと思った。


 “秋”という漢字には、一般的に連想するであろう四季の一つである“秋”の意味と、重要な局面を表す“大切な時”の意味がある。


 やっぱり、秋に生まれたから“秋”なのかな。

 秋は豊穣の季節だから、実り多い豊かな人生を送ってほしいという願いが込められているのだろうか。


 もしくは、木々や葉が鮮やかに彩る季節でもあるから、美しい子に育ってほしいとか。

 はたまた、人生の一瞬一瞬を大切な時として歩んでほしいだったり。


 そうやって名前の意味や由来を勝手に想像すると、ますます気安く呼べなくなる。

 こんな面倒くさい思考をしていなければ、私はもっと早い段階で古湊さんを“秋”と呼んでいたかもしれない。


「ときー!」

「秋っ、いけ!」


 ――と、私が古湊さんの名前について唐突に考え出したのは、こうして大きな声で彼女の名前を叫ぶクラスメイトたちがすぐ近くにいるからである。


 キュッキュッと、靴底の摩擦音が忙しなく鳴り響き、床から伝わる振動が体の内側を震わせるここは、私の苦手な場所――体育館だ。


 今は特にすることもなく、縮こまるように隅っこで体育座りをして、ひたすら気配を消している。


 バスケットボールのコート内では、体操服とゼッケンを着た女子生徒たちがボールを追いかけ走り回っていた。


 ドリブルの音がリズミカルに鳴る。

 ストップの動作でシューズの底が甲高く響く。

 誰かがシュートを決めて歓声が上がる。


 近くにあるはずの音が、すべて遠くに聞こえる。

 私だけがこの場所から切り離されたみたいに。


 意識の外でどれだけ騒がれようとも、ただの雑音として聞き流せるのに、古湊さんの名前を耳にするとどうも落ち着かなくなる。


 古湊さんの友達は皆、彼女を下の名前で呼んでいる。

 “秋”と気軽に呼べるのを、私は密かに羨ましいと感じていた。


 抱えた膝の上に顔を半分埋めながら、タイマーを見る。

 リミットが刻一刻と迫る中、パスされたボールが古湊さんに渡る。


 彼女の投げたボールが空中に高く放物線を描き、吸い込まれるようにゴールリングのど真ん中に入ったところで、ちょうど試合終了のブザーが鳴った。

 一際大きな黄色い声が上がる。


 結果は、古湊さんのいるチームが圧勝だった。


「やばい、秋かっこよすぎ」

「かわいくてかっこいいとか反則すぎん?」

「マジでバスケ部入ってくれよぉ」

「男子に混ざっても張り合える」

「それはさすがにムリ」

「謙遜すんなー」


 チームメイトも相手チームも関係なく皆が古湊さんの周りを取り囲み、まるで英雄を讃えるように、思い思いに称賛の言葉を送っている。

 中心にいる古湊さんは、嬉しそうに笑みを浮かべていた。


 体育の授業は苦手だけれど、こうして活躍する彼女の姿を見るのは好きだ。


 運動していると長い手足が際立つし、滴る汗を手で拭う仕草も様になるし、下ろしている髪を一つに結っていて、いつもと違う髪型が見られるのもドキドキする。

 あらゆるフォームが洗練されたように美しくて、一挙手一投足に目を奪われてしまう。


 この気持ちを素直に伝えられたら、古湊さんは喜んでくれるだろうか。


 花が咲いたような笑顔を想像してほんの少し口元が緩んだけれど、あいにくあの集団の中に混ざってまで彼女に話しかけようとは思わなかった。

 学校内では接触しないという決まり事を作ったのは、他でもない私なのだから。


 後で二人きりになれたら、こっそり「かっこよかった」と伝えておこう。


 チーム交代のためのインターバルを挟み、各々が決められた場所へ移動する。

 試合に出る準備をするため、私は渋々重い腰を上げた。


 できることならサボりたいけれど、そのために仮病を使ったり堂々と体育館を抜け出したりする度胸は当然ない。

 何だかんだ、真面目でも不真面目でもないくらいの塩梅が、一番目立たずにいられる。


 体育という苦行から逃れられないのなら、やることはただ一つ。

 試合中はとにかく空気になること。


 運動とは全く関係のないことに対して意気込みながらコートへ向かっているとき、不意に古湊さんと目が合った。


 咄嗟に視線を逸らしそうになる前に、彼女の口が何かを言いたげに開かれる。

 声は出さずに唇だけを動かすと、最後に目を細めて小さく微笑んだ。


 古湊さんが私に伝えた言葉が何だったのか、口の動きから読み取れた。


 自分の意思に反して口角が吊り上がってしまうのを、唇を引き結んで何とか我慢する。

 たった一言、「頑張って」と言われただけでこんなにも気持ちが高揚してしまうなんて。


 古湊さんの仕草にときめいただけではない。

 多分、あの笑顔が私だけに向けられているという優越感もあるのだと思う。


 毎回憂鬱になる体育もたまには頑張ってみようかなと、柄にもなく前向きに奮起しようと思った矢先。


 試合が始まって早々、投げ渡されたパスを受け取り損ねて、ボールが勢いよく私の顔面に直撃した。

 ……痛い。


「ど……どんまーい」


 誰かの慰めの声が控えめに届く。

 弾かれたボールを味方が拾い、何事もなかったかのように試合は続いた。


「瑞木、大丈夫かー?」

「は……はい」


 体育の先生が気怠げに声をかける。


 鼻尖にじんじんとした痛みはあるけれど、鼻血は出ていないし振動で頭がくらくらすることもない。

 大事にしたくなかったから咄嗟にそう返事をすると、先生は興味をなくしたように再び試合の様子へ目を向けた。


 コートの中で突っ立っているわけにもいかず、今度は邪魔にならないよう程々にボールを追いかける。


 きっと浮かれていたせいだ。

 古湊さんと目が合って笑顔を向けられただけで、今日はなぜか珍しく舞い上がって。

 いつもならすぐに目を逸らして、ほんのりと体が火照る程度で済んでいたのに。


 彼女が見ている前でこんな醜態を晒してしまい、顔から火が出るほど恥ずかしい。

 穴があったら入りたい。


 それだけが頭の中を埋め尽くして、足を動かすことすらぎこちなくなってしまう。


 ようやく授業が終わった後には、羞恥心ですっかり顔を上げられなくなっていた。


 皆がこぞって更衣室へ戻る中、私はひっそりと体育館のトイレへ向かう。

 一人で心を落ち着かせる時間が欲しかった。


 ちょっとした事故が起きたところで、どうせ私のことを気にするような人はいないだろうけど。

 私にとっては、人目のつかない場所でしばらく姿を消していたいと思うほどのハプニングだった。


 ずっと一人でいるからといって、周りの目が気にならないわけではない。

 自分の身に何が起きても動じないほどメンタルが強いわけでもない。


 あの出来事は間違いなく、私の黒歴史の1ページに刻まれた。


 幸い、トイレには誰もいない。

 鬱屈とした気持ちを吐き出すように、人前では決してできない盛大な嘆息を漏らす。


「はぁ……」

「そんなでっかいため息吐いたら幸せが逃げちゃうぞー」


 迂闊にも、私以外に人がいないと思い込んで声まで出していたところを、誰かに聞かれてしまった。


 思い切り肩を跳ね上げて、警戒する余裕もなく声のした方に視線を向ける。

 すると、一番奥の個室から見知った顔がひょっこりと現れた。


「古湊さん……!?」


 ポニーテールは解かれており、傾げる首の動きに合わせて優しい白茶色の髪がふわりと揺れる。

 私に驚かれた古湊さんは面白そうに破顔しながら、顔の横でピースをしていた。


 こんな時でも、自分の存在をアピールするようなあざとい仕草を前にすると、やっぱり彼女はどんな動きをしていても可愛いなと思ってしまう。


 一人になりたかったはずなのに、古湊さんの顔を見たら途端に寂しさが膨れてきた。

 本当は心の中のモヤモヤを誰かに共有したかったのかもしれない。


 ただ、その相手が古湊さんではいけないということは確かだ。

 彼女にだけは、恥ずかしい姿を見られたくないから。


 残念ながら、ボールを顔面で受け止めたところを見られた時点で手遅れだけれど。


 未だに強張る体で身動きがとれないまま、たじろぎながら古湊さんに尋ねる。


「何でここに……」

「一人になりたくて逃げてきた――ってのは嘘」


 ニコリと笑っていた表情に、僅かな憂いが滲む。


「どうしても日依と話したくなったの。授業終わったらここに来るだろうなーと思って。今は誰もいないから、一緒にいてもいいよね……?」


 真剣でありながらもどこか甘えるような口調でねだられ、思わず気圧される。


 学校内では接触しない。

 つい先程その認識を改めて肝に銘じたばかりだったのに、早くも心が折れそうになる。


 確かに、ここには私と古湊さんしかいないから話しても問題はない。

 しかし、授業が終わった直後で生徒のほとんどが更衣室へ向かったとはいえ、突然誰かがやって来る可能性はなきにしもあらず……と、あれこれ葛藤している間に、気づけば私は頭を縦に振っていた。


 不安気な眼差しを向けていた古湊さんの表情がぱあっと明るくなる。


「日依、おいで」


 古湊さんは個室から出てくると、両手を広げて私を迎え入れる準備をした。

 その腕に自分から飛び込みに行くのが何だか気恥ずかしくて、お化け屋敷の中を怯えながら歩くような足取りになってしまう。


 腕の中にちょうど収まるであろう距離まで近づき、立ち止まる。


 広げていた腕が、優しく私の体を包み込んだ。

 体操服から香る柔軟剤のようなフローラルな匂いが鼻孔をくすぐる。


 ――落ち着く。


 近づくまでは緊張するのに、いざ彼女に触れたら躊躇いや不安がすべて消え去っていく。

 一人で抱えていた羞恥心や嫌な出来事も、大したことないちっぽけなものだと思わせてくれる。


 しばらく抱き締めたあと、古湊さんは私の顔を両手で挟み込んでそっと持ち上げた。


「顔面にボール当たってたけど、大丈夫? 痛くない? 怪我は? 痣とかできてないよね?」

「だ、大丈夫。今はもう全然痛くないよ」

「国宝級の日依の顔にボールぶつけるとか、時代が時代なら即死刑なんだけど」

「怖いこと言わないで……」


 物騒なことを何の躊躇いもなく真顔で言ってのけるあたり、彼女がどれだけ本気でそう思っているのかが窺える。

 よほど気にかけてくれているのか、私の顔を隅々まで確認していた。


 あれは……完全な事故だ。

 わざとぶつけられたのではなく、私がうまくボールを受け取れなかっただけ。


 私の運動神経が壊滅的であることはクラス内では周知の事実のはずなのに、それでもパスを回してくれたのだから相手に罪はない。


「日依見てると心配でハラハラする。日依に何かあっても、みんなの前じゃすぐに駆け寄れないし。ねえ、お願いだから体育の時間はずっと見学してて」

「さすがにそれは……」


 許されるのならそうしたいのは山々だけれど、それでは成績に響いてしまうし、悪い意味で浮いてしまう。


「わたしの言うこと聞けない?」


 拗ねたようにぷくりと頬を膨らませる。


 聞ける聞けないの問題ではない。

 正当な理由もなく体育の授業をすべて見学するというのは、現実的に考えて不可能ではないだろうか。

 私が先生に歯向かえるほど反抗的な生徒であれば別として。


 何も答えられずに視線を逸らしていると、古湊さんが困ったように息を吐いて。


「……仕方ないな」


 私の腕を掴み、トイレの個室へと引き入れる。

 そして、内側から素早く鍵を閉めた。

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