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第12話 存在しない家族

* * *

 午後十時。

 いつものように、オフタサマの夕餉ゆうげを下げて、新しい水とお茶をお供えにゆく。


 見上げると、濃紺の空に屑のような星々が散っている。

 昼間の暑さが嘘のように空気がひんやりとしていて、心地のよい夜だ。来月になれば日が暮れても昼間の熱気が冷めず、寝苦しい日々が続くだろう。

 この時間のお勤めは嫌いじゃない。周囲はすでに寝静まっていて静かだし、朝と違って強烈な眠気と闘わなくて済む。朝は眠いばかりでなく、冬の寒い時期なんかは、何枚着込んでも刺すような冷気が襲ってきて、身体の芯から凍えて辛い。寝起きで極寒の外に出なければならないのは、何年やっても嫌になる。

 夜は気楽だ。よっぽど寒かったり、豪雨が降っていたりしなければ、気分転換の散歩になる。――もう家族みんなが自室に引っ込んでいると思うと、深く呼吸ができるような気がした。


 庭の池の中州にある、オフタサマのほこらに向かう。

 石灯籠いしどうろう手水舎ちょうずやを過ぎ、中州にかかる橋を渡る。

 神社の社殿を模した小さな祠に、そっくりな二体の人形が同じ向きで並んでいる。

 長く日に晒されているせいで、お顔も着物も色褪せている。赤い着物は汚れも酷い。

 いつも不思議に思う。家を守る大切な神様ならば、なぜこんなにも汚れ、ぼろぼろに朽ちかけているのだろう。なんとかしたほうがいいと思いながらも、触れてはいけないと言われているので、掃除もできなければ手入れもできない。


「お二さま」なのか、「お双さま」なのか。

 母子おやこか、姉妹か、双子の神様か――。

 オフタサマの由来も成り立ちも、何もかも聞かされていない。おそらく、詳しく知っているのはお祖母ちゃんだけだろう。

 ただただ、大切に、大切に崇めよと言われている。


 オフタサマに触れないよう用心して、夜の膳を下げる。それから新しい水のグラスと、お茶の湯飲みを供えた。

 夜間の強風や雨でオフタサマのほうに倒れてしまわないよう、湯飲みやグラスを大きめの石を置いて固定する。

 昨年の夏、台風で湯飲みが倒れ、オフタサマにお茶がかかってしまうという事件があった。お茶がこぼれた二日後には、親戚の叔父が両目の視力を失い、オフタサマのさわりだと大騒ぎになった。親戚が一堂に会してお許しを祈った。中には、視力を失うくらいで済んでよかったと言う者もいた。


 あまりじろじろ見てはいけないと言われてはいるが、頭巾に半分隠されたオフタサマの顔を覗き見る。

 長野の民芸品の「さるぼぼ」に似ていると思う。布でできた丸い顔には、目や鼻といったパーツはない。身体はどんな造りをしているのか、何枚も重ねられた着物のせいでわからない。おそらくひな人形のように正座をしている形だろう。


 素朴な造りのオフタサマを見ていると、不思議な気持ちになってくる。

 この人形に、人の視力を奪ったり、障りを起こしたりする力などあるのだろうか。なぜこんなにも、この人形を大切にしなければならないのか。親戚みんなで大騒ぎをして恐れる理由は何なのか。……これはいつから我が家にいるのだろう……。

――オフタサマを「これ」などと思ってしまい、ぶるりと身震いした。

 動くわけがないのに、オフタサマの顔を恐る恐る覗き込んでしまう。……さっきよりも、オフタサマの身体が前に傾いでいないか……? 向きが変わっていないか……? 

 オフタサマが怒っているような気がして、落ち着かない気分になってくる。

 反省の意を込めて丁寧に礼をし、素早く踵を返す。


 橋を渡り終えると、視界のすみに小さなあかりが掠めた。目で追うと、庭の土蔵どぞうの陰に慶太が立っていた。こっそりと隠れてタバコを吸っていたようだ。

 こちらに気付くと、その場に吸い殻を捨てて近付いてくる。

「こんなに遅い時間に食器の回収か?」

「あんまり早く下げると、オフタサマの食事が終わっていないって、お母さんが」

 母の言いつけを伝えると、慶太は苦虫を潰したような顔になった。

「オフタサマ、オフタサマって……。いつまでこんな風習を続けているんだ」

 溜息を吐きながら、呆れた顔で祠を振り返っている。「阿呆らしい」

「ちょっとやめなよ」

 不敬な言葉に、ひやりと肝が冷える。さっき「これ」呼ばわりした私よりも、ずっとずっと不敬だ。慶太の袖を引っ張りに、祠に向いた視線を無理やりに剥がす。

「オフタサマが怒っちゃう」

「敷地内だからって、あんまり遅くに出歩くなよ。母さんには俺から言っておく」

「……うん、ありがと」

 慶太は親切心で言ってくれているのだろうが、余計なお世話だった。オフタサマへのお勤めを嫌がるのかと、後で怒られるのは私たちだ。夜の散歩は密かな楽しみだ。あまり波風を立ててほしくない。

 それに、お供えのことよりも、さっき慶太が捨てた吸い殻の件で怒られそうだ。

 吸い殻をポイ捨てした犯人が怒られるのではなく、吸い殻をさっさと片付けない、私たちが責められるのだ。

* * *



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