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第31話 犬神遣い

「ミズキ、お前もだ。須田が来ても絶対に近付くな」


 太一を送って日の出荘に帰ると、すっかり日が暮れていた。

 いつもより厳重に戸締りをし、煙草屋の小窓も内側からカーテンを閉めた。普段は、鍵さえ閉めていない。


「須田の気配を感じたら教えてくれ」


 ミズキにもしつこく言い聞かせた。

 ここのところのミズキは、須田の愛犬に夢中で、須田たちが訪れると飛んで出迎えに行くようになっていた。橘も以前のように警戒はしなくなっていた。が、今日の太一の話を聞いて考えを改めた。


「あいつが何を考えているのかさっぱりわからない。ここを知られているから、充分気を付けよう」

「俺たちも猿の呪物でも持っとくか」

「太一にはああ言ったけど、……効果ないよ」


 二人の人間を物理的に殺した犬神ムサシだ。相当強い力を持っているだろう。猿なんて恐れてもいないだろうし、呪物を持っていたところで気休めにもならない。


「とにかく、須田には用心してくれ」


 ミズキは案外素直に頷いた。


「わかった」


 お互いの部屋に戻り、照明を落とした。

 巾着の上から胸の盃に手を当て、目を閉じる。

 この盃は、橘の身に危険が及ぶと力を発して守ってくれる。もし、須田が攻撃をしかけてきたら守ってくれるだろう。だが、ミズキの身に危険が迫ったらどうだろう。……おそらく、何も起こらない。きっと守ってくれるのは橘だけだ。もし須田の攻撃がミズキに向いたら、成す術もない。


 呪物蒐集家なんてオカルトな仕事をしているが、自分は何の取り柄もない成人男子だ。特殊能力で戦ったり、悪霊を払ったり、そんな漫画みたいな芸当は無理だ。力のある者に攻撃されたら一たまりもない。


 それにしても、なんでこんな危険な男が急に近付いてきた……?

 何が狙いだ? 貧乏呪物蒐集家を殺しても、何の得にもならないだろう。

 手に入れたい呪物がある? あったとしたら、もうとっくに盗んでいるはずだ。須田は何度かここに足を踏み入れている。

 ミズキを狙っている? 

 屍人を殺してどうする?


 あれこれと考えながら浅い眠りに落ちてゆくと、ガタン! という大きな物音で覚醒した。間髪おかず、階下でばたばたと暴れ回る音がした。


「ミズキ!」


 橘は飛び起きると急いで階段を降り、ミズキが寝床にしている煙草の在庫を置く納戸なんどを開けた。


「ミズキ、どうした!」


 畳の上の血溜まりが目に飛び込んできた。在庫を入れたダンボールにも、血飛沫が飛んでいる。


「ミズキっ!」


 部屋の隅でミズキが肩を抑えて蹲っている。

 見ると、肩を抑えた指の隙間から、どくどくと血が流れ出ている。


「ミズ、」

 駆け寄ろうとした瞬間、耳の真横でガウ! と獣の咆哮がした。次の瞬間、二の腕の皮膚が破れた。血が噴き出し、遅れて灼熱の痛みが走る。

 来ている。

 須田の犬神ムサシが。


 素早く部屋を見渡すが姿は見えない。が、薄暗い部屋の中、黒いもやのような影が飛び回っている。それと強烈な獣臭。

 張り詰めた空気の中、時々獣の唸り声が響く。

 靄の動きを捉えきれない。怪我を覚悟でミズキの元へ駆け寄った。だが、どうやって身を守ればいいのか、どうやってミズキを守ればいいのか見当もつかない。

 噛まれた腕は火傷しそうに熱いが、背中には冷たい汗が伝う。心臓が痛いほどに脈動している。


「クロ……」


 か細い声でミズキが犬の名を呼ぶ。靄……ムサシの動きに変化はない。――もう、心を通わせるのは無理だろう。ムサシも、愛する主人のためにただ仕事を全うしているだけなのだ。


 ミズキに覆いかぶさりながら「立てるか?」と訊いた。

 ミズキは小さく首を動かしたが、それきり顔を上げない。覗き込むと、いつにも増して顔色が真っ青だった。血を流し過ぎている。触れた指先はひどく冷たい。 


「いったん、廊下に、っ」


 背中に鋭い痛みが走る。熱した鉄棒を打ち込まれたような痛みだ。寝間着の背中が血でじわじわと濡れてゆく。さらに、肩にもムサシの牙が食い込む。


「うぅっ!」

 ミズキを抱え込んだまま、畳に俯せに倒れた。

 痛みが限界を超え背中全体の感覚がなくなる。身体全体が心臓になったかのようにどくどくと脈打っている。コントロールが効かず、なかなか身体を起こせない。


 畳と胸の間で、巾着が熱を発し出した。火傷するほどに熱くなり、ぅわん、と耳鳴りに包まれる。

 ――――来た。ようやく。

 盃がようやく目を醒ました。


 わけがわからなくなる前に、ミズキを抱え込んで廊下に這い出す。激しい息遣いと畳を掻く爪の音が追ってきたが、すんでのところで背後に破裂音が響いた。

 ギャウン……と、胸が痛くなるようなムサシの泣き声が響く。

 ようやく盃の力が発動し出した。

 しかしムサシが怯む様子もない。再び間近まで迫ってきて、バチン! と火花に跳ね返される。肉が焼け焦げた強烈な異臭がした。


「ミズキ、大丈夫か」


 血の気の引いたミズキの顔色は紙のように白い。意識が途切れ途切れなようで反応も薄い。パジャマの上はもう真っ赤だ。もともと血が少ないだろうに……。

 攻撃は防げているものの、ムサシが去る気配はない。何度も何度も果敢に挑んで、火花にはじき返される。血の匂いと、肉が焼け焦げる異臭。頭がくらくらとしてくる。


 ムサシの猛攻は、徐々に近くまで迫ってきた。

 目の前まで黒い靄が迫り、ガチンと牙がぶつかる音が爆ぜた。もう鼻先まで迫ってきている。

 ――一緒に死ねるのなら、いいか。

 腕の中のミズキを見つめる。

 以前ミズキが彼岸に行けなかったと言っていたのを思い出す。口には出さなかったが、延々と続く孤独を味わったのだと思うと可哀想で可哀想で仕方がなかった。今度は一緒に彼岸に行ける。一緒に行って母親のところに送り届けてやりたい。


 再びガチン! とムサシの牙が鳴り、と同時に巾着の中で盃が砕けた。ああ、気まぐれな盃の保護より、ムサシの主人への愛が勝った。


 ミズキに覆い被さる。目を閉じて覚悟したが、追撃はやってこなかった。

 ふいに音が鳴り止んだ。

 歯が鳴る音も、畳を蹴る爪の音もしない。

 恐る恐る顔を上げると、去ってゆくムサシの尻尾のシルエットが視界を掠めた。ミズキをかばったまましばらく用心していたが、完全に犬神の気配が去った。あとには、静寂と異臭だけが残った。


 血まみれの畳、荒れ果てた納戸。

 引き戸のドアは枠から外れ、板が突き破られていた。

 束の間呆然としていると、ひゅう、と蚊の鳴くような呼気が聞こえた。腕の中のミズキの身体から、力が抜けてゆく。

 骨の浮いた細い腕は、血で真っ赤に染まっている。橘はミズキの細くて頼りない身体を抱えながら慌ててスマホを手繰たぐった。

 ある男に、急いで連絡を取った。


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