私と古湊さんは、通学で同じ路線を利用している。
学校の最寄り駅から六駅先で私が降りて、そこからさらに三駅先で古湊さんが降りる。
けれど古湊さんと一緒に帰る時は、私が降りる駅の一つ前に二人で降りて、次の駅までゆっくり歩いていく。
その帰路が、私たちにとっての放課後デートの定番ルートだ。
一分一秒でも私と長くいたいという古湊さんの要望で、付き合った当時からこのやり方で帰っている。
お互いにタイミングが合わない日もあるから、毎日一緒に帰れるわけではないけれど。
古湊さんからすれば、一旦電車を降りてもう一度乗らなければいけないという手間がかかるから、面倒くさくないのだろうかと不安になって聞いたことがある。
その時の彼女は、「学校で気軽に話せない分、遠回りしてでも日依と一緒にいたいの」と答えた。
確かに、私たちが周りの目を気にせず堂々と話せる時間は、帰り道と休日くらいしかない。
今日のように学校で何回も話せることがあっても、私が怖気付いて変に緊張してしまうし。
だから、誰にも見られる心配のないこの帰り道は、私たちが心置きなく触れ合える場所だった。
特に、私の家の近所にある公園はお気に入りのスポットで。
遊具はブランコと滑り台くらいしかない、こぢんまりとした公園。
利用者はというと、小さなベンチに時々散歩中のおじいさんやおばあさんが休憩しているのを見かける程度。
駅に着いても「まだ一緒にいたい」と古湊さんが駄々を捏ねる日は、公園のブランコに揺られながら彼女とおしゃべりをする。
その時間は、一日の大半を一人で過ごす私にとって贅沢な一時だった。
「……古湊さん」
「ん?」
隣でブランコを漕いでいる古湊さんをこそっと呼んでみる。
ブランコにただ座っているだけの私と違い、まるで初めて遊具を使った子どもが夢中になって遊んでいるような無邪気さで、楽しそうに大きく足を揺らしている。
振り子のように漕ぎ続ける様子を横目に、こんなことを聞いてもいいのかなと今さら言葉に詰まる。
けれど、私がこの先も古湊さんとの関係を良好に、ないしは発展させていくためを考えると、どうしても現状のままにしておけない問題であることは確か。
自分の口からこの話題を出すことが恥ずかしくて、じわじわと頬が熱くなる。
しかし話しかけた以上、喉まで出かけた言葉を引っ込めるわけにはいかなかった。
「……恋人同士がたくさんスキンシップをするのって、普通のこと、なのかな」
古湊さんはよく私と手を繋ぐし、頭を撫でたり、抱き締めたりしてくる。
耐性のない私は、その度に心臓が締め付けられたようにぎゅっとなる。
苦手じゃない。嫌でもない。
これまで何度も触れられているはずなのに、すべてが初めて味わう感覚のように新鮮で、刺激的で。
毎日古湊さんに心奪われるような気持ちになるのだ。
そうやって触れることが相手に最も好意を伝えられるやり方なら、私も自分から進んでやった方がいいのかなと、最近考え始めるようになった。
古湊さんは漕いでいたブランコを止めて、私の方に顔を向ける。
「人によると思うけど……でも、恋人なら全然やってもおかしくはないんじゃない?」
さも当然だと言うようにけろっと答えた。
……それは、そうか。
スキンシップを積極的にしている当事者なのだから、それが当たり前だと思っていなければ頻繁に触れてきたりはしない。
「どうしたの? 日依からそんなこと聞いてくるなんて」
「えっと……古湊さんと手繋いだり、抱き締められたりするの、まだ緊張するから……早く慣れたくて……あとは、いつか私からそういうこと、できればいいなって……」
こんな告白をするだけで声が震え上がるのに、自分から触れにいくだなんて一体何ヶ月かかるのだろう。
先が思いやられるけど、古湊さんがいつも私に愛情を伝えてくれるのと同じくらい、私もお返しができたらいいなと思う。
チラリと、古湊さんの様子を窺う。
ただでさえ大きな目をさらにまん丸にして、驚いているとも喜んでいるともとれる表情で私を凝視していた。
「ほんと?」
「うん」
「わたしとたくさんスキンシップしたいってこと?」
「たくさん……できるように、まずは普通の恋人みたいに……触れ合いたい」
「世の中の“普通”に合わせなくても、日依は日依のペースで向き合っていけばいいんだよ」
「ううん。それじゃあいつまで経っても変われないから」
触れられるたびに体が強張って、甘い言葉を囁かれるたびに心臓が跳ね上がって。
こんな情けない私が、古湊さんの彼女だなんて釣り合わない。
そう思いたくないから。
食い入るような視線を向けていた古湊さんの目が、ふと脱力したようにとろんとする。
柔らかくて、嬉しそうでもあって、けれどもどこか真剣さを感じさせる眼差しに、私の視線は吸い込まれる。
「それなら――いつかはわたしとキスしたい?」
――キス。
その響きだけで、沸騰するような熱さが体の内から湧き上がる。
古湊さんが言っているのは、自分の唇と相手の唇を接触させる行為。
考えたことは、あった。
相手の体に軽く触れる以上のこと。
ドラマや漫画の中で見る恋人同士が交わす甘い口付けを、いつか古湊さんとする日が来るんじゃないか。
でも、なぜだか私には無縁のことのような気がして、その時はすぐに想像することを放棄した。
ただでさえ彼女と付き合っていること自体が夢のようなのにその先を望むなんて、と。
無意識にまた困った顔をしていたのだろう。
私をじっと見つめていた古湊さんは、冗談めかして笑った。
「手を繋ぐだけで耳まで真っ赤になるのに、口にキスなんかしたら日依死んじゃうかも」
「そんなこと、ない……」
「強がってない?」
「強がってない」
ぶんぶんと首を縦に振る。
口先だけは一丁前だった。
したいかしたくないかで言えば、したい。
わがままが許されるのなら。
古湊さんは目を細めながらしばらく無言で私を見つめたあと、ブランコから立ち上がった。
「なら、今ここでしてみる?」
目の前で、古湊さんが私を見下ろしている。
背後から夕日に照らされた彼女の姿は、光り輝く黄金を纏ったようでとても幻想的だった。
乾いた風になびく白茶色の髪は、まるで金粉が舞っているよう。
壮麗な大自然を目の当たりにしたような感動と、一瞬にして心を虜にされたような衝撃が同時に押し寄せてくる。
冬の訪れで空気は冷たいのに、彼女の周りだけが陽だまりを連れているかのように温かく見えた。
鼓動が激しく高鳴っていることも忘れて、人間離れした耽美で神秘的な様相に見惚れていたとき。
古湊さんが前屈みになって私の顔を覗き込んだ。
視界のすべてが彼女の顔で埋まるほどの近さに、ようやく自分の置かれている状況を理解する。
今からしようとしているのは、キス――。
「……っ」
喫驚して仰け反りそうになったところを、全身に力を込めて何とか耐える。
強がっていないと言ったのは私。
古湊さんとキスをしてみたいと思ったのも私。
言葉だけではなく、行動でも示せるようになりたい。
私は彼女の恋人なのだと、胸を張れるように。
ブランコのチェーンを強く握り締める私の手を、上から包み込むように古湊さんが握る。
私より少しだけ大きくて白い綺麗な手で。
優しくて、温かい。
それでも、緊張は収まらない。
ドクドクと、心音が脳に直接響く。
冗談ではなく、心臓が口から出てきてしまうのではないかと本気で思った。
「止めるなら今のうちだよ?」
「……止めない」
「わかった。じゃあ――逃げないでね」
ほんの少し首を傾けただけの動作が、とんでもなく魅惑的に見えた。
普段では感じられない色気のある雰囲気に心が掻き乱されて、頭がクラクラしそうになる。
「目、瞑らなくて大丈夫?」
古湊さんに微笑されて、はっとする。
いつもなら恥ずかしさで顔を逸らすところなのに、それすらできないくらい動揺で体の自由が効かなくなっていた。
目って、どうやって瞑るんだっけ。
そんなおかしな疑問が真面目に浮かんでしまうほどに。
無意識にした瞬きの動きで、どうにか感覚を取り戻す。
そして、強く、強くまぶたを閉じる。
視界が奪われると、言いようのない不安に襲われた。
視覚が働かない分、それ以外の感覚が過敏になる。
古湊さんの手の温もり、甘い匂い、風の通る音、自分の鼓動。
唇を、生暖かい吐息が撫でる。
――いよいよ、するんだ。
心臓が早鐘を打つ。
動悸が最高潮に達したとき、それは、触れた。