ふっと顔を上げ、時計を見ると、既に夜も半ばを過ぎていた。このくらいにしよう、とオリイは髪をくくった紐をするりと解く。
冷蔵庫の中からオレンジジュースを取り出してコップになみなみと注ぐ。それをごくごくと飲み干して、さあ眠ろうか、とベッドに向かう。今日はまだ元保護者は帰ってこない。ウェストウェスト主星に用がある、と言ったきり、戻らない。
オリイはその間、Dear Peopleの編集部に行ったり、部屋の中で作業を続けていた。それは単調な時間だった。出かけて、仕事をし、食事をし、また帰って、仕事をする。
出かけた時の仕事と部屋に帰ってからの仕事は別のものである。だが仕事は仕事だった。オリイは黙々と、文字通りそれをこなしていた。
そして今日も、その単調な一日が終わるところだった。
扉を叩く音がした。
オリイは一度、聞き間違いかという様に頭を軽く振った。夜にはこういうことはよくあるのだ。アパートの扉をいたずらで叩いて、そのまま駆け出していく少年。救いを欲しくはないか、と問いかけれる宗教の勧誘。そのどれにもオリイは反応しない。
だがその音は違っていたらしい。
二度目のそれを耳にした時、入りかけた毛布の中からするりと抜けだして、オリイは迷わずに扉の鍵を開けた。
そして扉を開け、微かに笑った。
「ただいま」
鷹は、抱きついてくる元被保護者を避けることはしなかった。後ろ手に扉を閉めると、そのまま自分から相手の背に手を回した。
どうしたの、と言いたげにオリイはぽん、と鷹の背をはたく。だが彼は何も答えなかった。ただそのまま、しばらくの間、相手を抱きしめていた。
*
そうだ、とサーティン氏はその時答えた。
「私は確かに、その時、彼を見ていたのだよ」
鷹はその時戸惑った。確かに戸惑う自分が居たのだ。
「何もその様に言葉を無くす必要はなかろう。この世の中にはよくあることだ。ただ私の立場にある人間なら、一応の建て前として、妻を持つこともあろうがな。実際それも考えた」
後継者のことか、と鷹は考える。それだけではない。確かに後衛を預かるものとしての「妻」は彼等実業家の世界では必要であっただろう。だがこの目の前の男はそれを拒否したらしい。
「だが、どうにもその気にはなれなかった。それは君の予想する通りだ。私はあまりにもナガノという人間に入り込みすぎていた。当時、私にとって彼は愛すべき仕事の一部であり、仕事がまた彼とだぶっていた。ある種の人間にはそういう時期があるだろう?何もかも忘れて何から没頭する時期というものが」
あるのだろうか、と彼は思った。少なくとも、鷹にはそういう「時期」は無かった。
「…いや、君には無いのだろう。ナガノもそういうことを言っていた。彼自身がそうだった。彼は私に言ったものだ。うらやましい、と」
「…うらやましい?」
「この退屈な人生の中で、そんな風に、何かに打ち込むことができる君がうらやましい、と彼はよく言っていたものだ。そういうものなのかね?君達の様な、種族にとっては」
「それは…」
「我々は、どれだけやりたいことがあふれていようが、時間切れでやり尽くせないということが多い。いや時間が限られているからこそ、やり尽くせないことを夢見るのかもしれん。だからそういう我々からしてみれば、君達の様な時間の有り余る種族はある意味、うらやましいというものだ。だが奇妙なものだな。そういう彼はこちらをうらやましいと言った」
鷹は自分の胸の辺りがひどく冷たくなっていくのに気付いた。その冷たさは、胸から次第に広がって、腕に腹に足に…ゆっくりと全身を冒していく。身体が、固くこわばっていくかの様だった。
普段は回避しているが、面と向かって言われたくは無いことというものが自分にもあったことに彼は気付いた。
「そのせいかどうかは知らないが、私が彼の持ち出した遊園地の話を実現させたい、ということを切り出した時には、奇妙な程喜んだものだ」
「…だけど彼にはその経験は」
「経験はそれなりにあったね。長い間一所には居られない、とは彼も言っていたが、数年一ヶ所に一つの名で居ることはできない相談ではない。彼は君達の軍を脱けた後、様々な職種を点々としたらしいな。仕事は、選ばなければ何かしらあったらしい。身体を壊すということだけは考えなかったから、彼はそれこそ何でも試したらしいが、その中で、何故か土木建築には惹かれるものがあったらしいな。時々傭兵に出て小金を稼いで、SPBに預けておいたそれで、無論別の名で、ウェネイク総合大に入ったんだよ」
「…あなたの母校でもありますね」
「彼と会ったのはそこだった」
ウェネイクは。鷹は記憶の中からその風景を引っぱり出す。現在の帝立大学と、どう違っているというのだろう。現在のそこならば、彼は何度か足を踏み入れたことがある。気配を殺せば、あんな、雑多な場所は、身を隠すにはそう悪い所ではない。何処の学府も、決して景色は悪くない。ただし長居は、いつも以上に出来ない所だったが。
「私は青田刈りに行ったんだ」
さらりとサーティン氏は言う。
「私の母校だ。きっと私の様に、何かがしたいのに、機会が無くてどうしようもない気分でいる奴が居ると思った。ただ、私の側からしたら、能力もまた必要なのだがね。焦燥に駆られている学生は山ほど居た。口も巧い者もたくさん居た。当時の私には、吐き気のするような厚顔な輩も居たものだ」
「ところが彼は違った?」
「違ったね」
即答が返ってくる。
「何しろ最初の面談の時から、スポンサー候補である様な私に媚びる様な気配は全くなかった。大概の学生も研究生も、多少遠くても、良い条件で就職させてくれる所だ、と思ったらもうなりふり構わないのだろう。そんな中で、彼は違っていた。何せ、当時の教授が勧めても勧めても来ないというから、わざわざ呼び出したら、こう言ったものだ。『そんなことしているうちに、植民初期の建造物が焼けてしまったらどうするんですか』ちょうど彼はその実地調査に出る所だったらしい。そんなことだよ? そんなこと、だ」
くくく、とサーティン氏はひどく楽しそうに笑う。
「あの黒い髪をまだ長く伸ばしていた。後ろできっちりとくくってはいたが、あちこちが何処かはみ出していたな。薄青の目が、実に不満げにぎらぎらしていたものだ」
黒い髪に、薄青の目。
鷹は既にサーティン氏が、シェドリスとナガノを区別していないことにその時気付いた。
「研究対象は何か、と訊ねたら、何でそんなことを聞くのか、と返した。とんでもない学生だろう」
「…確かに」
軍に居た頃の反動かもしれない、と彼は思う。アンジェラスの軍は、下の世代であればある程、望みの無い縦社会だ。意識の奥に刻み込まれた世代意識が壊すことのできない、社会だった。
だがそれが解かれた時、それに代わるものを見付けるのは、なかなか容易ではない。おそらくナガノは、それを手探りで見付けようとしていたのではないか?そう鷹は感じる。
「私は他の数名を探す傍ら、彼とよく話をするようになった。無論、最初のその態度のせいばかりではない。しぶしぶながら口にした、彼の研究対象に興味を抱いたからだ」
「それが、ルナパァクの元となった、その遊園地のことですか?」
「そうだ」
「そして、二人で構想を練った」
「そうだ」
「…だが彼は、途中で消息を絶った。それは何故です?そして、どうして、彼が、シェドリスなのです?」
「…彼がナガノ・ユヘイで無いことは、やがて当局にも判った。できるだけ私は彼をマスコミからは隠してきた。だがさすがに隠しきれるものでは無かった。君も見ただろう、当時のフォートは、あれだけ残っている。私は当時、やがて帝都政府となるだろう軍から、軌道の幅について、当局の基準とは異なったものを作ったことで目をつけられていた」
「軌道の幅?」
「君はさすがにその事についてはそう知らないらしいな。それは仕方あるまい。当時、全星域内の鉄道・軌道の幅を全て統一しようという動きがあったのだよ」
「幅を」
「まあ幅、というのは、やや異なるかもしれないが、要は、規格の統一化だ。それまで、各地の有線路交通機関は規格も何もなく、幅やチューブのサイズや、電圧も全てばらばらだった。それを全て規格の中に納めようとした訳だ。これはかなりのコストがかかったのだが、それでも政府はそれを強引なまでに押し進めようとした。何故か判るかね?」
「…何故ですか」
「規格化することによって、政府は全星域の路線をやがて手に入れるつもりだったらしい。例えばこの、今度の皇兄ユタ氏の来訪にも、帝都から直通の路線で乗り込めるような、そんな路線図を考えていたらしい」
「そんなことが」
「向こうにも結構な大風呂敷者が居たらしいな。…だが私はがんとして拒み続けた。あれは、この星域に最も合ったサイズであり、そんな、向こうの都合でどうこうされるものではなかった。実際、各地でそれは反対の声が上がったものだ。新興の、特に軌道を敷いたばかりの者は皆そうだった」
「…」
「だが、向こうがその全費用を持つから、と考えを変えた者も居た。それはそれで、向こうの都合もある。仕方がないだろう。だが私にはそれは我慢ならなかった。そして私に圧力をかけてきた」
「…D伯の力をもって」
「そうだ。D伯は、当時から帝都政府となる軍と手を結んでいた。彼は私の社がこの様な形になるとは思っていなかったらしい。実際私はその頃、彼から既に独立した形を取っていた。それこそ『軌道に乗っていた』訳だ。そしてルナパァクの建設だ。…あれもまた、向こうの反感を招いた。そして彼等は私の身辺を洗い出した」
「そして、彼の存在に気付かれた?」
「そうだ。そして私は彼を逃がした」
「逃がした、のですか」
「他にどんな道があったと思う?そして、帝都政府となる軍は、最後の『間違い』とばかりに、このウェストウェストの、コロニー群に攻撃をしてきたのだよ。理由は一つしかない。この星域の、持つ勢いそのものを下げるためだけにな」
それだけ、だが、確かにそれが効果的であったのは事実だろう、と鷹も考える。実際その攻撃で住めなくなった人々が、遊園地でしかなかったコロニーに移り住み、遊園地を成り立たせなくしてしまったのだから。
「だけどそれでは、何故ルナパァク自体を攻撃しなかったのだと思いますか?」
「決まっているだろう」
サーティン氏は吐き捨てる様に言った。
「当てつけだ」
ああ、だろうな、と彼も思った。オリイを引き取った当時、ホッブスから聞いたことがあった。その攻撃は情報が入ってからひどく悠長だったために、避難するだけの時間が与えられていたかの様だったと。
使える遊園地を使わせない様にするほうが、ただ単純に破壊されるより、その持ち主にとってダメージが大きい、と踏んだのだろう。
「…ただ、彼等にも幾つかの誤算はあった」
「誤算、ですか」
「…シェドリス・Eは、D伯の子供の一人だったのだが、その攻撃の時に、行方不明になった。無論普通、そんな彼の子弟が巻き込まれる様な場所に居る筈がない。特にD伯はその攻撃を知っていた筈だからな。だがその時、彼はそこに居て、巻き添えを食った」
「…生死不明…?ですか」
「ということになっている。だが実際、その時の攻撃によって、住民の籍自体が、本物も偽物も判らなくなってしまっていた。…そしてそれが今度は、外からの流れ者を招いた。全くもって、いい当てつけだ。私が… 私と彼が、夢見て、作り上げた都市を、帝都政府はうち砕いていったのだ」
「あなたと、彼がですか」
「そうだ」
サーティン氏はきっぱりと言った。
「…あなたにとって、ルナパァクは、あの遊園地コロニーは、彼との記憶でもあるのですね。そして今も…?」
「現在もだ」
「そして彼は戻ってきた」
「そうだ」
「あなたが、彼に生死不明のシェドリス・Eの名を貸したんですか」
「…いや、そういう訳ではない。だが、私は元のシェドリスを全く知らない訳ではなかった。シェドリスは黒髪に薄青の目だった。歳の頃も現在、彼の見かけくらいだ。混乱した情報の中では、その程度の情報でも彼はシェドリスになりすますことはできるだろうと思った。どうせその名前を長く使うつもりはなかった」
「D伯は」
「…D伯にとっては、数多い自分の子供の一人や二人、居なくなったところで大した問題ではない。そもそもシェドリスは庶子だった。しかも、本当にD伯の子か疑問視されていた子でもある。…元の彼は、どうやら、D伯のもとを出奔したらしい。伯はそれ以来、彼のことは口にしない。元々駒としての価値をその息子に感じなかった、という話も聞いている。厄介払いができて良かった、と感じていたのかもしれない」
くく、と不意にサーティン氏は喉の奥で笑った。
「血のつながった子供をたくさん作っても、このざまだ。私はそれを作ることはしなかったが、後悔はしていない。自分の作り上げた事業を、血だけのつながりで誰かの手に渡すのは好まない。私が死んだ後に、誰か私の意志を理解してくれる有能な人材に手渡せばいい、と思っている」
「それは、ナガノ…現在のシェドリスですか?」
「彼を掴まえておけると、君は思うのかね?」
鷹は首を横に振り、いいえ、と言葉を付け足した。
「私も思わない。それは私が彼の正体を知った時から、ずっと判っていたことだ。どれだけ私が執着していようが、君ら天使種をつなぎとめておくことなど、出来る訳がない。それは仕方がないことだ。あの時、帝都政府の追求が無かったとしても、彼はきっと私の元から一度は離れたことだろう」
「だけど彼はあなたの元に戻ってきた?」
「全く同じ姿で。判っては居たことだが、さすがに驚かされたね。そう今の君の様に、私の元に直接乗り込んできた」
そして灯りをつけた目の前には、懐かしい顔が。
「彼はただ近くに来たからだけだ、と言った。実際そのつもりだったらしい。そして私が、彼を引き留めたのだ」
*
引き留めたのだ、とサーティン氏は言った。
確実に、時間の流れが違う相手の手を思わず取ってしまったのだ、と。
サーティン氏は無論自分とナガノ/シェドリスの間に実際にどんなことがあったか、などということは口にはしなかった。だが、口にはしなくとも、それは鷹には容易に想像できた。
それで良かったのか、と鷹は訊きたかった。…明らかにこんな問いは仕事ではない。自分自身のためだった。
そんな、時間の流れの違う相手に執着することは怖くなかったのか、と。無論変化しない人間同士にしたところで、関係は永遠ではない。短い生存年数の中で、またその中で、何度も何度も出会いと別れを繰り返すのだ。
だが、その中で、永遠に近い関係を保っていける相手に出会えるのかもしれない。その短い生命を、それこそ年老いて死ぬまでの間を、一緒に生きてゆける相手に。
だが、天使種は。
同じ種族であったならまだいい。同じ時間の中を生きることができる。だが彼は同じ種族には、はじめから希望は持っていなかった。
それが異性であれ同性であれ、天使種は、とにかく現在数が少ない。そして、その半分が追う身であり、半分が追われる身である。
そんな中で、そんな相手に巡り会えることはまず少ない。そして、会ったとしても、その相手にそんな気持ちを持てるか、と言えば…それはまた難しいのである。
彼はオリイの黒い髪に何気なく指を絡めながら、別の相手のことを考えていた。
遠い昔に自分が墜としたあの友人。とても好きだった。最初に会った時から好きだった。だけど何を本当に考えているかなんて、結局自分は判らなかった。そして自分もまた、その関係が永遠であるなんて考えていなかった。
裏切られたとも思うが、心の何処かで、そんな予感を感じていたかもしれない。ずっと離したくない、と思ったことは、結局無かったのだ。
なのに。
腕の中の相手は、苦しい、と言いたげに身体を動かす。力を少し緩めて、彼は見上げる相手の目をのぞき込む。ああまただ。あの瞳だ。
何処か奇妙な形を描くその瞳。時々不確かな形にゆらめく。永遠ではない。永遠ではないというのに。
そんなことは大した問題ではないさ。
涼やかな声が、響く。
だって僕は君のことがまた判ったもの。
そう言ったのだ、とサーティン氏は言った。ナガノは怖れない。そして花園の園主も。マリーヤは天使種と判っていて結婚し、そして離れた。だが関係を切った訳ではない。
怖れているのはどうやら自分だけらしい。
「…お前は俺がどういう者だか知ってるね?」
彼は目の前の相手に問いかける。知っているはずだ。何度も何度も、その「人間ではない」姿を見せつけてきた。相手が十歳をとったとしても変わらない姿なのにも気付いているだろう。
なのに、オリイは迷うことなくうなづいた。
「それでも俺がいい?」
再び、相手はうなづく。
思わず天井をふり仰ぐ。負けた、と彼は思った。
いや、もうずっと昔から、自分はこの元被保護者に負けているのだ。本当に邪魔だったら、どれだけ泣こうがしがみつこうが、振り解いている。
放せなかったのは、自分の方なのだ。
あの友人は、自分のことを好きだったかもしれない。自分も好きだった。だけど自分のことを必要とはしていなかった。
どうしようも無い感情で、きつく縛られていたかった。本当に、そんな感情を向けてくれるのなら、自分はそれに縛られよう。それが望みなのだ。
いつかのように首に手を回す相手に、彼は応える。そのまま、髪を手に絡めたまま、ゆっくりと移動し、そして倒れ込んだ。何処でそんなことを覚えたのだろう、相手の手が、自分の衣服にかかっているのに彼は気付く。そんな手の動きを感じながら、彼は相手の頬や耳の下や、首筋にとゆっくりと触れていく。長い指は、薄いシャツの中に入り込む。
だが次第に彼は、指以外の何かが、自分の皮膚の上を滑っていくのに気付き始めた。
それは奇妙な感覚だった。熱帯に住む、小さな小さな虫が、大量に身体の上を動いていく時の感触にも似ていた。気が付くと、その感触は、次第に広がっていく。
だがそれは決して不快ではない。虫ではないのだ。
ああそうか。
指にかかる髪の感触が、何か。
夜目にも白い肌の、間に、黒く、髪が波打つ。
巻き付いてくる。絡み付いてくる。
『…やっと、通じた』
その時彼は、直接頭に響く声を聞いた。