「それで? 何か俺に用でも……」
俺はなるべく平静を保つように努めながら、電話の向こうの元女房に問いかけた。
「んん、べつに用事ってわけじゃないんだけど。
この「竜司くん」呼びも、あの頃のままだ。一応、歳は俺の方が彼女より二つほど上である。
「ねえ、今もまだあの
立て続けにそう聞かれて、俺は思わずギクッとした。べつに、なにを隠すことも恥じることもないはずなのだが。
「いや、俺だけだ。相変わらずの
「ふぅーん、そ。……まあいいわ。竜司くん、どうもお邪魔しました。またね」
そう言って彼女は、一方的に電話を切った。
「あの、リュージさま……。お電話、元奥様でいらっしゃいましたか」
いつになく神妙な面持ちで、エルミヤさんが話しかけてきた。
「ああ。こうして直接話すのは、去年離婚して以来初めてのことだけどな」
新宿の飲み屋街で(あの頃の俺は、今より酒量も多かった)偶然に知り合った俺たちは、お互い親兄弟のいない独り身同士。たちまち意気投合して、気がつけばなんと三日後には、婚姻届にハンコを押していた。
初めて枕を共にした夜、亜也子は俺の背中に彫られた昇り竜を見てもまったく動じなかった。それどころか、俺のようなヤクザ者と籍を入れることすら、何ひとつ
彼女は、俺が生涯で一度も出会ったことのないタイプの女だった。よく笑い、よく泣き、よく怒る。いつも凛としていて奔放で。そして――何より、美しかった。
「リュージさま、愛してらしたんですね、亜也子さまのこと……」
エルミヤさんの言葉に、ハッとして俺は我に返った。別れた女房の話を長々とするなんて、そんなつもりはなかったのだが。彼女は意を決したように、さらに問いかけてきた。
「でも、どうしてそんな方とお別れに?」
「まあ、いいじゃねえかそんなこたぁよ」
そう言って早々に話を切り上げようとする一方で、手にした
翌日の朝、針棒組の事務所に出社した俺の携帯に、
「竜司、昨日は勝手に帰っちゃってごめんね! ……いやあ、なんか急に
「そうか」
「それでね、よーく考えたんだけどぉ。やっぱり竜司の家で一緒に暮らすのは、ちょぉーっとまだ早いかなぁって。え? ううん、気にしないで全然ぜんぜん。べつに今はほら、
「わかった。いいぜ」
こうした
「……それでさあ、竜司。あの部屋だけど……引っ越す気、ない?」
小虎からの電話を終えたあと、俺はふと隣の秘書席に座っているエルミヤさんを見た。いつもならデスクのパソコンで、お気に入りの動画サイトの巡回が
「どうした?」
「いえ、なんでもありません」
そう言ってエルミヤさんは、そっと視線を落とした。
明るい笑顔が持ち味の彼女だが、どうも今日は溜め息をついたり、なにかを考え込むような表情をしたりすることが多い気がする。その理由が俺に関係することなのか、またはそれ以外なのかはわからない。
その時、デスクの電話が鳴った。
「はい、株式会社
受話器を取って応対したエルミヤさんは、通話を保留にすると俺の方を向いて言った。
「リュージさま、
「優ちゃん?
俺は受話器を取ると、応答ボタンを押して電話に出た。
「あ、竜司さんですか?
「おう、めずらしいな優ちゃん。なんだい?」
「あの、折り入って竜司さんにお願いがあって」
「お願い?」
「はい。うちの母が仕事先から、グランド・インペリアルのディナービュッフェの招待券をいただいてきたんです。今週の日曜日が
「まあ、一流ホテルだとそうかもな。お母さんは一緒に行ってくれないのかい?」
「その日は出張と重なっちゃってて、どうしても……。私、竜司さんのほかに大人の人って知らなくって……。それで
「俺が?」
たしか、優ちゃんのところは母子家庭だ。ほかに保護者になりそうなあてもないのだろう。バイト先のスーパーの店長ってわけにもいかないだろうし。
「んー、しかし……」
「急な話で本当に申し訳ありません。あの、あらためてまたお電話しますので、ご検討いただければ……よろしくお願いいたします!」
そう言って、優ちゃんは電話を切った。
しばらくすると、またベルが鳴った。続けて、エルミヤさんが受話器を取る。
「リュージさま、
「あ? チマキ?」
「もしもし、
「いや、大丈夫だ。どうしたチマキ」
「あんなぁ、巨人-阪神戦のチケット買うたんやけど。よかったら東京ドーム、一緒に観にいけへん?」
「あー、野球の試合か。……ちなみに、いつだ?」
「こんどの日曜のナイター。大声で応援したらスカッとすんで! なあ、行こ? あ、あいにく
言いたいことだけ早口でまくしたてたチマキからの電話が切れた瞬間、またまた呼出音が鳴った。
「リュージさま、今度は桜町交番のオガタ巡査さんからです」
「なんだって? マジか?」
「あー、正義の警察官こと
「……なんだオガタ。いったい俺に何の用だ」
「じつは、とある
「は? なんで俺がお前と映画観にいかないといけねえんだよ」
「おや。そんなクチ聞いていいんスか? グンバリュージは
「借りだと?」
「この前、闇金の
なるほど、たしかに俺たちにはなんのお
「そんなわけで、考えておくっス。バイならっス」
ガチャ切りされた受話器からは、ツーツーという機械音のみが聞こえていた。エルミヤさんは頬杖しながら、黙って俺を眺めていた。
続く