——その夜。
私は、自室のベッドに横になりながら天井を眺めていた。
「お預けになったデートは来月ということで!」
先輩からの誘い。
アイリの前で言われて、断ることが出来なかった。
「俺、来月には恋免取れそうだから!」
嬉しそうに笑う先輩に、何も言えなかった。
状況に流されていく私。
自分の気持ちは置いてきぼり。
それでいいの?
心の中に響く声。
だって、仕方ないじゃない……。
もう一人の自分にそう返す。
思わず涙が溢れそうになって、慌てて瞳を腕で押さえた。
——辛い。
でも、辛くても我慢しなくちゃいけないことなんて世の中にはいっぱいあって。
それは、これからもきっと増えていく。
この胸の痛みを乗り越えることが、大人になるということなのかもしれない。
だったら……。
私は起き上がると、机の横にかけてあったカバンを掴んだ。
猫のキーホルダーが、チャラッと子気味良い音を立てた。
思い出のキーホルダー、私の宝物。
私はレンが好き。
でも、先輩はこんな私と向き合おうとしてくれている。
そしてアイリ。
中学からの同級生で、大切な親友。
アイリには、その恋を応援すると言ってしまった。
私とレンはただの幼馴染で、恋愛の対象じゃないとも。
だから……。
私は震える指先で、カバンから猫のキーホルダーを外した。
そして、ゴミ箱の前に立つ。
私が諦めれば、すべて上手くいくんだ……。
サヨナラ、レン……。
一夜が明けた。
週の始まり月曜日。
今日に限って、なぜか目覚ましよりも早く起きてしまった。
仕方がないので早めに制服に着替えて下に降りる。
ダイニングでは、お母さんが私の朝食の準備をしていた。
「おはよ……」
「あら、おはよう。今日は早いのね」
「うん。目が覚めちゃったから」
そう答えながら自分の席に座る。
お父さんはもうお仕事に行ったみたい。
大人って大変だな……。
「行ってきます」
朝食の後、私はカバンを掴んで家を出る。
カバンが揺れる度に音を立てたキーホルダーはもうついていない。
今までずっと一緒にあって、それが当たり前だった。
にわかに寂しさが込み上げる。
でも、自分で決めたこと。
早く慣れるしかない。
通りを歩く生徒たち。
それは、学校が近づくにつれて増えてくる。
その中には……レンの姿もあった。
くぅ……見つけてしまった。
正直、今日だけは見つけたくなかった。
今だけはこの〝人混みの中からレンだけを見つける能力〟が恨めしい。
真っ直ぐ前を見て歩いていくレン。
仕方がないので、他の生徒の陰に隠れて顔を合わせないように……。
そう思った瞬間、レンがくるっとこちらを振り返った。
「よぉ」
軽い挨拶、いつものレン。
私の願いもむなしく、あっさり見つかってしまう。
そうだ、向こうも〝人混みの中から私だけを見つける能力〟保持者だったっけ……。
「ああ……うん」
「なんだそれ。この前から挨拶が変じゃね?」
人の気も知らないレンがうるさい。
思わずうつむいた私をよそに、レンは勝手に横に並んで歩き出す。
「ちょ! なんで並んで歩くの!?」
「別にいいだろ、同じ学校なんだから」
「そ、そうだ、レン! 忘れ物とかあるんじゃない? 早く家に戻った方がいいよ!」
「いや? 別にないけど?」
「それは、忘れ物をすることを忘れてるんだよっ!」
「……ムチャクチャ言ってんな」
レンは短いため息を一つ。
そして、私に向き直る。
「もしかして、水本の言葉を気にしてる?」
胸がドキッと大きな音を立てた。
『月島くんが私と付き合ったら、レンとアイで恋愛だなって……』
アイリの言葉が頭の中に蘇る。
何も言えなくなっている私に、レンはふっと軽く笑った。
「バーカ、気にすんなって。あんなの、水本の冗談だろ」
「冗談じゃないよっ!」
思わずそう叫んで、ハッとする。
咄嗟に言ってしまった自分に驚きを隠せない。
それはレンも同じのようで。
驚いたような瞳で私を見つめている。
「わ……私、日直だから先に行くね」
そう言って、レンを置いて走り出す。
とにかく早くここから立ち去りたい。
このままだと、自分の気持ちもアイリの恋心も、全て漏れ出してしまいそうだったから……。
学校についてもこの気持ちはおさまらず、私はレンを避けていた。
お昼休みは……。
前に私がレンをメンバーに引き込んだということもあり、ミユとユウトくんも含めた4人でお弁当を食べている。
でも、私とレンの間に会話はない。
ううん、レンからはたまに話しかけられるけれど、私が返事をしないというのが正しいところ。
目の前のミユが首を
でも、もう決めたことだから。
私はレンを諦めるって。
その日のお弁当も、私の大好きな卵焼きが入っている。
でも、なぜか今日はあまり味を感じない。
変なの……。
「ごちそうさまー!」
先にお弁当を食べ終わったユウトくんが、片付けを始める。
その顔は私と違って満面の笑み。
ユウトくんは食べる前も、食べているときも、そして食べ終わった後も嬉しそうで。
お菓子を作りたくなるミユの気持ちがわかる気がする。
「おっと」
ユウトくんがカバンを持ち上げたとき、何かの雑誌が滑り落ちてきた。
床の上にバサッと落ちたそれは……。
「恋愛情報誌?」
それは、恋愛コラムや相談、デートスポットなどが載っている本だと聞いている。
「ユウトくん、こういうので勉強しているんだ?」
私は拾い上げてページをめくってみる。
目次のページに大きく書かれた文字は……。
「『高校生のキス事情! 30%がキス経験済み!?』……!?!?!?」
し、刺激が強いっ!!!
私は慌ててページを閉じた。
「こ、こ、こ、こういうので勉強してるんだ!?」
「んー、まぁ……」
ユウトくんはチラリとミユを見る。
ミユもユウトくんを見ると、お互いに頬を赤く染め合った。
なんだか、その唇がいつもよりぷるんと
その反応、するどい私はピンと来た!
もしかして、この二人……。
キス、経験済みだったりする!?
「ね、ねぇ!」
早まっていく鼓動。
開いた口からは、震えた声が出た。
「も、も、も、もし、もしか……」
「ウサギとカメか?」
「違うっ!」
茶化すレンに、私はバンッ! と机を叩いた。
「もしかして、二人は経験済みなのっ!?」
「付き合ってるんだし、キスくらい珍しいことじゃねーだろ」
なっ!?
レンが涼しい顔で言う。
「キスはスキンシップの一つだし、無免許でもできるしな」
えっ……そ、そうなんだっけ!?
「うんうんー。じゃないとー、お母さんが赤ちゃんにチューってするのー、犯罪になっちゃうもーん」
「赤ちゃん、まだ恋免持ってないもんね」
あ……そっか。
言われてみれば、確かにそう。
そういえば、そんな問題が免許取得の筆記試験で出た気がする。
私、すっかり忘れてる……。
見つめ合ったミユとユウトくんは、どちらからともなく笑い合う。
幸せそうな二人。
キスって、どんな感じなんだろう……?
その笑みには大人の余裕が感じられて。
私には刺激が強すぎて。
……だけど
二人を直視することが出来ずに横を見た。
そこには、レンの横顔があった。
彼は、私と違って目を
二人を見つめ微笑んでいる。
な……なにこの余裕!?
もしかして、レンはキスの経験者!?
そ、それってアイリと!?
早鐘を打つ心臓。
雷の音みたいな鼓動は、もはや痛いくらいだった。