ドアを背にして、古湊さんは佇んでいる。
まるで“ここから出してあげない”と通せんぼするかのように。
いきなり個室まで連れ込まれた私は、傍から見れば猛獣の檻に放り出された小動物のごとくビクビクと畏縮していることだろう。
雲が漂うようなふわふわとした気持ちが一変し、これから何をされるのかわからない恐怖心で身が竦む。
「古湊、さん……?」
かろうじて声帯を動かせる程度の震える力で、彼女の名前を声に出す。
意地悪な笑みを浮かべたその表情が、私の呼びかけに対する古湊さんの応えだった。
これまで、彼女のいろんな笑顔を見てきた。
純真無垢な子どものように笑う顔、お腹を抱えながら大きく口を開けて笑う顔、慈愛の目で見守るように優しく笑う顔。
そのどれもが輝かしく見えて、感性が乏しい私の心をいとも容易く響かせる。
けれど、この笑顔だけは違う。
何かを企んでいるような、警戒心を抱かせる危険な匂いを感じる。
実際、この表情を見せられて無事だった試しがない。
そしてここは密室。
何も起こらないはずがなかった。
「日依、後ろ向いて」
口調は優しいものの、見えない圧力が“逆らわせない”と脅しをかけていた。
今の私に従う以外の選択肢などなく。
壊れた操り人形のようなぎこちない動きで、古湊さんに背を向けるため回れ右をする。
緊張で丸くなる背中に彼女が覆い被さり、さらにはお腹に腕を回してがっしりと私の体を抱き締めた。
――これは、危なくなるやつだ。
そう悟った瞬間、心臓が自我を持ったように暴れ始めた。
頭がズキズキするほど血の巡りが速くなる。
体が熱い。全身に力が入らなくなって、指先の一つも動かせなくなる。
クスッと忍び笑いする声が耳元で聞こえた。
私が為す術もなくただ従順になるしかないこの状況を、意地悪な古湊さんは楽しんでいる。
「熱くなってきたよね。ジャージ脱いでみる?」
適当な理由をつけて私が着ているジャージのファスナーに手を伸ばすと、返事も待たずに胸元まで下げた。
「……!?」
そして突然、電気が流れたような衝撃に襲われる。
古湊さんが私の首に顔を埋めたとわかったのは、生暖かい吐息が肌を撫でたとき。
くすぐったさに背筋がゾクゾクする。
「古湊さんっ……汗、かいてるから……」
「嘘つかないの。超すべすべじゃん」
肌質を確かめるように鼻先を擦り付ける動作が、新しい刺激を与えてさらに体を震わせる。
彼女の言う通り、たまに小走りする程度で運動らしい運動をしていなかった私の体からは、一滴の汗も滲み出ていない。
けれど、古湊さんが顔をスリスリしてくるせいでたった今冷や汗が全身から吹き出てきた。
……嫌、なんかじゃない。
私がこういう刺激的な行為に慣れていないだけで、嫌悪感や不快感はない。
むしろ受け入れられるくらいの気持ちの覚悟はある。
ただ、体が心に比例してくれない。
古湊さんが私に近づけば体温は上がるし、手を繋げば顔は熱くなるし、抱き締められたら心臓は忙しなくなる。
何を恐れているのか、私の体は古湊さんが触れると危険信号を発してしまう。
こんなだから、いつまでも彼女に“ウブ”だとからかわれてしまうんだ。
たまには抵抗したいけれど、思うように体が動いてくれない。
結局何もできず、いつものようにされるがまま流されていく――と、諦めかけたその時に。
これまでの感触とは比にならないほど弾力のある柔肌が、むにゅっと首筋に押し付けられた。
「ひぁっ……!?」
自分の口から出たとは思えないほどの頓狂な声が、個室に響く。
想像もできなかった全く未知の感覚に、いよいよ体がパニックを起こしそうになる。
「言うこと聞けない子にはお仕置きしちゃうから」
驚きでビクリと一際大きく跳ねる私を、古湊さんは腕に力を込めて押さえ込んだ。
彼女にとってこれはただのじゃれ合いで、飼い主に従わない犬にちょっとした躾をするくらいの、そんな軽いノリでやるようなことなのだと思う。
そして、力尽くで勝つことも言葉で言いくるめることもできない無力な私の反応を見て、したり顔で笑うのだ。
遊ばれている。
彼女の思い通りになるしかない状況がどうしようもないほど恥ずかしくて、抵抗したいのに体は相変わらず動かなくて、暴れ狂う心臓がいよいよどうにかなってしまいそうで――
「ごめん、なさい……」
これが、今の私にできる精一杯の反抗だった。
強く目を瞑り、殻に閉じこもるように体を丸めて、ただ許しを請う。
次はどんな手を使ってくるのだろう。
そうビクビクしたのは、少しの間だけで。
心なしか腕の力が弱まった気がして、恐る恐る振り向く。
視界に映ったのは、俯いている古湊さんだった。
何だか様子がおかしい。
声をかけようとしたところで、彼女の腕が解かれた。
「こっちこそごめん……やりすぎました……」
叱られた子どものようにしょんぼりと肩を落として、頭を下げている。窮余の一策で講じたお詫びは、どうやら通用したらしい。自ら下ろしたファスナーを上まで上げ直してくれたあと、申し訳なさそうに個室のドアを開けた。ひとまず何事もなく――とは言い難いが――解放されたことに安堵する。結局、体育の授業では古湊さんが私を逐一監視して、危険が迫る前にどうにかフォローするという無茶な対策案で一旦落ち着いた。一人で鬱屈を吐き出すために行ったはずのトイレで、まさかボールが顔に当たるよりも大変な目に遭うなんて、数分前の私には絶対に予期できなかった。鼓動は今も、うるさく鳴り続けている。
冷たい風が肌を撫で付ける、初冬の夕暮れ。
寒さが増すこの時期は、外にいると手が悴んで指先が冷える。
私が冷え性だから、なおさらそう感じやすいのかもしれない。
寒さで動かしにくくなる手を擦り合わせると、冷たさが多少和らいだ。
また冷えないうちに軍手をはめて、作業に取り掛かる。
放課後の校庭や体育館は運動部で活気が溢れていて、本校舎の一角からは吹奏楽部の演奏が聴こえる。
他にも、どこかの教室で文化部が活動しているのだろう。
今日の中庭は人の出入りがほとんどなく、いつもより静かだった。
中庭の隅にある花壇の様子を一通り見て、雑草が生えていないか、落ち葉や花びらが散乱していないかなどを確認する。
ゴミ袋を側に置いて、まずは草むしりをしようとしゃがんだ時だった。
「ひーより」
背後から私の名前を呼ばれたのは。
振り返ったすぐ目の前に古湊さんの横顔があって、反射で飛び跳ねた私は腰を抜かしそうになった。
胸の前で拳を作り、攻撃するのか防御するのかよくわからないポーズで身を守る。
「そんなに警戒しないでよー。今はちゃんと反省してるから」
前屈みになって私と目線を合わせている古湊さんは、首を傾げながら困ったように苦笑した。
警戒したつもりはなかったけれど、無意識に体が反応してしまう。
体育の後、トイレの個室でされたことを覚えているからだろうか。
それにしても、1日に学校内で彼女と話す機会が2回もあるのは珍しいことだった。
実際、古湊さんとは関わらないと頑なに決めているのは私の方であって、彼女の方は周りにバレない程度に私との接触を控えつつ、隙あらばこれ幸いと積極的に話しかけてくる。
多くても、1日1回を5日間連続。
放課後の帰り道ならいくらでも関われるのに、わざわざ学校の中で。
私たちの関係を知られたくないから学校では他人の振りをする、とは言っても、声をかけられて不快な気持ちになるはずなんてない。
同じ空間にいるだけでも意識してしまうのに、言葉を交わせばもっと心が弾む。
要するに、本心では古湊さんと話せて嬉しいのだ。
警戒していないことを示すために、握り拳をゆっくり開く。
緊張が解けたように肩の力を抜く私を見て、古湊さんは嬉しそうに笑ってくれた。
ついでに、私の隣にしゃがみながら垂れた髪をさりげなく耳にかける仕草にドキッとした。
「委員会の仕事?」
「うん」
「……あれ。環境美化委員ってもう一人いたよね」
古湊さんは周囲を見回して不思議そうに聞く。
「武田くんは……放課後に用事があるからって」
「あいつ……」
恨めしそうに眉間にシワを寄せながら、どこか遠くを睨んでいる。
その鋭い視線は、今頃学校の外にいるであろう武田くんに向けられているのかもしれない。
彼は同じような口実を使って委員会に参加しないことがよくある。
本当に用事があるのか、嘘をついてサボっているのか。
後者の可能性が高いけれど、別に咎めるつもりはない。
あまり親しくない人と一緒にやるよりも、一人でやる方が気が楽だから。
「今から何するの?」
「花壇のお手入れ。雑草を抜いたり、お水をあげたりするんだ」
「わたしも手伝う」
「え、でも……」
「他の人に見られるかもって心配してる?」
「う、ん……」
「それなら見られる前に早く終わらせちゃえばよくない?」
他人の目を気にする私とは違って、古湊さんは自分のやりたいと思ったことを躊躇いなく行動に移す。
でも、それをただの無鉄砲だとは思わない。
行き当たりばったりではなくて、まるで計算し尽くされたようにすべての行動がうまくいく。
だから、どれだけ突飛なことをやろうとしていても古湊さんなら大丈夫と、絶対的な根拠もなく信じてしまう。
そして私は、当たり前のように頷くのだ。
「さてと。軍手は……」
「これ、使っていいよ」
早速やる気満々に腕まくりをする古湊さんに、左手にはめていた軍手を渡してあげた。
少しだけ驚いたように目を見開いて、すぐに笑みを浮かべる。
「ありがと」
快く受け取ったそれを、右手にはめた。
一つのものを二人で半分こして、一つの作業を二人で協同して。
いろんなものを古湊さんと共有できるだけで、私たちの繋がりを感じられる。
彼女の笑顔の眩しさに耐えきれなくて、花壇に視線を移す。
それでも気になってチラリと古湊さんの手元に目をやると、花びらに優しく手を添えていた。
「花壇に咲いてる花、綺麗だよね。一本一本でも輝いてるのに、集まるともう圧巻っていうか」
「そう思ってくれて……嬉しい。花壇のお手入れ、委員会のみんなで分担しながら毎日欠かさずにやってるから」
「ほんと、すごいよ」
そんな風に目を輝かせて笑う古湊さんも花みたいに綺麗だなんて、本人の前では恥ずかしくて絶対に言えない。
一人で勝手にドキドキして顔が赤くなっていることを気づかれる前に、話題をつなげる。
「そろそろ冬に咲く花を植える予定だから、また違った情景になると思う」
「そーなんだ。植える花はもう決めてあるの?」
「ううん、まだ。次の委員会までに候補を考えようとは思ってるけど……」
「じゃあ、わたしも一緒に考えていい?」
甘えるように首を傾げて、私の顔を覗き込む。
「古湊さんも、一緒に?」
「うん。もし二人で選んだ花を植えられたら――その花を見るたびにさ、お互いのこと思い浮かべる瞬間が増えるよね」
そう言って柔らかく微笑む表情は、まだ見ぬ花を想像しながら喜びを味わっているようで。
その姿を見るだけでわかる。
古湊さんは心の底から目の前の花を綺麗だと感じていて、どんな時も私のことを想ってくれているのだと。
温もりが膨らんでいく。
胸の奥で、じんわりと。
この幸せは、私の小さな心で受け止めるにはあまりに大きすぎる。
欲張ってすべてを抱えきる前に、ポロポロと溢れ落ちてしまう。
だから少しずつでも器を大きくして、それでもなお溢れてしまうものは自分の手で拾い上げて、彼女が与えてくれる幸せを一つも余さず胸にしまい込めるようになりたいと、強く思った。