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第32話 犬神遣い

 布団に寝かせたミズキは、何時いつにも増して顔が白く、本物の人形のようだった。

 まだまだ残暑の厳しい季節だが、汗もかかない蒼白な顔が凍えているように見えて、肩まで布団を引き上げてやる。


「大丈夫よね……? 目を覚ますわよね?」

 太一が布団の中に手を入れ、ミズキの手を握る。ミズキの反応はない。


「たぶん、大丈夫だ」


 ここ数日、太一が日の出荘に泊まり込んでいた。


「ミズキちゃん、頑張って」


 犬神が去った後、すぐさま知り合いのエンバーマーに連絡を取った。

 いくらでも金を出すから、大至急死体を修復してほしいと言うと、夜中にも拘らず飛んできてくれた。

 エンバーマーの猪口いのぐちは、ミズキを一目ひとめ見るなり「生きてるじゃん!」と叫び目を白黒させた。

 猪口には悪いことをしたが、その言葉が橘を奮い立たせた。

 そうだ、ミズキは死んでいない。大怪我を負ったが、まだちゃんと生きている。

 なんとか頼み込んで猪口に傷を修復してもらいながら、太一にも連絡を取った。誰か、口の硬い医療従事者を連れてきてほしいと頼み、さらに血液型検査キットと血液の手配も追加した。

 面倒な依頼をいくつもしたにも拘らず、太一は二、三時間ほどで若い男を連れて日の出荘に来てくれた。それからずっと、看病を手伝ってくれている。


「だって今回は、完全に私のせいでもあるもの……」

 太一が逞しい肩を落とす。


「お前のせいじゃないよ。もともと、めぐみはミズキを消したがっていたんだ」


 犬神を差し向けてきたのは、霊能者の渡会恵わたらいめぐみだった。

 少し前に、須田にミズキ殺しを依頼していたようだ。


「半年前くらいかしら。渡会が、『橘といまだに付き合いはあるのか』って訊いてきたの。何でそんなこと訊くんだって不思議に思ったんだけど、あるって答えたら『秋陽堂にくることはあるのか』とか、『あの屍人アンデッドに会ったことはあるか』とかしつこく訊いてきたの。なんだかウザくなっちゃって途中から適当にごまかしていたんだけど、そのすぐ後よ。須田さんがうちの店に来るようになったのは」

「須田に、秋陽堂を探れって指示したんだろうな」


 盃の力に気付いてから、八王寺の恵の家には行っていなかった。

 当面は盃に呪い殺されることはないだろうと思っていたし、ミズキを邪険にする恵に、距離を置き始めていた。当初から掴みどころのない恵が信用しきれず、もともと家の住所を明かしてもいなかった。

 何度か電話ももらっていたが、呪いの盃を見せに来いという催促だと思い、無視していた。

 恵にとって、秋陽堂だけが橘に繋がる唯一の手掛かりだったのだろう。


「……もしかして、あのホスト殺しも私のせいかしら」

「それは考え過ぎだ。須田だって、恵の依頼だけを受けているわけじゃないだろうし。たぶん別の殺しの依頼を受けて、太一を巻き込む作戦を思い付いたんだ。太一を巻き込めば、芋づる式に俺がしゃしゃり出てくるって算段だったんだろう」

 そうかな、と太一が涙目になった。


「私がもっと早くあの女のことを話していれば、ミズキちゃんがこんな目に遭うこともなかったのに……」


 ついに太一の目からぽろぽろと涙が溢れた。いかつい見た目をしているが、太一は心根が優しいゲイなのだ。


「泣くなよ。大丈夫だ」


 太一の肩を叩きながら、自分にも言い聞かせるように「大丈夫だ」と繰り返した。

 大丈夫。ミズキはちゃんと呼吸をしている。

 けれど――。犬神の襲撃から三日が過ぎても、ミズキは依然として目を覚まさない。


 猪口に修復してもらった身体は、見た目は綺麗になった。が、身体の内部はどうなのだろう。生きた人間のように回復しているのだろうか?

 太一に分けてもらった血液は、ちゃんと身体の中を巡っているのだろうか。

 布団のふくらみが、日に日に薄くなってきているような気がする。もともと華奢な身体だ。今にも消えそうに頼りない。


 以前、ミニカーの呪物に襲われた時は、ミズキを一人残して死ねないと奮起した。

 けれど今回は、ミズキと同時に逝けるのなら死んでもいいと思ってしまった。

 死んで彼岸に行って、母親に引き渡すイメージまでしていた。最後まで生にしがみつかなかったことに、今更ながら身震いする。

 ミズキの存在が、思った以上に大きくなってきていた。自分が想像するよりも、ずっと、ずっと。

 今や共に過ごしているのが当たり前で、ミズキのいない生活が想像できない。ミズキが現れる前の生活が、なんだか思い出せない。

 一人で平気だったはずなのに。

 寂しいなんてほとんど感じたこともなかった。

 だから、ミズキに怪我に注意するよう言って、「もともと死んでたんだ。今更、何を心配しているんだよ。元に戻るだけだ」と返された時はショックだった。

 ミズキは生に執着していない。それが一番の心配だった。


(戻ってこい。まだまだやりたいことがあるだろう?)


 見せたいものがある。

 連れてゆきたい所もある。もっともっと深い話もしてみたいし、ミズキが望む経験を存分に与えてやりたい。


「だから、戻ってこい」


 声に出して言うと、太一もそうよ! と大声で呼び掛け始めた。


「ミズキちゃん! 早く戻ってきて!」 


 太一が布団に縋りついて泣く。

 体重はかけてないと思うが、薄い布団に太一の大きな身体が被さり、ミズキが潰されやしないかとハラハラする。


「太一、ミズキが潰れる」


 太一を起こそうと布団に近付く。すると、ミズキの長い睫毛がかすかに震えたような気がした。


「……ミズキ?」


 太一もがばりと身を起こし、じっとミズキの顔を凝視する。


「ミズキちゃんっ!」


 睫毛が震え、薄い瞼の下で、かすかに眼球が動いている。

 今にも目を覚ましそうで、呼吸をするのも忘れてミズキの顔に見入った。


「ミズキ」


 布団の中に手を入れ、ミズキの手を探す。細い指先は、いつもより体温が感じられる気がした。


「そろそろ起きろ」


 薄っすらと目が開き、瞳がこちらを捉えて止まる。


「ミズキちゃん! わかる?」

「ミズキ!」


 ミズキの唇がかすかに開く。


「う」、「る」、「さ」、「い」、とゆっくりと順に動いた。


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