一か月半後。
瑠璃野地区を哨戒中だった味方中隊の援護へと長い眠りを経て出撃したシルフ中隊は、一両しか生き残らなかった味方車両の出迎えを受け、帰投した。
久しく戦闘らしい戦闘がなく、手応えのない退屈な日々を送っていた彼女達にとって、良い刺激になったことは間違いがない。気掛かりだったのは、標的として部隊全員が認識する敵のエース部隊、あの黒い90式を連ねた戦車中隊に一度も遭遇しなかったこと。
しかし着実にアークユニオン軍の進撃を阻んでいたことは事実である。最も物量に優る戦術で封じ込めている彼らを抑えることで精一杯なのが現状だが、交戦した彼らの損害は他の戦場に比べ遥かに大きいことは、投入戦力と被った損害、そして敵が未だに損害らしい痛手を被っていないデータで察しがつく。
その部隊が国防軍内では『シラヌイ』と呼称される戦車中隊で、かなりのやり手だということ、アークユニオン内に現存する対抗演習の資料には彼女達の負けという文字はない。率いる指揮官は『シュガーショコラ』と言う名の黒髪に黒縁の四角い眼鏡を掛けた利口そうなアバターで、如何にも頭脳戦しかしないような人相をしている。
その異名は『雷影』。稲妻の如き俊足と破壊力を持ち、その光を捉える前に撃破されるという畏怖からつけられたコードネーム。とても敵には回したくない。
前戦基地の簡易テント内に設営された浴場で、ラヴィーは難儀に顔を顰めていると、ビニールバスの湯船に浸かっていたオタサーが彼女の顔に湯を掛けた。
「ひゃっ?!」
「第一射、目標に命中、ですわよ」
考え事に水を差され、頭を抱えて嘆息する。どうやら空気を読み違えたのでは、と引きつった顔でラヴィーを覗いたとき、咄嗟に流れていたシャワーから流れる湯を彼女の顔面目掛けて噴射した。
「しゃ、シャワーはずるいですわよ!」
「あははーごめん。やり過ぎたかな?」
「ラヴィーったら、それっ!」
浜辺で水着を着た少女達がじゃれついていたら様になるだろう光景は、味気ない深緑の簡易浴室では絵などはずない。
薄っぺらいテントの向こう側は他の浴室か、野営用の切り株ベンチとバーベキュー台、組み立て式のテーブルを並べた食卓が数十メートル先にある。日を遮る遮光幕が天井を作り、兵士達の寝床はそのさらに先にあるかまぼこ状のプレハブ小屋で運び込まれたパイプ製のベッドで寝泊まりしている。シャワーと固くないベッドがあるだけ、まだマシだが。
そんな筒抜けの戯れに聞き耳を立てている男アバターのプレイヤーが壁一枚先にいるとは、二人は気づく様子もない。戦闘になればその直感と感覚は研ぎ澄まされるも、間の抜けたグリーンゾーンではごくごく普遍な少女であった。
「ぬぅーやはり年頃の仔猫ちゃんたちがお風呂でキャッキャウフフしている姿は大変な贅沢だ。憎いねぇ野営風呂」
口を歪ませて瞳が危なげな色と雰囲気を放っていた彼は、満足げだが声音が彼女達の耳に入らないよう静かに悦へ浸っていた。その場に彼の目撃者はおらず、闇に紛れて己の私欲を満たしていた。
「ブレザー、飯持ってきたぞ」
「うぅーん。ぬほほほー、これは絶景じゃぁ絶景じゃぁ」
「ったく、オイコラ、そこのテント」
「ジャックはしばらく黙っていてくれ。もう少しで来年出す新刊のネタが思い浮かびそうだから」
「センシティブのボーダーライン超えんな。バレたらオタサーに何されるかわからないんだぞ?」
「大丈夫だって、というか、ジャックだってここにわた、俺のご飯持ってきてるから共犯共犯」
「はぁ、勝手に無辜の市民を共犯者に仕立てんなよ弁護士さんよ」
大きなため息をついて、持っていた缶詰を地面へ置いたジャックは、ネタが欲しいという不純な理由で盗聴を続けるブレザーの傍から一目散に離れる。野営のときにこの男といて幸運に巡り合ったことは一度もないからだった。
その後も奇怪な声と息遣いでテントに横顔を密着させたブレザーは、誰に咎められることなく堪能していた。
水面の乱れは消える。疲れを洗い流す場で掛け合いっこをしたばかりに息が上がるオタサーは、湯船に戻って縁に首をつけた。
「でも、不思議ですわ」
「何が?」
「お互い、あまりアバターの容姿は変えてないのに、気づかなかったんですもの」
「うーん、クラスに居たけど一緒にゲームする前は疎遠だったからかな?」
天井を仰いだオタサーは、遠くを見るような目線で言った。
容姿も髪色も性別も、どんな自分にもなれる魔法の世界で彼女達のようにアバターをほぼ現実と変えていない人間は珍しい。ゲーム側もプライバシー保護の為に多少のモデル改変で小細工や誤魔化しをしているが、顔見知り同士なら他人の空似ではないのならまず間違えない程、その調整は微細だ。
ラヴィーはそれも兼ねて、眼鏡は取っ払ってから髪の毛を三つ編みから耳元までバッサリと切り詰めたショートヘアに変更している。
「でもオタサーは現実で顔を合わせてても気づかないよ。髪の毛は明るいピンク色してるし、奇抜というか、イメージとかけ離れてファンシーだなって」
「うふふ。お淑やかにと教えられていましたの。ですけど、こういう派手な色の髪の毛も悪くないかなと思いまして」
「思い切ってて良いよね。そういうのも」
「褒めるのがお上手なんだから」
オタサーが前髪をたくし上げておでこまで顔の表情を開く。毛の根本の一本一本まであれだけ小型のバイザー型ヘッドギアが作り出していると思うと、VRゲームの精巧さが伺えてしまう。
すると肩まで浸かっていたオタサーは立ち上がり、見せつけるように肉体をラヴィーへと向ける。なだらかなお腹のラインから頭の方へ目線が上がる。
穏やかな稜線は小ぶりになった二つの実に目線が行き、それを感じ取るとシニカルに笑って、
「あっでも私、身体はとくにいじってないんですよ?」
「身体……ですか?」
表情はまさに勝ち誇ったような自信の笑みに満ち溢れていて、意識させるように煽っていた。鈍感なラヴィーもそれにはいくらか反論しなければと張られたお湯から身体を突き出した。
「わ、私だって! ノビシロはまだまだあるんだからね!?」
「それはどうでしょうかね」
「か、揶揄わないでください! 私だって今はオタサーの縊れたお腹のようにフラットかも知れないけど、あと二年、いや一年で複合装甲も顔負けの肉厚装甲になってみせるから!」
「その言葉、二言はありませんわね?」
「うぅ、ないよ」
「そこでどうして弱気になるのですの?」
「だってぇ」
思春期の女子なら悩みの一つでもある。ジェラシーを煽っておいて罪の意識を感じるオタサーだったが、それに強気で乗ったわりにあっさりと両手を挙げて降伏して咽び泣くような声を出されては、とてもこれ以上は可哀そうだと、観念する。
「遺伝的にうちの母は小さいからさぁ。私には希望もへったくれも」
「お父上様方のおばあ様はどうなんです?」
「お父さん方の? うーん、あったことないから、わからないかな」
「会ったことがないのですか? おばあ様と?」
「お父さんとも顔を合わせた記憶はないかな。勿論、その上も」
何気なく放つ重量級の一言にオタサーは心苦しそうに訝り、出た言葉は謝罪だった。
「ごめんなさい。少し、不躾でしたわね」
「いいよ。気にしてないし」
「気にしてない?」
「そう。結局、会ったこともないからどういう人かもわからなかったし、事故って聞いてたから運命なのかなって割り切ってるから」
「そうなのですね……」
「悲しむことさえ与えてくれなかったっていうか、この歳なら多分、一回は会えてただろうし、人が死ぬことの実感を掴めていたから、もっと心に引き摺ってただろうと思うけどさ。薄情でしょ、意外と」
「そ、そんなことは決してありません」
息を呑んで叫ぶようにオタサーは嗚咽した。外のブレザーも居所が悪くなってしまったのか、テントに寄り掛かって空を見上げた。
「でも知らないって、結局その痛みを感じることが出来ないわけだからさ。覚悟はしているけど」
「私もおじい様が亡くなられたとき、まだ幼くて、それで」
「……そうなんだ」
紅潮していた二人の間に、湿っぽいムードが流れ込んでくる。ラヴィーはそれを払しょくするように話題をあえて変えた。
「それよりご飯、まだだったね。早く上がって食べよ」
「私もお腹空きましたわ」
「と言っても、ここじゃ食べても味だけだし、現実の身体は満腹にならないんだけどね」
「太らないって思えば、気が楽ですわよ。空腹は確かに感じるのはとても興味深いですけれどね」
そう言って浴槽から身体を出して風呂を出ようとしたとき、オタサーが端っこに膨らみを見つけ、足を止める。
「あら、何かしら」
丸い猫の背中のようなテントに撓み。彼女が呟いて触れるとそれは一気に萎んで、外から可愛らしくもトーンの低い悲鳴が聞こえた。
「ひゃんっ!」
声で一つわかったのは、この小隊がラヴィーの良く知る人物で、戦車越しに肩を並べている男だということだ。眼を細め、バスタオルで身体を急いで拭いて脱衣所で服を着こむと、テントの外で何食わぬ顔をしながら星を見るその盗聴魔と遭遇する。
「や、やぁ仔猫ちゃんたち。今日は実に星が」
「……オタサー、変態さんがここにいるんだけど、お願いできる?」
「なぁちょっと待ってくれ! これは……誤解なんだラヴィー。そうだ。うん誤解なんだ仔猫ちゃ」
「あらあらぁ? こんなところに血色と盛りのいい殿方がいらっしゃるなんて、ご精が出ますわねぇ。そうは思いませんかラヴィー?」
月のない夜は星の劇場だったが、赤く憤慨のオーラを放つ二つの視線に、ブレザーは懇願するように事情を説明しようと試みる。
ラヴィーとオタサーのコメカミには怒気が皺を作り、穏やかに声を掛けている様が恐怖を助長する。その夜、彼は戦車の方に詰め込まれるのではないかというほどの説教と尋問を受け、寝床に入ったという。
覗き事件は部隊内で一躍時のネタにはなったが、それも台無しにするのが戦争であった。他愛のない休息の一コマでさえ、次に来る戦場が長閑な日常をかき消した。