「──うそ……でしょ……?」
「…………」
服飾工房・ビスティー店内。
ずん……と落ちる重い空気。
問屋が述べた事実に、カウンターの内側で頭を抱えるのは『ミリア・リリ・マキシマム』。この店の着付け師であり、カウンセラーだ。
焦点の合わぬハニーブランの瞳で見つめるは『仕入れの帳簿』。変わらぬ数字
カクカクふるふる震えだす。
そんな彼女の向かい側。
カウンターに頬杖を付き綺麗な顔を険しく砥ぐのは、スパイ『エリック・マーティン』。この街の盟主でありスパイの男だ。彼もまた、そこで黙り込み険しさを研いでいた。
ふたりが布の問屋に出かけたのが約1時間ほど前。
(ふふー♡ 荷物持ちもいるし、安く買えるし、スペシャルラッキー♪)と意気揚々と店を訪れたミリアに、衝撃が走った。
問屋のおばさんは言う。
『────ごめんねえ。先月からシルクと綿もあがったのよ~』
ミリアは動揺した。
『なんでっ!? えっ、シルク……は、わからなくもないけど! なんで綿までっ?』
エリックは問う。
『…………それ。いきなりですか? それともじわじわと?』
困る常連のミリアと見慣れぬ付き添いに、おばさんは答えた。
『んン~……シルクはまあ~大体この時期にハネるからねえ。でも、綿のほうはいきなりでねぇ』
『先々週まで普通だったのに、発注かけたら『在庫不足』って言われちゃってねぇ。こっちも困ってるのよ~。夕飯一品減らさないとだわぁ』
『……ごめんねぇミリアちゃん。メーターあたり15メイル増しね? こっちも生活があるの。悪いわね?』
※
「まって。ありえん。単価15メイル上がるとか、マジであり得ん。何が起こった? なんで?」
店について早々。買い込んだ素材もそのまま手で頭を抱え、ぶつぶつと呟くミリア。
「え、だって綿だよ、綿。庶民と我々のお友だちが、どうして……! いままでこんなことっ……、ああああああああ!」
「……………………」
やかましいミリアの隣で、黙り込んで考えるのはスパイのエリックだ。
彼女の叫びを右から左へスルーして、口元を覆いながらカウンターを睨みつけている。
(──『毛皮』と言われてそれだけに注目していたけど……糸じゃなくて綿とシルクまで? …………これは、想定外──というか、予想していなかったな……)
「ねえ、なんで綿? なんだろ、えええ? 何に使うの、そんな在庫切れるなんてことあるっ?」
共に服飾産業に大きく関わる彼ら。
カウンターを挟み、ビスティーの店内は──静寂と騒音ではっきりと分かれていた。
(…………綿の高騰は痛いだろう。服飾だけじゃなく、寝具や他の産業にも関わってくるよな? 素材自体の価格の底が上がると、商品として出す時にはさらに上乗せしないと利益が出ない。…………うちの産業の6割は服飾だぞ、どうするんだよ。下手をしたら来期の税収にだって響くことになる)
「ねえコットン? あなた、いつからそんな高い女になったの? わたしと『ずっ友だょ……!』って言ってくれたのは嘘だったのコットン!」
(──いや……、ここは逆に捉えるべきだ。『毛皮に引き続き、綿とシルクの高騰に気づけたこと』は大収穫じゃないか。おそらく、まだギルドに報告も上がっていないはず。『同じ服飾の材料で同じ時期に高騰している』……これが無関係だとは……思えないよな)
「確かにね? 綿は気持ちいいけどさあ、毎年こんなことなかったのに! どこかでボーンの大売り出しでもやってるのかなー!? それとも、流行ってる? いやそんな話は聞いてない! ──コットン! ねえ、目を覚ましてコットン!」
黙るエリック。
布に向かって話しかけるミリア。
はっきり言って店内はカオスである。
側から見るなら多いに楽しい光景であるが、本人たちはそれどころではなかった。
やかましいミリアをほったらかしに、一点を見つめて考えるのはエリックは、表情をさらに鋭く砥ぎながら眉を寄せる。
(……この問題。今のうちに原因を突き止めて潰すことができれば、服飾業界の大きな混乱も民の暮らしも守ることができるよな。まさか綿やシルクまで上がるなんて。ギルド内で見つけられていたかどうか)
「…………ううっ、こっとん……! こっとぉおおん……! 目を覚ましてぇ、安くなってェェェェェ……!」
(…………気づけたとしても、だいぶ後手に回っていたかもしれない。
問屋の店主の様子だと跳ね上がったみたいだし、早急に見つけられたと考えていいだろう。今後は、綿とシルクの高騰も含めて、広い視野とありとあらゆる可能性を加味しつつ動いた方が良さそうだ)
「こっとん、あのね? きいてコットン。これから冬になるのよ、あなたたちがどれだけ活躍すると思ってるの? ねえ聞いてるコットン?」
(────ああ……俺の人選は間違っていなかった。あの時、靴を投げられたのは驚いたけど。結果として情報源をいち早く確保できたのだから、”災い転じて福と成す”かな。で、問題は『縫製組合をどこから切り崩すか』なんだが……)
「だいかつやくの時期に…………って、ちょっと待てよ、いや値段どうしよう値段、ええええ、うううんんん・えええええええ考えれば考えるほどっ。胃が痛ーい、胃が痛あああああいっ・えええええ、オーナーに言いにくいなああっ」
(……やっぱり、縫製組合全体の雰囲気は……、男の俺にはキツいな。屋敷に来るお抱えのテーラーとはわけが違う。あれじゃあ、情報どころか警戒されるだけだ)
「どーするどーする? とりあえず在庫どれだけあったっけ、あ、違う先に受注で使う量の確認……うんだからそれは在庫確保であって、でもそれからどうするのって話じゃん?? えーん、言いたくないぃぃ、おにーさんちょっとどうしよう!?」
(…………やはり、彼女を情報源とするのが一番手っ取り早いだろう。ミリアの中で俺はもう『その他一般』では無いはずだし。……しかし問題はアプローチ方法だ。どうやら彼女にはデートアプローチは効かないようだし、かと言ってこのままズルズルとここにいても、怪しまれるだけだ。……そうだな……なんとか彼女に上手く・かつ怪しまれずに近づくアプローチを)
「──────ねえ!」
「!」
彼の思考を遮って。ガシッと掴まれた腕と声に、エリックは驚き目を上げた。
弾かれた様に上げた先、飛び込んできたその顔に────息を呑む。
視界いっぱい映し出された・彼女の焦りと、混乱の色。
「……黙ってないで相槌とか打ってよ、せめてっ!」
「…………っ」
声から、表情から、滲み出る。
いつもの「飄々な彼女」はそこにいない。
その気迫に慄いた一瞬に、ミリアはそのハニーブラウンの瞳を合わせて、ぐっ…………! っと溜め────
「…………困る!」
「………………わかってる」
「なんで、どうしてこうなったのっ!」
「……………………だから」
「あーもー、あーもー、ありえない! どうしよう……! いや、わかってる、お兄さんに言っても仕方ない、それはわかってる! こんなの言ってもキミも困るよねっ!?」
「……あの、ミ」
「────っていうかわたし、どうやって帰ってきた?? ねえ、わたしちゃんと歩けてた? 記憶があるようで、無いよ!?」
「……大丈夫だよ、ミリア。だからここにいるんだろ?」
「コットンとシルク! 無理無理無理無理、だって納期あるのに……! いや! なんとかするけど、このまま布高いのマジでやばい……! 今はいいよ、いまは! でもその内どうしようもなくなるじゃん! ハッ! 代わりのもの探す? 探したらいい? いやいやいやいや綿の代わりなんて無いよおおお!」
「……………………」
────もはや会話が成り立たない。
頭をぐしゃぐしゃと掻きむしる彼女の口から出てくる言葉は、支離滅裂だ。
そんな彼女を前に、彼は言葉に──迷っていた。
困る彼女に思わず『大丈夫だ』とか『そうだよな』とか『なんとかする』とか口走りそうになった。
────しかし、彼は貴族だ。金もあるし地位もある。
たとえ綿やシルクの値が上がっても、しばらく生活に困ることはない。
それに、庶民や小売店の細かいやりくりについてなどわかるはずもない。わからないことに安易に同意など出来はしない。どこで墓穴を掘るかわからないし、そのフォローが後々首を絞める可能性もある。
しかし彼は、それを見通したうえで『その場限りの嘘』を吐いて捨てるほど口にしてきた。なぜなら彼はスパイでもあるからだ。
情報を得るために、薄っぺらい嘘を吐き標的を安心させ盗むのは──彼の得意とする手段である。しかし、それが今──
(…………そんなこと、わかっているはずなのに……わかったうえで、今まで使ってきたのに)
理由はわからない。
彼の中生まれた戸惑いを置き去りに、脳が見せるのは『この先』。
困窮する彼女たちの姿だ。
先に待ち受ける混乱だ。
見える。かなりリアルに、鮮明に。
(…………も困るんだろ。そういうことだよな……)
綿・シルク・毛皮。
不自然な価格の高騰と、困り悩むミリアを目の当たりにして、だんまりを決め込み悩むエリックのその前で。
『ああああ!』と叫びながら頭を抱えて騒ぐ彼女は、そのままダァン! と立ち上がり、ビスティーの天井に向かって声を張る!
「────っめいしゅさまーっ! 盟主さまあああああ! きこえますか! 民は! 民は困っておりマァァァス!!」
力いっぱい、目いっぱい。
神に訴えかけるように、叫ぶ、彼女を前に、
「──────……。」
彼は──……まぶたを落として、肚を据え、静かに、顔をあげた。
「……なあ、ミリア。……それなんだけど」
「……?」
ゆっくりと、落ち着いたその声は、ミリアの動きをぴたりと止める。
ハニーブラウンの視線が注がれる中、エリックは静かに問いかける。
「…………この前、毛皮の話をしたのを覚えてる?」
「けがわっ? えーとえーとちょっと待ってね、……思い出す〜」
言われて瞳を惑わせるミリアは、まだ少し混乱を引きずっているようだ。
ブラウンダークの髪の上。
前髪のつむじ辺りに手を置くと、ぽん・ぽん・ぽん……。一拍・二拍・三拍。
リズムに合わせて彼女のまぶたの中。
はちみつ色の瞳が迷い、カタンと椅子に腰かけたと同時。
エリックは静かに息を吸い込んだ。
「……この前。『毛皮が人気になったりするのか』って聞いただろ? 君は、俺に『そんなことはない』と教えてくれたんだ」
「──あ! 思い出した。うん、そんなこと言ってたね?」
頷くミリアから徐々に消えゆく混乱の色。
出来上がっていく『聞く』姿勢。
様子を見ながらエリックは、ゆっくりと頷き彼女と目を合わせる。
送る眼差しに『感謝の色』をのせて。
「…………ああ。とても的確に教えてくれたから、助かったよ。あそこまで教えてくれる人は、君ぐらいのものだったから」
「……そ、そう? いや、あははっ、ちょっと照れるじゃんっ」
混乱は落ち着きへ。
落ち着きは はにかみへ。
流動的に動き、変化していくその
照れるミリアを前にして、彼はゆっくりとカウンターに両腕を置き──距離を取る。
遠からず、近からずそれでいて『信頼』が伝わる距離。
「……?」
彼が作り出した『その
エリックは”じっ……”と黒く青い瞳でミリアを射抜き──放った。
「…………君に話したいことがあるんだけど。……聞いてくれる?」
「…………なに?」
「……これは、君だから話せることなんだけど。……実は…………ウチのボスが困ってるんだ」
「…………ボス?」
「────ああ。この領地の最高責任者。盟主・エルヴィス・ディン・オリオン様だよ」
「──────はっ?」