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第36話 営業持田のオアシス

 駅から歩いておよそ二十分。

 決して駅近ではないが、勾配の少ない道なので歩きやすい。周辺は田畑や竹林が多く、毎日通うオフィス周辺とは違って、空気が美味しいような気がする。天気がよいとさらに気分がいい。


 デスクワークに嫌気が差した時、無駄な会議をパスしたい時、苦手な取引先に行った帰りなど、つい足を向けたくなる場所がある。

 千葉県I市の外れにある、日の出荘だ。

 えらく見た目のよい兄弟が運営している煙草屋で、客は少ないがなんとも居心地のよい店なのだ。月に二度は日の出荘の一階にある煙草屋を訪れている。


「いつもお世話になっておりまっす!」


 いつものように挨拶と同時に合板のドアを開ける。小さな煙草屋の店内には、橘さんの姿があるだけだった。飾り棚の前で何やら作業をしている。


「ああ、いらっしゃい持田さん」

「あれ、何しているんですか」


 橘さんは棚から雑貨を一つ一つ取り出し、新聞紙に包んだり、木箱に入れたりしていた。


「え、……まさかお引越し、ですか?」

「違う、違う」

 と、橘さんが苦笑する。険のある目元が和らぎ、途端に親しみやすい顔になる。

 この人、人を寄せ付けない冷たそうな印象だが、よく見るとかなりの美形なのだ。同性なのにもかかわらず、時々ふと目を奪われる。いつも思うけれど、もっと明るく社交的に振舞ったらバカみたいにモテるのに。


「何しているんです? 雑貨を箱詰めなんかして」

「雑貨って……」


 橘さんは呆れたような溜息を吐いた。


「持田さんにはこれらが雑貨に見えるんですか?」


 橘さんが棚を指さす。

 棚には、センスもジャンルも統一性のない雑貨が、ぎゅうぎゅうに詰め込まれている。日本人形や壺、刀や絵画、人形は西洋風のものもある。あとはなぜか、頭蓋骨のレプリカまで。見た目はかっこいいのに、橘さんのセンスは微妙だ。骸骨のレプリカを飾るなんて、中二病に引きずった高校生くらいだ。


「他人の趣味に口出しする気はありません」

「……はあ?」


 橘さんは首を傾げると、それ以上追及してくることもなく作業に戻った。手際よく雑貨を箱詰めしてゆく。


「しばらくここを空けるので、念の為梱包しているんです。ほら、留守中に地震がきたりしたら大変ですし」

「なるほど。……しばらく留守って、どれくらいですか?」

「一週間か二週間。――あるいは……」

「……」


 橘さんの思いつめた様子に、それ以上訊けなくなる。よく見ると、以前より少しやつれたようだ。彫りの深い顔立ちが、さらに陰影を帯びている。


「……お手伝いします。このへんの物、新聞紙に包めばいいですか?」


 棚から軽そうな木札を取ると、橘さんがびっくりしたように目を見開いた。


「触って、なんともありません……?」

「なんともって、なんですか? 大丈夫ですよ?」


 手が荒れないか? という意味だろうか。平気だと示すために、掌の上に木札を載せて手を開いて見せた。木札はカラカラに乾燥しており、触っても何とも感じない。

 橘さんはしばらく僕の顔と木札を見比べていたが、一つ大きく息を吐くと、またなぜか苦笑した。


「――じゃあ、お願いします。二段目の物をこの辺の紙で包んでいってください」

「了解です」


 しばらくの間、二人で黙々と作業を進める。

 よく見ると、年季の入った物ばかりだ。

 人形や壺は薄汚れているが、かなりの年代物に見える。橘さんの趣味の雑貨かと思っていたが、もしかしたら財産分与された大事な品々なのかもしれない。だとしたら、より慎重に梱包しなければ。


 棚の端に、伏せて置かれたキャンバスがあった。

 表に返すと、ビーチに沈む真っ赤な夕焼けが描かれていた。


「これ、なんで伏せているんですか? きれいな絵じゃないですか」

 飾らないんですか? と振り返ると、橘さんが「おっと」と僕に制止をかける。


「これを着けてください」

 と、新しい軍手を投げて寄越す。


「わ、すみません。高価な絵なんですか?」


 だったらなおさら、乱雑に置いておかないほうがいいのに。もっと額に入れたりして――――


「それ、人間の血で描かれた絵なんです」

「……は?」

「血液です。だから念の為、素手で触らないほうがいい」


 橘さんは至って真面目な顔で、軍手をしろと促してくる。

 朱色から赤茶へのグラデーションで描かれた夕日……海の水面も、空も、全体的に赤味がかっている。これがすべて人間の血で……


「ひゃあっ!」


 鳥肌が立ち、思わず手を放す。キャンバスが足元に落ち、再びばたりと畳に倒れた。さっきとは違う意味でまた冷や汗が吹き出る。


「す、すみません!」

「大丈夫ですよ」


 橘さんは焦った様子もなくひょいとキャンバスを摘まみ上げる。ざっくりと新聞紙にくるみ、壁に立てかけた。


「血で描かれた絵って……なんなんですかそれ」


 趣味が悪いにもほどがある。中二病でもかまわないが、猟奇的な趣味は受け入れがたい。

 口をぱくぱくさせていると、橘さんがゆっくりとこちらを振り返った。やけに昏い目つきで、視線を合わせてくる。――なんだかいつもと雰囲気が違う気がした。


「すみませんね、気味の悪い物を触らせちゃって。ここにある物は全部いわく付きでしてね」


 橘さんがぐるりと周囲の雑貨を見渡す。どうしてか、口元にはうっすらと笑みを浮かべている。


「血がついていたり、怨念がこびりついていたり、一般的には薄気味悪く思えるかもしれないんですが――」


 俺にとってはかわいい仲間たちなんですよ。


 囁くような声だったが、確かにそう聞こえた。――仲間? 橘さんは何を言っているのだろう……?


 以前から少し根暗なところはあるとは思っていたが、橘さんはこんなに異様な雰囲気の人だっただろうか。雑貨を見る目つきが昏く、でも妙に慈愛に満ちていて、なんだか怖い。血で描かれた絵を抵抗感なく触り、かつ大切に持っているなんて――。なんだか雰囲気も少しおかしい。……常軌を逸している。


「橘さん……、なんか変ですよ。大丈夫ですか?」


 橘さんは、はっと我に返ると、何度か瞬きをした。


「俺、なにか変なこと言いました?」


 あ、普段の橘さんに戻った、と思った。

 口下手で、冷たそうに見えるけど、他人に対して案外優しい人。いつも僕がここにさぼりに来ているのを知っていて、黙って招き入れてくれるのだ。


「橘さんの趣味を否定する気はないですけど、ちょっと入れ込み方が尋常じゃなかったですよ? 雑貨のことを『俺の仲間たち』なんて言うから……」


 橘さんが胸に手を当て、唇を真一文字に引き結ぶ。


「他には……? 他にへんなことは言っていませんでしたか? 持田さんに乱暴なことはしませんでした?」


 必死な様子に、かえってこちらが心配になってしまう。


「乱暴なことなんてまったく! むしろ、手が荒れないようにと軍手を渡してくれました」

 ほらこれ、と軍手をはめた両手を見せると、ようやく橘さんが肩から力を抜いた。


「少し疲れているみたいで……。最近他人に対して意図せず粗暴なふるまいをしてしまうようなんですよ。何もしていないのなら、よかった」


 肩を落とす橘さんは、本当に疲れているように見えて、思わず自分よりも高い位置にある橘さんの肩に手を置いてしまった。


「一週間か二週間、ご旅行ですか? しっかりとリフレッシュしてきてください! ミズキくんも一緒に行かれるんですよね?」

「そうです、ミズキも」

「行ってらっしゃい。帰ってくる頃には、すっかり気分も変わっていますよ!」


 友達にするようなノリで橘さんの肩を叩くと、橘さんが、ふ、と笑った。


「そうですね。帰ってくる頃には」


 思えば、橘さんやミズキくんのことを何も知らない。気づいたら、前任の志賀さんに代わって橘さんがこの店にいるようになっていた。この古びたアパートに、彼らはいつも二人でいる。


 二人のことを何も知らない。

 尋ねたことはないが、本当の兄弟なのだろうか? それとも親戚?

 何も知らないが、ずっと変わらず自然体の二人でいてほしい。世間とは違う時間の流れで、自由気ままに生きているように見える二人が好きだ。橘さんが疲労で気性が荒くなっているのだとしたら、早く元のように戻れるよう祈っている。

 この、古くてぼろくて、気兼ねのないアパートも好きだ。僕の仕事の合間のオアシスだ。


 リフレッシュして早く戻ってきてください。橘さんの背にこっそりとエールを送りながら作業に戻った。



第二章 了

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