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第34話 犬神遣い

「ムサシはなんともありません。――私は、だいぶ食らっちゃいましたがね」


 須田が、引き戸に指をかけ戸を開け広げた。わずか十センチ程度の隙間から全開になり、戸に隠れていた須田の半身があらわになる。


「須田さん、……」


 須田の右側の顔が、欠けていた。

 右目から口元にかけ、顏の肉がごっそりと削ぎ落され顏の形が変わっている。欠けた部分を抑えるように、大きな肌色のパッドが貼られていた。

 はじめに、頭部が異様に小さいと感じた。当然だ、顔の三分の一ほどを失っているのだから。これまでの飾り気はないがシンメトリーに整った須田の顔を思い出すと、くらりと眩暈を感じた。


「顔の右半分、それに口蓋の半分を持って行かれましたよ。いやぁ、術が成功しても、術を途中でやめても、何かしら代償がある。難儀な仕事です」


 器用に喋っているが、唇は引き攣り、閉じきれない口の右端から歯列が覗いている。滑舌かつぜつが悪いと感じたのはこのせいか。


「目は……?」

「眼球ごと持っていかれました。右目は今、ただの空洞なので見えていないです」


 もともと右手は義手だった。さらに右目も見えないとなれば、生活は相当に困難だろう。

 同情が顔に出ていたのか、須田がいじわるな表情になった。


「――貴方って、本当におかしな人ですね。攻撃してきた人間を心配してどうするんです?」


 まだ傷は癒えていないのだろう。パッドに血と黄色い体液が染み出している。口を縫合した部分から、しゅー、しゅー、とまるで獣の息のような音が漏れている。

 思わず目を逸らした。


「心配では……」


 正直、どんな霊の姿より悍ましかった。

 同じ人間の姿をしているのに、首から上だけが異形いぎょうだ。とても以前のようには会話ができない。心臓が激しく脈動する。関わってはいけないと、脳がアラームを鳴らしている。今すぐここを立ち去りたい。


 ふふ、と笑いながら、須田が顔を近づけてきた。

「私の姿が恐ろしい? ちょうどよかったですよ、ムサシと同じ、化け物になれた」


 橘はじり、と半歩後ろに下がった。これ以上近付かれたら、恐怖と嫌悪感で殴ってしまいそうだった。


「――最後に一つだけ教えてください。須田さん、なぜホスト殺しの依頼をしてきた女の子まで殺したんですか。仕事の依頼主を殺すなんて……。報酬を払ってもらえなかった?」


 ふと、須田が動きを止めた。そんな昔の事件、憶えていないとでも言うように、左目がぼんやりと虚空を見詰める。


「ホスト……? ああ、あの女の依頼。そう、報酬はもらえませんでした。貰えないというか、貰う前に私が殺してしまったんですがね。あの女、ホスト殺しが完遂したら、今度は私を殺すよう、別の術師に頼んでいたんですよ。用心深いと言うかなんというか。私は自分の身を守るために返り討ちにしただけです」

「そう、ですか……」


 より悲惨な内情に、理由わけを訊いたことを後悔した。

 もう一分たりともここにはいられなかった。踵を返そうとすると、須田がワントーン高い声を発した。


「ところで、何をしにきたんです? 橘さん」

「何って」


 何って今更……。さっき答えたばかりだろう。


「だから、二度とうちに関わらないよう、言いに」

「それだけですか? もし私が拒否したら、どうするつもりだったんですか?」

「どうするって……」

「私を殺すつもりだった? それで」


 それ、と視線で示され、自分の右手を見る。

 右手に、短刀を握りしめていた。先日、ミズキが手入れをしようとしていた切腹に使われていた短刀だ。刀身をポケットに入れ、いつでも抜けるよう、親指を鞘に掛けている。


「…………これ、……」


 橘は慌ててポケットから手を離した。汚らわしい物に触れてしまったように手を振り払う。


 なぜこれを持っているんだ。

 これで、いったい何をするつもりだった……? 

 ――何をしに、須田の家に。


「橘さん、随分と変わりましたね。いや、もともとそういう人間だったのかな、私が見抜けなかっただけで」


 須田が妙に優しい、慈愛に満ちた視線を向けてきた。


「あなた今、いろんなものが混じっていますよ。もともとは性根がよい人だったんでしょうが、ミズキ君の純粋な残酷さや、呪物にまつわる怨霊の邪悪さが移って入り混じっている。ご自分でもわかっているんでしょう? 人間社会の倫理観が薄らいできているって。私が攻撃を続けると言ったら、躊躇なくそれで私を殺そうとしていたでしょう?」


 須田に問われ、背中に汗が伝う。


「それを持ち出す時、何を考えていたんですか? 私を殺すことに迷いはなかった?」


 これを持ち出す時――。何も思い出せない。どうやって日の出荘を出てきた? とにかく、ミズキのため、今後のため、須田に釘を刺そうと思っていた。


 ミズキのため。自分自身のため。

 二人の安全のため。

 どんなに言い訳を重ねてみても、とても殺しの正当化にはならない。

 ――それに、以前だったら決して考えない方法だ。


「橘さん、気を付けて。貴方呪物に取り込まれていますよ。貴方のバカがつくくらいお人好しなところ、好きだったんだけどな」


 何かを言い返す前に、須田に玄関扉を閉じられてしまった。

 まるで人間社会に拒絶されたようだった。


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