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午後十時。
いつものように、オフタサマの
見上げると、濃紺の空に屑のような星々が散っている。
昼間の暑さが嘘のように空気がひんやりとしていて、心地のよい夜だ。来月になれば日が暮れても昼間の熱気が冷めず、寝苦しい日々が続くだろう。
この時間のお勤めは嫌いじゃない。周囲はすでに寝静まっていて静かだし、朝と違って強烈な眠気と闘わなくて済む。朝は眠いばかりでなく、冬の寒い時期なんかは、何枚着込んでも刺すような冷気が襲ってきて、身体の芯から凍えて辛い。寝起きで極寒の外に出なければならないのは、何年やっても嫌になる。
夜は気楽だ。よっぽど寒かったり、豪雨が降っていたりしなければ、気分転換の散歩になる。――もう家族みんなが自室に引っ込んでいると思うと、深く呼吸ができるような気がした。
庭の池の中州にある、オフタサマの
神社の社殿を模した小さな祠に、そっくりな二体の人形が同じ向きで並んでいる。
長く日に晒されているせいで、お顔も着物も色褪せている。赤い着物は汚れも酷い。
いつも不思議に思う。家を守る大切な神様ならば、なぜこんなにも汚れ、ぼろぼろに朽ちかけているのだろう。なんとかしたほうがいいと思いながらも、触れてはいけないと言われているので、掃除もできなければ手入れもできない。
「お二さま」なのか、「お双さま」なのか。
オフタサマの由来も成り立ちも、何もかも聞かされていない。おそらく、詳しく知っているのはお祖母ちゃんだけだろう。
ただただ、大切に、大切に崇めよと言われている。
オフタサマに触れないよう用心して、夜の膳を下げる。それから新しい水のグラスと、お茶の湯飲みを供えた。
夜間の強風や雨でオフタサマのほうに倒れてしまわないよう、湯飲みやグラスを大きめの石を置いて固定する。
昨年の夏、台風で湯飲みが倒れ、オフタサマにお茶がかかってしまうという事件があった。お茶がこぼれた二日後には、親戚の叔父が両目の視力を失い、オフタサマの
あまりじろじろ見てはいけないと言われてはいるが、頭巾に半分隠されたオフタサマの顔を覗き見る。
長野の民芸品の「さるぼぼ」に似ていると思う。布でできた丸い顔には、目や鼻といったパーツはない。身体はどんな造りをしているのか、何枚も重ねられた着物のせいでわからない。おそらくひな人形のように正座をしている形だろう。
素朴な造りのオフタサマを見ていると、不思議な気持ちになってくる。
この人形に、人の視力を奪ったり、障りを起こしたりする力などあるのだろうか。なぜこんなにも、この人形を大切にしなければならないのか。親戚みんなで大騒ぎをして恐れる理由は何なのか。……これはいつから我が家にいるのだろう……。
――オフタサマを「これ」などと思ってしまい、ぶるりと身震いした。
動くわけがないのに、オフタサマの顔を恐る恐る覗き込んでしまう。……さっきよりも、オフタサマの身体が前に傾いでいないか……? 向きが変わっていないか……?
オフタサマが怒っているような気がして、落ち着かない気分になってくる。
反省の意を込めて丁寧に礼をし、素早く踵を返す。
橋を渡り終えると、視界のすみに小さな
こちらに気付くと、その場に吸い殻を捨てて近付いてくる。
「こんなに遅い時間に食器の回収か?」
「あんまり早く下げると、オフタサマの食事が終わっていないって、お母さんが」
母の言いつけを伝えると、慶太は苦虫を潰したような顔になった。
「オフタサマ、オフタサマって……。いつまでこんな風習を続けているんだ」
溜息を吐きながら、呆れた顔で祠を振り返っている。「阿呆らしい」
「ちょっとやめなよ」
不敬な言葉に、ひやりと肝が冷える。さっき「これ」呼ばわりした私よりも、ずっとずっと不敬だ。慶太の袖を引っ張りに、祠に向いた視線を無理やりに剥がす。
「オフタサマが怒っちゃう」
「敷地内だからって、あんまり遅くに出歩くなよ。母さんには俺から言っておく」
「……うん、ありがと」
慶太は親切心で言ってくれているのだろうが、余計なお世話だった。オフタサマへのお勤めを嫌がるのかと、後で怒られるのは私たちだ。夜の散歩は密かな楽しみだ。あまり波風を立ててほしくない。
それに、お供えのことよりも、さっき慶太が捨てた吸い殻の件で怒られそうだ。
吸い殻をポイ捨てした犯人が怒られるのではなく、吸い殻をさっさと片付けない、私たちが責められるのだ。
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