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第20話 存在しない家族

「オフタサマへのお勤めは、二人で交代して行っているんだね」


 隣へ並んで語り掛けると、伊智子が歩調を緩めてくれた。はい、と頷く。


「はい、私と二湖とで。夕食は二湖がやってくれたので、夜のお供えは私です」

「そう、毎日大変だね」


 ねぎらいの言葉には、伊智子は頷かなかった。大変ではない、という意味か、何か言いたいことがあるのか。


「伊智子さんは、これから就職の予定とか、やりたいこととか、ないの?」

「……特に、なにも」

「もしかして、就職するのを禁じられてる? 大学進学も許されなかった?」

「大学は、学費が高いから、と。……奨学金を申請しようかとも思ったんですが、条件が当てはまらなくて」


 地元の名士の娘が奨学金を申請したところで、通るわけがないだろう。それに、こんなお屋敷に住んでいて学費が高いから進学ができないなんてことがあるのだろうか? 他人の家の懐事情は知らないが……。


「――昔から、こうだったの?」


 この家に来てから、ずっと違和感を感じていた。

 まだ顔を見ていないが、父親を含め七人もの大家族なのに、会話や語らいが少なすぎる。家のどこにいても音がなく、時おり、末っ子の悦郎の無邪気な声が遠くに響くくらいだ。伊智子も二湖も、家の中では口を噤んで、家族の輪に入るのを禁じられているようにさえ見える。


 ここにきてから、祖母が伊智子や二湖に声をかけるところを、声どころか、視線を合わせるところすら見ていない。

 姉妹が、完全に捨て置かれている。

 そのわりに召使いのように働かされ、見ていて胸が苦しくなる。いびつな家族だ。


「こう、って?」


 伊智子が澄んだ目で首を傾げる。


「食事を別にされていたり、希望を叶えてもらえなかったり。……家族に存在を無視されていたり」

「お前たち姉妹、まるで家族じゃないみたいだ」


 ミズキが割って入ってきた。怒ったような、強い口ぶりだった。


「ミズキ」


 言い過ぎだ、と目でたしなめる。しかしミズキも思うところがあるらしく、言葉が止まらない。


「なんで文句を言わないんだ。慶太や悦郎と同じように扱えって親に言え。それでも変わらないようなら、ここを出ろよ」


 伊智子がおろおろと視線を泳がせる。


「……でも、オフタサマの世話が」


 昼間の二湖との会話が思い出される。

 女に学歴は必要ない――。

 慶太の嫁が来たらお役御免――。


「オフタサマの世話をするのは自分たち姉妹しかいないって思ってる? そんなことないよ。オフタサマに触れたって死にやしない。誰にだってお勤めはできる」


 言おうかどうか迷ったが、ここでしか存在価値がないと信じ込んでいる伊智子の呪いを解いてあげたかった。


「それに、たとえオフタサマがいなくても、みんなちゃんと生きていけるよ」

「そう、そうだけど……」


 きっと混乱しているのだ。伊智子だって、触れたら死ぬと本気で信じているわけではないだろう。

 けれど、この家の繁栄と存続は、オフタサマのおかげだと心のどこかで信じている。――周囲に、信じこまされている。

 そして、オフタサマのお勤めだけが、自分たちに与えられた唯一の使命だと思っている。


「でも、じゃあ私たちは……」


 伊智子が泣きそうな顔でかぶりを振る。言い過ぎたと思い「ごめん」と謝った。

「言い過ぎた。他所よその家のことなのに」


 伊智子が頼りない足つきで橋を渡ってゆく。夜の膳を下げ、新しい水とお茶を供えている。オフタサマに向かって頭を下げる仕草が、疲れ果てた奴隷のように見えた。


 伊智子の背中を見守る間、背後から刺すような視線を感じた。

 視界の隅で確かめると、庭の植栽の陰に隠れるようにして誰かが立っているのが確認できた。

 ――屋敷のほうからも、不穏な視線を感じる。二階の窓からか。

 寝静まったように感じる敷地から、いくつもの視線を感じた。

 監視されている。この視線は伊智子を見守っているのか、橘たちを見張っているのか。

 何か一つでも間違えれば、きっとここから無事に帰れないだろう。


 伊智子が戻るのを待ち、屋敷へと戻る。

 空気がじっとりと重い。夜空には鉛色なまりいろの雲が厚くかかって星が一つも見えなかった。

 道を踏み外す前に、早めにここを出たほうがよさそうだ。姉妹の今後は気になるが、本人たちが変化を望まないかぎり、橘にできることはない。




 東北地方に台風が接近していると、ラジオから流れてくる。

 数十年に一度の大型台風で、アナウンサーがさかんに不要不急の外出は避けてくださいと繰り返している。明朝の新幹線は時間通りに動くだろうか。橘は交通情報をいくつか確認した。


 部屋に戻ってからも、じっとりと纏わりつく視線が離れなかった。

 どこから見ているのだろう。

 どこかから、この部屋ごと監視されているのだろうか。

 こんなに見られていては、うかうかと眠ってはいられない。橘は伊智子が差し入れてくれたピッチャーから麦茶を注いだ。

 口に近付けると、微かに甘い匂いがした。


(なんだ?)


 麦茶に砂糖を入れるタイプの家か? それにしては、薬草のような癖のある……――

 一口ひとくち口に含み、すぐにティッシュに吐き出した。


「汚ねえな」


 ミズキが盛大に顔をしかめる。


「……ミズキ、このお茶飲むなよ」

「なんで? 毒?」


 ふざけて訊いてきたミズキに向かって黙って頷く。ミズキもすぐに表情を変え、グラスに鼻を近づけた。


「俺たち、オフタサマの生贄にされちゃうのかな?」


 ひひひ、とミズキが楽しそうに笑った。緊迫した状況の中、ミズキの普段通りのふるまいが有難かった。ミズキの軽い調子を見ていると、だんだんと落ち着きが戻ってくる。


「朝になる前にここを出よう。朝飯に毒を盛られるかもしれない。冗談じゃなく、まじで殺されるかも」

「大変だぁ」


 ミズキが楽しそうに身支度を整え出した。橘も荷物を纏め、音を立てないように障子を開けた。

 誰の姿も見えない。

 けれど、たしかにいる。――こちらの動向を、息をひそめて伺っている。

 声を掛けられたら一気に駆け出そう。

 声も掛けずに襲ってきたら……その時はその時だ。

 静かに靴を履き、引き戸の玄関に手をかけた。――背後から呼び止められることはなかった。


 小走りで棟門に向かい、ミズキを先に外へ出した。肩越しに振り返った屋敷は、相変わらず静寂に沈んでいるが、獣が茂みに息を潜めているような、押し殺した熱気と殺気がひたひたと伝わってきた。


 大粒の雨が額に当たる。

 ついに雨が降り出した。


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