──そこに宿るのは、困ったような戸惑いの色。
『教科書を貸してくれ』と切願していたエリックは、そんなミリアの顔つきに首を振る。威圧してしまったかと思ったのだ。
エリックは、別にここを押し切るつもりはなかった。
「────出来ないなら出来ないでいい。駄々をこねたいわけじゃない。ただ、遊び程度でも『使える』のなら試してみたいだけだけで…………悪用しようなんて思って無────、…………ミリア?」
真摯に『君の決定に任せる。しかし聞いてほしい』と語るその口は、最後、不可思議な色で名前を呼んだ。
黙って聞いていたミリアの顔つきが、呆気にとられたようなものに変わっていき、それ以上を続けられなかったのだ。
困惑ではない。
迷ってもいない。
ミリアの纏う
「…………ミリア? どうした?」
「────おにーさん。たまに『怖い』っていわれませんか」
「────え。」
唐突に声が漏れた。
地味に痛いところを突かれた気分だった。
瞬間にキャロラインの言葉が脳をよぎる。
『シスターが怖がっていた』。
──一気にじわりと溢れ出す心地悪さ。
無意識に喉を鳴らし、広がる苦みに口を噤む。
────別に凄んだつもりも、睨んだつもりもない。
ただ、真面目に考えを述べていただけなのだが──
(────ここでそれを言われるとは思わなかった)
じんわり痛い。
『真剣に述べれば怖がられる』。
相棒のミリアにさえも。
熱意が恐怖として伝わってしまうのなら──どう伝えればいいのだろう?
そんな迷いに駆られるが、エリックは振り払うように目を上げ、ミリアに──困った顔で問いかけた。
「…………怖かった? ……いや、凄んだつもりはないんだけど」
意図せず込めるのは『自信の無さ』。『不安げな気持ち』。
「…………いやあのそーじゃなく……」
「──違う? ……その……君を怖がらせるつもりはなかったんだけど」
「いや、えっと」
組んだ腕をテーブルに置き問いかけたが、ミリアは困ったように眉を下げるばかり。
────ああ、どうも上手くかみ合わない。
彼女の意図がわからない。
悪戯に不安に駆られているのは自分だけなのだろう。
そんな感情を内に秘めつつ、しかし彼は『切り替えた』。
使うのは『自嘲』。
軽く肩をすくめて小首を傾げ、『躊躇いつつも吐き出すように』、こぼす。
「…………あぁ、別に、怒ってるわけじゃないんだ。怖がらせたなら、悪かった」
「────それは、わかっている」
「……? わかってる?」
「いやーーー……うーん……なんて言って良いのか~……」
「……?」
細やかに首を振りフォローするエリックに、今度はミリアが両手を胸の高さまで上げ、首を振り、唸った。
先ほどまでとは少し、様子が違うトーンに彼女を凝視するが、ミリアは言葉を探している様子。
「…………なに? 言っていいよ」
「………………え~と……」
テーブルの向こう側。
瞳を迷わせ、二・三拍。
ミリアが言葉を探す中、妙に緊張を孕んだ自信の無さが、エリックの中に湧き出して────
「…………えと、”頭いいな”って思ったかな。あと、敵に回したくないな~って」
「…………敵……」
(────敵、)
「──────フ!」
気まずそうに、苦笑いをしながら言われて吹き出した。
『なんだ、そんなことか』。胸の内が綻び軽くなり、くすくす肩を揺らし口元に手を当てると、朗らかな笑みをこぼして彼は言う。
「………………”敵”って。俺と君は相棒なんだろ? 君が裏切るようなことさえしなければ、敵になるようなことはないよ」
────ああ、安堵が広がっていく。
キャロラインの言う『怖い』とミリアの言う『怖い』の意味が違った。同じ単語で戸惑ったが、蓋を開ければ全然違った。
(────ああ、一瞬ドキッとした。また何か言ってしまったのかと思った──けど)
素直に嬉しい。
身分・立場を知らない彼女が放つそれは、素直に、沁みていく。
消滅した不安と焦りの代わりに、あたたかく軽やかな気持ちが、胸に広がる中。
そんな心をまるっきり知らない彼女は、はちみつ色の瞳と口を丸め・首を引くと、試すように聞くのだ。
「おにーさんのこと、『頭いいな』って思ったよね。敵に回したくないな~って」
「………フ! ………”敵”って。俺と君は相棒なんだろ? 君が裏切るようなことさえしなければ、敵になるようなことはないよ」
修羅場を抜けて一休み。
英気を養う食事の際中、彼に生まれた不安は砕けて消えた。
残るのは──囲むテーブルの上、空になったケーキの皿とレモンソーダのグラス。
ビストロ・ピチューボの一席で、くすくす笑うエリックに、しかしミリアは『じっ』っと見つめ真面目に聞くのだ。
「ほう……わたしがどこかのスパイだったらどーする?」
「────フッ!」
震える腹で返す声に愉快が混じる。
「君が? スパイ? へえ、面白いことを言うんだな?」
「……コイツ……! ばかにしてるー。むかつくー。 わっかんないじゃーん? すぱいかもしれないじゃん」
知らずに頬を膨らませるミリアに、彼は片手のひらで愉快な頬杖を突いた。
《────ああ、楽しい》。
戦略的興奮とも、奮い立つ高揚とも、また、違う純粋な《楽しさ》。
彼はそれをそのまま言葉に乗せて、からかう様に言うのである。
「────へえ? 君が? 仮にスパイだったとして? いったい何を
「それ掴んでもなんにもなんない……」
「────フッ! 強敵だな? なら聞き方を変えようか。 ふふっ、『…………可愛らしいスパイのお嬢さん? 君は、何が欲しいのかな? どんな情報が欲しいんだ?』」
「ちょっとー。 その、小さい子に言うような口調やめてくれる~? わたし大人なんですが〜?」
「ううん、そうだなぁ。……試しに、俺の情報でも掴んでみる? さあどうぞ? 本当のことを教えるかどうかは、わからないけど?」
「すっごく楽しそうに話すね? 生き生きしてるね? からかってるの丸わかりなんだけど!? うわぁー! ちょー悪い顔してる!」
「────ははははは……!」
表情豊かに実況をするミリアに、目元を覆ってさらに笑った。
《──はあ、楽しい》。
吐きだした息すらもったいない。
周りに飛散した『楽しい』を集めるように息を吸い込んで、エリックはひとつ。落ち着きを取り戻して話し出す。
「まあね。そんなことを言ってくるとは思いもしなかったから。カマをかけるなら、もう少しうまい方法を教えてあげようか?」
「……こいつ……!」
──ふはっ……!
目の前で『ぐぎぎ』と歯を見せる彼女に、またひと笑い。
とても愉快だ。
こんな会話はしたことがない。
──確かにミリアはこの辺りでは珍しい女性だ。
生まれと育ちが違うのも手伝っているのだろうが、彼女とのやり取りが──いや、他人とのやり取りが
──それを踏まえて、エリックは語る。
深き青を宿した黒の瞳に、穏やかを宿しほほ笑みながら。
「────でも、よく考えたら君がスパイだったら『恐ろしい』かもしれない。……君は、そういうのが得意だから」
「”そういうの”?」
「『人に気に入られるコツ』を持っているよな。『距離が近い』というか。あっという間に心の中まで見透かされそうだ」
「…………さすがにそういう
「そうじゃなくて。何度も言ってるだろ?『君は異色だ』って」
愉快を含めた声色で述べながら、彼が思い出すのは、彼が見てきた『ミリア』の姿だ。
ナンパから見捨てようとした自分に、靴を投げてきたあの顔。
その後あっさりと自分を店まで案内した時の顔。
得体の知れない『花屋の青年』に何度も声をかけにきた時の顔。
見知らぬ女性を助けるために、場を放り出して駆け出した時の顔。
それらを頭の中に、彼は『仕方ないな』とくすりとに笑いながら、穏やかに話し出す。
「────まあ、その分危険もあるわけだけど? 君が相手につかまりでもしたら、その時は助けてあげるよ」
「……………………たすけて、くれるの?」
ぴくんと震えて呟いたその声は、少し戸惑ったような、甘みをふくんだような、まあるく不安定な声で。
意図せず彼の時間を止めた。
────これは、嘘を重ねる男の話。