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第55話

美味しい料理に舌鼓を打ちながらたわいのない話をする。


「部屋、引っ越しするかなー」


「えっ、なんで?」


思わず詰問するような声が出ていた。

しかし、今のお隣関係がちょうどいいのに、引っ越すなんて言われると困る。


「ん?

七星がこっちに引っ越してきたら狭いだろ?

だから一緒に住める部屋に引っ越そうと思ったんだが?」


私に抗議されるのが意外だったのか、眼鏡の向こうで彼が何度か瞬きをした。

私だって一緒に引っ越しが前提だったとは思わない。


「えーっと。

私が龍志の部屋に引っ越しするのは決定ですか?」


「なんだ、引っ越してこないのか?」


また彼がパチパチと瞬きをし、ため息が出た。


「別に今までどおりで支障はないと思いますが?」


これまでだって半同棲のような生活で彼の部屋でほとんどを過ごし、ほぼ寝るためだけに自分の部屋に帰っていたがなんの問題もなかった。

だからわざわざ引っ越しなんて面倒なこと、しなくていいと思うんだけれど?


「これからは一緒に寝てほしいし、そうなるとほぼ部屋に帰らないと思うから借りてるのがもったいなくないか?」


「ハイ?」


なにを言われたのかわからなくて、首が斜めに傾く。


「え、七星は俺と一緒に寝てくれないのか?」


「ハイ?」


さらに驚いたように尋ねられ、首がもっと傾いた。

龍志は私と一緒に寝たい、と。

一緒に寝るなど考えたこともなかったが、それは……いい、かも。


「あー……。

一緒に寝るのはあり、ですね」


「だろ?

だったら別に部屋借りてるのはもったいないし、でも今の部屋だとふたりで生活するにはちょっと狭いし、いっそ引っ越しするかなーって」


……ああ。

そーゆー。


やっと彼が、両想いになったので本格的に同棲生活を始めないかと提案してくれているのだと理解した。

え、初カレでいきなり同棲って早すぎない?


「申し訳ないんですが、それについてはもう少し考えさせてください」


「なんでだ?」


すでに彼の中では私の同意は決定事項になっていたようで、若干不機嫌になる。


「その。

私にとってはあの、……これが初めての恋、でして。

んでもって龍志が……初めての彼氏、で。

いきなりの完全同棲はハードルが高い、っていうか。

それでこう、ひとりになりたいときもあると思うんですよ。

なので」


こういう説明をするのはいたたまれず、テーブルの上に視線を彷徨わせた。

自分でもわけのわからないことを言っている自覚がある。

呆れられても仕方がない。


「あー、わかった」


顔を上げると少し赤い顔で彼が気まずそうに頬を掻いていた。


「まあ、いきなり同棲だとか言われても困るよな。

少しずつ慣らしていけばいい」


私と目をあわせ、眼鏡の奥で目尻を下げて彼がにっこりと笑う。

それだけで心臓が早鐘のように鼓動し出し、手足をバタバタとさせたくなったがかろうじて耐えた。


食事はそのうちメインが終わり、デザートを待つだけとなった。


「七星」


少し思い詰めたような真面目な顔で見つめられ、どくんと大きく胸が高鳴った。

今日買った指環のケースを、龍志がテーブルの上にのせる。


「いろいろ話せないような事情がある、こんな俺の気持ちを受け入れてくれてありがとう」


真摯に頭を下げられて戸惑った。

この先きっとつらい思いをするとわかっていて、彼を受け入れようと決めたのは私だ。

そんな、お礼を言われるようなことではない。


「えっ、そんな!

やめてください!」


慌てて止めるとようやく彼は頭を上げてくれた。

私を見つめる瞳は、心なしか潤んでいる。


「俺と一緒にいるあいだだけでいい。

七星に俺のものだという印を付けていいか」


彼が指環のケースを開ける。

頷いたものの、どちらの手を出すか悩んだ。

彼も指環を掴んだまま、私がどうするか待っている。

じっと、両方の手を見つめた。

龍志は結婚指環の代わりになるものが欲しいと言っていた。

私にとって今は恋人同士だが、彼にとってはたぶん結婚生活にも等しいのだろう。

……だったら。


彼のほうへと伸ばす左手は緊張からかぶるぶると震えていた。

そんな私の手を彼がまるで壊れ物かのように大事そうに握った。


「ありがとう」


ゆっくりと彼の手が私の左手薬指へ指環を嵌める。

それは結婚式での指環の交換のようで、目の前が滲んでいった。


「俺にも嵌めてくれるか」


黙ってうんと頷き、ケースから指環を掴む。

左手を差し出すと龍志が左手を乗せてきた。

その薬指に同じように指環を嵌める。

そのまま彼は指を絡めて私の手を握ってきた。


「七星と別れたあとも、俺はなにがあってもこの指環を外さない。

俺の妻は生涯、七星ひとりだ」


なにかしゃべると涙が落ちそうで、無言でうん、うんと頷いた。


「ごめんな、初カレがこんな重い男で」


困ったように笑う彼に、ううんと首を横に振った。

私を生涯、幸せにできないのがわかっているから今、こうやって精一杯、甘やかせて愛してくれる。

それだけで十分だった。


「あっ、そうだ」


少し気持ちも落ち着き、バッグの中からごそごそと今日買ったネクタイの包みを取り出した。


「指環のお返しじゃないですけど。

って、中身はもう、わかってますけどね」


なんだか改まって渡すのは照れくさく、笑って誤魔化しながら差し出す。


「ありがとう、嬉しい」


目を細めて空気に溶けるようにふんわりと、本当に嬉しそうに彼が笑う。

本日二回目、ずきゅんと心臓が射貫かれて胸が苦しくなった。

前から素の笑顔はヤバいと思っていたが、完全に気が抜けているときの笑顔はさらにヤバい。

なにがヤバいってそれだけで私はキュン死しそうなので、ほどほどにしていただきたい。

とはいえ、無意識だろうから私が慣れるしかないのか……。


食事のあとはあっさりホテルを出てタクシーに乗った。

場所が場所だっただけに、期待していなかったのかといえば嘘になる。

しかし龍志はできないと言っていたし、明日は仕事だしね。

でも、しなくてもいいから龍志とホテルでお泊まりはしてみたいな……。

こんな高級ホテルは無理だけれど、今度誘ってみようかな。


タクシーの中で隣りあう私の左手を握り、龍志はずっと確認するように薬指に嵌まる指環を撫でている。

それが妙に、幸せだった。

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