「ムサシはなんともありません。――私は、だいぶ食らっちゃいましたがね」
須田が、引き戸に指をかけ戸を開け広げた。わずか十センチ程度の隙間から全開になり、戸に隠れていた須田の半身が
「須田さん、……」
須田の右側の顔が、欠けていた。
右目から口元にかけ、顏の肉がごっそりと削ぎ落され顏の形が変わっている。欠けた部分を抑えるように、大きな肌色のパッドが貼られていた。
はじめに、頭部が異様に小さいと感じた。当然だ、顔の三分の一ほどを失っているのだから。これまでの飾り気はないがシンメトリーに整った須田の顔を思い出すと、くらりと眩暈を感じた。
「顔の右半分、それに口蓋の半分を持って行かれましたよ。いやぁ、術が成功しても、術を途中でやめても、何かしら代償がある。難儀な仕事です」
器用に喋っているが、唇は引き攣り、閉じきれない口の右端から歯列が覗いている。
「目は……?」
「眼球ごと持っていかれました。右目は今、ただの空洞なので見えていないです」
もともと右手は義手だった。さらに右目も見えないとなれば、生活は相当に困難だろう。
同情が顔に出ていたのか、須田がいじわるな表情になった。
「――貴方って、本当におかしな人ですね。攻撃してきた人間を心配してどうするんです?」
まだ傷は癒えていないのだろう。パッドに血と黄色い体液が染み出している。口を縫合した部分から、しゅー、しゅー、とまるで獣の息のような音が漏れている。
思わず目を逸らした。
「心配では……」
正直、どんな霊の姿より悍ましかった。
同じ人間の姿をしているのに、首から上だけが
ふふ、と笑いながら、須田が顔を近づけてきた。
「私の姿が恐ろしい? ちょうどよかったですよ、ムサシと同じ、化け物になれた」
橘はじり、と半歩後ろに下がった。これ以上近付かれたら、恐怖と嫌悪感で殴ってしまいそうだった。
「――最後に一つだけ教えてください。須田さん、なぜホスト殺しの依頼をしてきた女の子まで殺したんですか。仕事の依頼主を殺すなんて……。報酬を払ってもらえなかった?」
ふと、須田が動きを止めた。そんな昔の事件、憶えていないとでも言うように、左目がぼんやりと虚空を見詰める。
「ホスト……? ああ、あの女の依頼。そう、報酬はもらえませんでした。貰えないというか、貰う前に私が殺してしまったんですがね。あの女、ホスト殺しが完遂したら、今度は私を殺すよう、別の術師に頼んでいたんですよ。用心深いと言うかなんというか。私は自分の身を守るために返り討ちにしただけです」
「そう、ですか……」
より悲惨な内情に、
もう一分たりともここにはいられなかった。踵を返そうとすると、須田がワントーン高い声を発した。
「ところで、何をしにきたんです? 橘さん」
「何って」
何って今更……。さっき答えたばかりだろう。
「だから、二度とうちに関わらないよう、言いに」
「それだけですか? もし私が拒否したら、どうするつもりだったんですか?」
「どうするって……」
「私を殺すつもりだった? それで」
それ、と視線で示され、自分の右手を見る。
右手に、短刀を握りしめていた。先日、ミズキが手入れをしようとしていた切腹に使われていた短刀だ。刀身をポケットに入れ、いつでも抜けるよう、親指を鞘に掛けている。
「…………これ、……」
橘は慌ててポケットから手を離した。汚らわしい物に触れてしまったように手を振り払う。
なぜこれを持っているんだ。
これで、いったい何をするつもりだった……?
――何をしに、須田の家に。
「橘さん、随分と変わりましたね。いや、もともとそういう人間だったのかな、私が見抜けなかっただけで」
須田が妙に優しい、慈愛に満ちた視線を向けてきた。
「あなた今、いろんなものが混じっていますよ。もともとは性根がよい人だったんでしょうが、ミズキ君の純粋な残酷さや、呪物に
須田に問われ、背中に汗が伝う。
「それを持ち出す時、何を考えていたんですか? 私を殺すことに迷いはなかった?」
これを持ち出す時――。何も思い出せない。どうやって日の出荘を出てきた? とにかく、ミズキのため、今後のため、須田に釘を刺そうと思っていた。
ミズキのため。自分自身のため。
二人の安全のため。
どんなに言い訳を重ねてみても、とても殺しの正当化にはならない。
――それに、以前だったら決して考えない方法だ。
「橘さん、気を付けて。貴方呪物に取り込まれていますよ。貴方のバカがつくくらいお人好しなところ、好きだったんだけどな」
何かを言い返す前に、須田に玄関扉を閉じられてしまった。
まるで人間社会に拒絶されたようだった。