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第25話:緑の檻を抜けて①

    1年前――


 湿った小枝が折れ曲がる音と、靴底にへばりつく腐葉土の感触。雑木林は縦横無尽に広がるクヌギの葉によって日光が遮られ、熟成し過ぎたウイスキーのように甘ったるい匂いを放っている。


 状態の良い足元を探しながら、たまに木の根に足を取られながら、男――灰塚はいづか達樹たつきは林の中を歩き回り、一際巨大な樹木の下で足を止めた。

 もみあげの位置から流れ落ちた汗が、首筋を通ってシャツの襟を湿らせる。

 リュックから水筒を取り出して数回喉を鳴らし、口の端からこぼれた麦茶をシャツの袖で拭う。

 見上げた先に空はない。

 ただ緑の屋根が視界を遮っている。


 達樹は首から下げたデジタル一眼レフカメラのファインダーを覗き、張り巡らされた木の葉の網の中から、葉脈が綺麗に走った1枚を写真に収めた。


 おそらくこの木が、キャンプ場の立て看板に書かれていた『御神木』なのだろう。


 神々しく聳え立つ一本の木は、かつてはこの『白錐山』に住む人々から崇め讃えられていたに違いない。

 しかし現在、この木の元に訪れる人々なんてほとんどいない。この場所に辿り着くまでに見た苔むした石段、道を塞ぐように繁茂する枝葉、踏み固められた土の上に溜まった腐葉土が、そんな現状を物語っている。


 少し寂しい気持ちはあるが、それもまた人の性なのだと達樹は思う。はるか昔は物の中に宿っていた神も、今は情報の海の中に存在していて、ポケットに突っ込んでいる薄い板を覗けばいつでも謁見する事ができる。


 ミヤマシロヒメ。


 この巨木の下にいると言われる少女の神は、広大な白錐山に宿り、山の秩序を守っていたという。

 そんな彼女も、今は麓の町に住む老人達のコミュニケーションの中にだけ存在していて、世代交代の果てにいずれは消滅してしまう存在なのだろう。


 感傷的な気分になった達樹は、どこか寂しげな朽ちかけの巨木にカメラを向け、シャッターを切る。

 そして確認のため、背面モニターを覗く。


 そこに異様なものが写り込んでいた。


 白い服を着た少女。


 達樹は目を見開き、モニターに映った景色と実際の景色を見比べる。モニターで少女が立っている場所には、肉眼では誰もいない。


 達樹の背筋を冷たいものが走る。


 しかしそれと同時に、不可解なものを解き明かしたいという好奇心が、達樹の中で沸き起こる。


 ゆっくりと、少女の立っていた木の下に歩みを進めながら、何度もシャッターを切る。

 背面モニターで撮影した写真を確認すると、確かにそこには白い服の少女が立っている。


 少女の目はこちらを見つめていた。


 憂いと、憧れが混じった視線のように、達樹は感じた。


 少女がいるであろう誰もいない空間を見つめながら、達樹は腰に下げたバッグから予備のミラーレスカメラを取り出し、レンズを向ける。


 背面モニターに少女が映る。


 達樹は立ち止まる。


 モニターに映った少女は頬に掛かる長い黒髪に右手の指先で触れ、新緑の渓谷を彩る残雪のような、木々の隙間を静謐に侵食していく朝霧のような、その透き通る純白の肌を晒した。


 人の域を超えたその美しさに、達樹は目を奪われる。


 それは雄大な自然の神秘と対峙していような、矮小な人間の感性を捉えて離さない、圧倒的な誘引力をもっていた。


 達樹は自然の見せる表情を、時に感動し、時に畏怖しながら、そのカメラに収めてきた。

 自然とは単純な美しさだけではない。

 恐怖や、悲しみや、怒りの感情も全てないまぜにした複雑な織物こそ、達樹が写真として切り取りたい自然の一面だった。


 目の前の少女は深い悲しみと、やり場のない怒りと、そんな自分自身への恐怖と、それを無理矢理覆い隠そうとする幸福の感情が同居していた。


 達樹にとってその存在は、追い求めるべき完璧なる被写体であり、目を逸らしてしまいそうなほど神々しい光だった。


「ミヤマシロヒメ‥‥」


 達樹は呟く。


 そんな彼の頭の中に、少女の声が響いた。


『旅人さん、旅のお話を聞かせてよ』



   ▲



 日が落ち掛けている。


 御神木の足元は、自身の作り出す影によって、一足早く夜の帳が下りていた。


 木の根に腰掛けた達樹は、隣に座った少女に自らが見聞きした様々な景色を語る。気が付けば旅の話は、自身の生い立ちや趣味嗜好の話まで広がっていた。


 ミヤマシロヒメは何度も頷き、時に目を輝かせ、達樹のカメラに保存された写真の一つ一つに感嘆の声を上げながら、彼の話に耳を傾けている。


 モニター越しに見るミヤマシロヒメの姿は、10代後半の少女と変わらない。初めて会った時に感じた神々しさは、散り始めの桜の花びらのように全身を彩っているものの、頭の中に話しかけてくる彼女の声は、ただの純粋な少女と相違ない。


 カメラのモニターを通さないとその姿は背景の中に溶け込んでしまうのだが、目を凝らすとぼんやりとした黒い影が、人の輪郭を形作っている。

 ミヤマシロヒメの伝承に記されている『黒い影の姿』というのは、きっとこの状態なのだろう。

 どういう理屈かはわからないが、実際の像を映像データに変換する際に何らかの力が働き、ミヤマシロヒメの影のような姿は、人と同じの姿へと変換されるようだった。

 映像をデータに変換するような技術が存在しない時代であれば、彼女を単なる黒い影の姿として捉えてしまっても無理はないだろう。


「ありがとう、とっても楽しかった」


 一頻り話した後、ミヤマシロヒメはそう言って笑った。


「大した話じゃないですよ。それに、僕も楽しかったです」


 達樹は頷く。自分の人生や感動は、人と分かち合えるほど特別なものではない。そんな澱んだ川のような話ですら、彼女は目を輝かせて聞いてくれた。

 達樹は自分の心が肯定されたような安らぎを、ミヤマシロヒメとの会話の中で感じていた。


 ふと、彼女と共に日本中の景色を見て回るという、そんな罰当たりな夢物語を達樹は想像してしまった。

 それはとても魅力的な未来のような気がした。


「ずっと、ずっと誰とも話してなかったから」


 ミヤマシロヒメは名残惜しそうに顔を伏せると、上目で達樹を見る。


「どのくらいですか?」


「多分、夏が50回以上は過ぎたと思う」


 人々の信仰が薄まり、旅人として山奥まで足を運ぶ者も減り、霊的なものへの感受性も衰えてしまった現在の社会では、ミヤマシロヒメの存在に気付くものはごく少数なのかもしれない。


 この少女は、繰り返される景色の中で、一体どれだけの孤独と向き合ってきたのだろう。


 所詮人間の達樹には、それを想像する事すら出来なかった。



   ▲



 日は完全に落ち、一日の終わりを伝えていた。


 達樹はキャンプ場に立てっぱなしのまま放置してきたテントの事が気になった。

 最近購入した限定品のワンポールテントだから、価値を知っている者がいれば窃盗なり悪戯なりをされる可能性がある。また消灯時間を過ぎてもテントに持ち主が帰らなければ、管理人は持ち主が何かしらの事件事故に巻き込まれた可能性を考え始めるかもしれない。


 そろそろ潮時だな、と達樹は立ち上がる。


 長い時間座っていたせいか、膝と腰に鈍い痛みを感じた。元々体が弱く、体を動かす事が少なかった達樹にとっては、このちょっとした散策もなかなかの重労働であった。


 別れを告げると、ミヤマシロヒメの目から輝きが消えた。


 その表情に達樹の胸は痛む。


「テントまで、一緒に行きますか?」


 そう達樹が提案すると、ミヤマシロヒメは無言で頷いた。


 夜の林はほんの少しの光源すら存在しない。ハンドライトの光量だけでは心許なかったが、慎重に足元を確かめながら歩いた。


 二人とも無言だった。


 達樹はこの無言を寂しく、しかし心地良くも感じていた。後ろを着いてくるミヤマシロヒメの気配を、とても愛しく感じた。


 ミヤマシロヒメはこの山から出ることは出来ない。


 山の神である彼女は、この巨大な三角形の下から出る事は叶わず、この山の命が尽きるまで何千年も、何万年も、たった一人で次の旅人を待ち続けるのだろう。


 膨大な記憶のノートに書き込まれた、小さな点のように微々たる『新しい景色』を、これから何百年も待ち侘びるのだろう。


 キャンプサイトの明かりが見えてきた。


 小さな三角形が立ち並んでいる。


 達樹は振り向き、カメラを構える。モニターには巨大な三角形の檻に囚われた、小さな少女が立っていた。


「ミヤマシロヒメ様ーー」


 この時の言葉が、それからの達樹の人生を大きく変えた。


 それは決して正しい選択ではなかった。同情の油絵の具で塗り固めた、自身の欲求の槍で、破裂寸前だったミヤマシロヒメの欲求を堰を突き破るような、乱暴な行為だった。


 ミヤマシロヒメに惹かれる達樹。


 檻の外に憧れるミヤマシロヒメ。


 理性や守べきしきたり、自身に課せられた使命によって押し止められていた願いが、小さな一言によって崩れ去る。


「僕と一緒に、外の世界に行きましょう」


「でも、私には留まらなきゃいけない場所があるから。守べき山がなければ、存在を許されないから」


 彼女の背に広がる白錐山。


「これから少しの間、この小さな三角形が、貴方の留まるべき場所、守べき山になります。だからーー」


 達樹の指さす先には、小さなテント。

 白錐山とは比べ物にならないほど、小さな小さな三角形。


「僕と一緒に、行きませんか?」


 ミヤマシロヒメはテントの傍に立ち、振り返る。


 小さな三角形を背に見上げた、黒く巨大な白錐山。彼女を捉えていた檻は、離れていく主人を呼び止めようと、低く重たい叫び声を上げているような気がした。




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