走るようにして日の出荘に帰り、自室に飛び込んだ。
ポケットから短刀を取り出し、ジャケットの
化け物はどっちだ?
姿が異形と化した須田と、殺しを躊躇わない倫理観をなくした自分。
――自分のほうが、よっぽど
しっかりと拭いてから短刀を呪物棚の一番奥へと仕舞いこむ。目につくところにあると、また無意識のうちに誰かを傷つけるために手にしてしまうかもしれない。そう思うと恐ろしかった。
人心地ついたところで、とん、とん、と、ゆっくりと階段を昇ってくる足音が聞こえた。橘の帰宅に気付いたミズキが、上がってきているようだ。
以前の扉ごと壊されるような勢いはなく、ゆっくりとドアが開く。
「おかえり」
「ただいま」内心の動揺を抑え、努めて穏やかな声を出す。病み上がりのミズキに、余計な心配はかけたくない。
「起きてたのか?」
うん、とミズキが頷く。身体が一回り細くなったように見える。顔色は相変わらず紙のように白い。
ムサシの襲撃から十日が過ぎ、傷口はなんとか閉じた。けれど食事や栄養をたくさん摂取できないため、ミズキの回復はじりじりと遅くもどかしかった。
「寝てるの、もう飽きた。外に出たいよ」
壁に上半身を預け、ミズキが畳に足を投げ出す。怪我は上半身に集中していたため、足癖の悪さは相変わらずだ。
「出掛けるのはもう少し先だ。今は大人しくしてろ」
返事をせず、ごろりとミズキが畳の上に寝転がる。パジャマから突き出た足首が驚くほど細くて痛々しい。同世代の育ちざかりの少年のように、とまでは願わないから、せめて以前の少し瘦せ気味の少年くらいには戻ってほしい。
傾きかけた日が、橘の部屋の畳とミズキを照らす。一面オレンジの色に染まり、ほんの一瞬ミズキの血色の悪さが忘れられた。
ミズキに背を向け、書きかけにしていたコラムに向かう。
前回書いた部分を読み返すが、どうにも頭に入ってこない。当然先を書き進めることもできず、ただ原稿の上をスクロールする無為な時間が流れた。
こうしてうまく集中できずにだらだらと時間が過ぎていくのが常だが、時々、時間の感覚をなくして没頭できる瞬間がある。イヤホンをしながら執筆していると、何千文字ものコラムを一気に書き上げ、とっぷりと夜が更けていたりする。けれど、昼間の何気ない時間に記憶を失うなんて経験はなかった。――記憶が混濁したまま刃物を手に取るなんて、初めてだった。
「ムサシ、元気だった?」
ふいに問われ、背後のミズキを振り返った。
「……なに?」
「ムサシ。須田の家に行ったんだろう?」
いつの間にか身体を起こしていて、ミズキが呪物棚から例の短刀を取り出していた。鞘を抜き、刃を点検するように眺めている。……新たな血がついていないか、確かめているようでもあった。
「行ったけど、ムサシの姿は見なかった」
匂いは、した。きっとそばにはいたはずだ。最近では集中すればムサシの姿を見られるようになっていたのだが、今日はまるで見えなかった。
「須田が、ムサシは元気だって言っていたよ」
「そう」
「ムサシは、……俺のことを怖がって姿を見せなかったのかもしれない」
きっと須田のそばにいたはずだ。けれど橘の物騒な気配に気づき、家の奥に引っ込んだのだ。いつの間にか、犬神にも恐れられる狂気の存在になりかけているらしい。
「俺、
「……」
「下手したら須田を殺していたかもしれない。記憶がないんだよ、その短刀を持ち出した時の記憶が」
あの時、須田が引き下がらずに攻撃的な態度を見せていたらどうなっていただろう。躊躇なく短刀を抜き、須田に振りかぶっていただろうか。
人を刺す感覚――――とても想像できない。
今は想像もできないが、そのうち、無意識のうちにやってしまうのだろうか。
いつの間にか、ミズキがすぐ隣に立っていた。椅子に座ったまま、ミズキを見上げた。
ミズキがそっと肩に手を置いてきた。そのままうなじまで手を滑らせ、首の紐を引っ張られる。
「これ、もう外せば?」
ガラス玉のような瞳が、引っ張り出した巾着を見据えている。
「……盃?」
「そう。お前がおかしくなっているのは、確実にこれのせいだろ」
橘は巾着を開き中身の盃を取り出した。掌に載せる。
高台がわずかに欠けた小さな盃。底に広がる薄茶色のシミは、初めて見た時からまったく変わらない。
ムサシの襲撃を受けた次の日には、すっかり元通りになっていた。
「だめだ、ちょっとでも目を離すと、橘の家に戻ってしまう」
「今回のことでわかっただろう? こいつは身を挺してお前を守ってくれるわけじゃない。怨霊なんて気まぐれなんだよ。時には守ってくれたり、そうかと思えばあっさりと見捨てたりする」
「身に染みてわかったよ」
「たぶん、祐仁を殺さないんじゃなくて、祐仁を取り込んで、生きられなかった未練を解消しているんだ。祐仁の身体を通じてこの世を謳歌しているんだよ」
「……」
思い当たる節はある。
以前は気にも留めなかったのに、季節の花々に心を奪われ、季節の移ろいに敏感になった。日の出や夕暮れに、涙が出るほど感じ入る。三十手前にして、まるでジジイだと自嘲していた。
食の好みも急に変わった。
「お前の身体を乗っ取られるぞ。気づかないうちにお前の善良な部分を壊していく。嫌だろう? 知らない間に殺人犯になっているのは」
短刀を手に取ったのも無意識だった。気づかぬ間に意識が蝕まれているのかと思うとぞっとした。
「……嫌だ」
自分の身を守るために盃を外せば、きっと実家に災難がふりかかる。
実家を守るために身につけ続ければ、きっといつかは自分の手を汚してしまう。
嫌な天秤だ。どちらがいいかなんて選択できない。けれど、よりこちらのほうが嫌だというのははっきりしている。
「嫌だけど、やっぱり持ち続けるよ。実家に、兄貴に呪いがいっちゃうのは避けたい」
ふん、とミズキが鼻から息を吐く。いつのも調子が戻ってきていた。
「お前は相変わらず兄貴が好きだな。なんて言うんだっけそういうの……」
うん、うん、とミズキが唸る。言いたいことは察しがつくが、認めたくないので黙っておいた。
「ああ、ブラコンだ。ブラコンだよお前」
「ブラコンじゃないよ。ただ、人が先に死んでいくのを見るのが辛いだけだ。それを見ているくらいなら、まあ、自分が死んだほうがマシだなって」
ふうん、と再びミズキが畳に寝転んだ。もしかしたら、まだ立っているのがしんどいのかもしれない。橘は押し入れから枕を出し、ミズキの頭の下に差し込んでやる。
「祐仁、お前勘違いするなよ。その盃は魔法のアイテムでも何でもなく、お前の家系の呪いをたっぷり吸いこんだ呪物なんだ。たまたまお前が気に入られて、ピンチを救ってくれる時もあるけど、呪物の気持ちなんてあやしいもんだ。信用し過ぎるな」
「わかってる」
「わかってんなら外せよ。そんで、壊せ」
壊れないんだよ、と呟くと、ミズキが口の中でもごもごと呟いた。まだ体力が回復していないようで、近頃は起きていたかと思うとすぐに眠ってしまう。老猫のようで、痛ましくも愛おしい。
「……壊しに、行こうよ」
「え?」
訊き返したが、すでにミズキは眠りに落ちていた。