近くまできてみると、たしかに人の住んでいる気配がする。
再び須田の家を訪ねると、以前とは少し違う印象を受けた。
わずかにではあるが、人が暮らしている生活感がある。玄関前の地面だけは雑草が踏み固められ、伸びていない。二階の窓は時々開け閉めをしているのだろう。その周辺だけ、
そして、確実に何者かが暮らしている生活臭。もちろん、その中には獣臭も混じっている。
橘は不法投棄のゴミが散乱するポーチを通り抜け、玄関前に立った。引き戸の横に古びた押しボタン式のチャイムがあったので、思い切り押し込んでみる。が、音が鳴っている気配がない。
「須田さん」
呼び掛けながら、引き戸を拳で叩いた。
不在であれば帰宅するまで待つし、居留守を決め込むのなら、出てくるまで粘るつもりでいた。だが、なんとなく中に須田がいるような気がした。引き戸の摺りガラス越しの室内は暗いが、確かに人のいる気配がする。
場合によってはこじ開けてでも中に入ろうとした瞬間、引き戸が細く開いた。
「やあ、橘さん。お久しぶりです」
わずか十センチほどの隙間から、須田が顔を覗かせた。
「……何が久しぶりだ。うちにムサシがきたのはつい数日前ですよ」
「そうでしたっけ」
左側の顔半分だけを出し、いつのもように胡散臭い笑みを見せている。左目を三日月のように細めている。
「いらっしゃい。上がっていかれますか?」
玄関の奥は、暗幕のような闇だ。窓は各所にあるというのに、光がいっさい感じられない。カーテンを開けていないのだろうか。照明も、きっと
「いえ、結構です。うかうかとあなたの陣地に足を踏み入れるほど、馬鹿じゃありません」
そうですか、と、くつくつと須田が笑う。
よくここがわかったな、とは言わない。おそらく、太一たちとここら周辺を探っていたのもとっくに知っているのだろう。あれ以来、太一にはいっさい手を出さないあたり、やはり初めからミズキ狙いだったのだ。
「じゃあこの玄関先で、また仕事の悩みでも話し合いましょうか?」
にやにやと口元に笑みを浮かべたまま、須田が揶揄ってくる。
よく見ると、笑ってはいるが顔色がひどく悪い。もともと血色の悪い顔色だったが、今日はいつにも増して土気色だ。それに、もごもごと
仕事中だったのかもしれない。また怪しい依頼を受けているのかも……。橘は手短に告げた。
「今日は、もうこれ以上ミズキに手を出さないよう言いにきたんです。
案外あっさりと、須田が頷いた。
「二度目の襲撃なんて考えていませんよ。ムサシも、貴方たちを攻撃するのは嫌だったようだ。あの日も言うことを聞かせるのに一苦労でした」
頭の中に、散歩に行きたがらずにその場で踏ん張る犬のイメージが広がる。……ムサシの場合は、そんな可愛いものではないだろうが。
「あいつ、犬神のくせに対象者に懐くんだからしょうもない」
「しょうもない」と言いながらも、須田の目元は和らいでいる。
須田がムサシを愛しているのは疑いようがない。ムサシも、主人に従順だ。そんなムサシが、ミズキへの襲撃を嫌がっていたのかと思うと改めて胸が締め付けられる。
「
「ええ。
はっきりと肯定され、今更ながらショックを受ける。しかも、具体的かつ残忍な指示に肝が冷える。あんなに大人しそうな顔をして――。アンデッドとはいえ、意識を持ち、人間と同じ見た目をしている存在に対して、そんなに冷たくなれるものだろうか。
危なかった。ムサシは、須田は、本気で殺しにきていた。
――それなのに。
「……なぜ途中でムサシを撤退させたのです?」
須田が顎をしゃくって橘の胸元を指し示した。
「貴方が胸から提げている、それ。思った以上に強力だったので」
「これの中身は盃なんですが、途中で割れてしまいましたよ。あの時、完全にムサシが優勢でした。俺たちは完全に死を覚悟した。それなのに」
それが、どうして急に。
「途中でムサシを呼び戻したでしょう? なぜ」
須田は揶揄うような目つきをやめ、視線を落とした。
しばらく足元を見ていたが「どうしてでしょう」と、これまでに聞いたことのない、気の抜けた声を出した。
「別に貴方がたに情が移ったわけではありません。これまでも、いくつも酷い仕事を請けてきましたし、呪う対象が知り合いだったことも、しばしばありました。……けれど、急に不安に駆られたんです。ミズキ君を壊してしまったら、ムサシも消えてしまうんじゃないかって。ミズキ君が許されない存在なんだったら、ムサシはどうなんだって」
須田が答えを探すように足元を見ている。
「貴方たちに出会いさえしなければ、こんなことを考えたりしなかったのに」
須田が悩む必要はない。悩ませる原因となってしまったのは確かだが、ミズキとムサシはまるで違う存在だ。
須田は呪術を学んだ人間で、呪術の恐ろしさ、代償の大きさをわかっている。人を呪わば穴二つ、だ。現に身をもって返りを受け止めている。
けれどミズキの父親は、代償など露知らずにミズキを蘇らせてしまった。術だけ敢行し、自身は死んで、ミズキを一人残している。
橘自身も、これからミズキがどうなっていくのか知らずに過ごしている。
運任せの、無責任なパートナーだ。
「須田さんが悩む必要はありませんよ。ムサシは仕事の大事なパートナーで、あなた方は仕事を
ふと不安に駆られ、周りを見回す。
「……ムサシは元気にしていますか?」
「ええ。もちろん」
間髪置かず須田が応え、胸を撫でおろした。
あの時ムサシは、攻撃の途中で引き返した。術を完遂せずに戻るなんて、これまであったのだろうか。何も起こらないわけがない。術を完遂しなかった代償が、何かしらあるはずだ。