翌朝、私を待っていたのは、セドリックとしばしの別れだった。
「そんなに急いでお戻りにならなくても……」
「泣くことはありませんよ、ヴェルヘルミーナ」
「そうですよ、ミーナ姉様。またすぐに会えますから」
身なりを整えたお祖母様とセドリックは、私のことをそっと抱きしめてくれた。
「お披露目は三ヵ月後でしたね」
「……え?」
突然の言葉に、私は首を傾げて黙ってしまった。
お披露目とはもしかしなくても、ヴィンセント様との結婚報告をする夜会のことだろうか。
社交界どころか、お茶会すらまともに出たことのない私のデビュタントが、まさか自分の結婚報告なんて。恥さらしというか、ある意味、拷問よね。でも、今さら出来ませんともいえない。
「やっと、ミーナ姉様を皆に紹介できるんですね!」
嬉しそうなセドリックの顔がとても可愛くて、思わず抱きしめたくなったけど、ちょっと待って。皆に紹介って、誰に私を紹介したいのかしら。
お祖母様の繋がりで、セドリックと年頃が近い子は、そう多くなかったような気がするわ。そうだ、はとこのライサ様の家は子爵家だったわよね。それから──
「ミーナ姉様?」
「あらあら、何か考え事を始めてしまったようね」
ぶつぶつと呟いていたらしい私が、きょとんとするセドリックと、小さく笑うお祖母様に見守られながら、記憶を漁って必死になっていると、肩にぽんっと大きな手がのせられた。
見上げると、苦笑を浮かべたヴィンセント様がいた。
「ヴェルヘルミーナ、そのくらいに」
「ヴィンセント様……あ、あの、夜会にはどのくらいご招待されるのでしょうか?」
確か、ローゼマリア様が仕切ると仰られていたと思うんだけど。もしかして、私も一緒に確認した方がいいのではないか。
「心配しないでも、三ヵ月、しっかり学べば間に合う」
私の頭をぽんぽんッと叩いたヴィンセント様は「やることは山積みだな」といった。
「そうですね。招待客の相関々係も頭にいれないと──」
「それも大切ですが、ダンスもですよ!」
「ダリア!?」
「結婚してから嫁入り修行だなんて、聞いたことがありません」
「嫁入り修行って……」
呆れたように言うダリアの顔は、言葉とは裏腹に楽しそうだ。
デビュタントは諦めなさいと言われ、社交界でのマナーはおろか、ダンスのレッスンなんて一度も受けたことのない私にとって、未知の領域なんだけど。
「まずは社交界でのマナーとダンスを履修していただきます」
「招待する貴族については、私もサポートする。そう難しく考えなくてもよい」
「レドモンドにとって有益な夜会となりましょう。頑張りどころですね、ヴェルヘルミーナ」
「姉様が踊られるの、楽しみにしています! きっと、素敵でしょう」
微笑む四人を順繰り見た私は、一呼吸置いて顔面蒼白になった。
ダンスって、一人でするものじゃないわよね。私はヴィンセント様と踊るのよね……え、この身長差をどうしたら良いの。私じゃ、釣り合わないんじゃないかしら。
「む……無理です!」
そう宣言し、縋るようにヴィンセント様を見上げると、穏やかに微笑む顔があった。
「それと、ヴェルヘルミーナ」
「……ま、まだ何かあるのですか?」
「あぁ。君には魔術師の登用試験を受けてもらおうと思っている」
「……は、はい?」
「第五魔術師団で、働いてもらおうと思っているんだ」
「あ、あの……仰られる意味が、分かりません」
貴族に嫁いだら屋敷の女主となり、屋敷を守って領土を守る。それが一般的だと言うのに、魔術師団で働くって、どういうことかしら。
「女主として、リリアードを守るのは勿論だけど、君の記憶を映す力を貸して欲しいんだ」
「私の、力って……」
「詳しい話は、また後でするが、登用試験は三ヵ月後だ」
待って。
私に能力が授かったのは周知の事実となったけど、私、未だに魔法なんて一つも使えないのよ。そんなの、不合格になる未来しか見えないじゃない。
「それを無事に終わらせたら、お披露目の夜会で、ヴェルヘルミーナを素晴らしい魔女としても紹介できますね」
「第五師団にお勤めだなんて! 凄いです、姉様!」
「ま、待って下さい……そんな、私は……ヴィンセント様に恥をかかせることに……」
勢いよく頭を振って無理だと主張するも、ヴィンセント様は「君なら出来るよ」と根拠のない自信で後押しをされた。
大きな両手で震える指先を握りしめられて見つめられたら、出来ませんなんて言葉は引っ込んでしまう。
あぁ、私は魔法が使えませってはっきり言えたらよかったのかしら。もしも離縁されたら私はレドモンドに戻れるのよ。継母のいないあの家に戻って仕事をこなせば良いだけじゃない。社交界やお茶会に出なくてもいい日々。商談に追われ、領地の視察に忙しくする日々へと戻るだけよ。
ダンスやマナーなんて必要のない慣れた日々の方が楽に決まっているのに。
「ミーナ姉様、頑張って!」
大好きなセドリックに背中を押されたら、頑張るしかないじゃない。
「大丈夫だ。私が全て教える」
初恋の人にそんなこと言われたら、口をパクパクさせるしかないじゃない。
「……頑張り、ます」
それにしても、私の記憶を映し出す能力を貸して欲しいって、何をするのかしら。私の記憶なんて、たいしてお役に立つとは思えないのに。そもそも、魔術師団のお手伝いだけなら、魔術師の資格を取る必要もないような気がするわ。ヴィンセント様は何をお考えなのかしら。
疑問が次々に湧いてきたけど、こうして私の新婚生活──猛勉強の日々が始まることとなった。
この時は不安と疑問ばかりだったけど、私の心をヴィンセント様にかき乱される日々が訪れるだなんて微塵も想像しなかった。
元気に手を振った笑顔のセドリックを見送り、青空を見上げる。
優しい風が吹き抜けて、私の髪を揺らした。
なんとかなるわよね。だって──
「ヴェルヘルミーナ、お茶にしようか」
ヴィンセント様が側にいる。
大きな手にエスコートされた私は、これからの人生を送るお屋敷を見上げて「スミレの砂糖漬けはありますか?」と尋ねてみた。
琥珀色の瞳が細められる。
「もちろん。好きなだけ食べればいい」
「一欠片だけでいいです」
「では、毎日一欠片、食べさせてあげよう」
武骨な指が私の唇に触れた。
「自分で食べられますけど?」
「ははっ、いつになったら私に甘えてくれるのだろうな」
そっと顎を上にあげられ、私の鼓動が跳ねた。次の瞬間、ヴィンセント様の端正なお顔が近づき、私に影を落とした。