…彼を起こしたのは、通信の呼び出し音だった。旧式のベルの音を模したそれは、ひどく神経に響きわたり、実に目覚ましとしては効果的だ。
彼は軽く頭を振ると、のろのろと起きあがって、通信の前に立つ。
『…何って格好してるのよ』
あ? とひどく自分でも気の抜けた声が出たのに、彼はやや驚く。画面の中のマルタは顔をしかめている。
「何を今更。初めて見るものじゃないでしょ」
『私じゃなかったらどうするつもりだったのよ!』
そうは言ったところで、この場所に掛けてくるのは彼女くらいなものなのだ。鷹は仕方ないな、とつぶやきながら、服を手に取る。その時ようやく、どうしてこんな格好だったのかな、と頭が回る。
そして、服を取ろうとして、ようやく彼は、自分が何をしていたのか、気付いた。出てきたベッドの中にはまだもう一人が眠っている。
頭がやや混乱していた。一つ物事を思い出すと、鎖の様に、次々とそれに連なる行為や夢や感覚が一気に蘇る。ひどく長い夢を見ていた様な気がした。
彼は手早く服をつけると、再び通信の前に、今度は座った。
『…だいたい何であなた昨日も一昨日も出ないのよ? 戻るって言った予定から遅れたっていうの?オリイでも出るかと思ったら、あの子も出ないじゃない』
「ちょっと待ってマルタ、今日は何日?」
「何言ってるのよ…7日よ!」
「7日?」
彼は、思わず前髪に指を差し入れる。確か、自分の戻ってきたのは、4日だったか、5日だったか…
扉を見る。何枚もの広告が、扉の口から差し込まれている。記憶に無い。
『一体、どうしちゃったって言うの? もう明後日なのよ? ユタ氏がプラムフィールドに来るのは!』
ああ全くだ。彼は思う。どうかしている。3日も眠っていたのか俺は。
ふと、背後でざわ、と毛布が動く音がした。
鷹は画面の中のマルタに一時間後にかけ直す、と言って通信を切った。そしてゆっくりと振り向く。
腰くらいの長さになった髪の毛を体中にまとわりつかせた相棒が、じっとこちらを向いていた。彼はあれ、と思う。あの夢の中では、もっと長くなかっただろうか。
そして喉を軽く押さえると、確かめるかのように、口を開く。オリイは言った。
「おはよ、鷹…」
彼は思わず大きく目を開けていた。そしてそんな彼に相手は笑いかける。
「話せる… のか?」
「…あなたの生気を、取り込んだ、から」
だがまだややぎこちない。単語がいまいち上手くかみ合っていない印象を受ける。
「俺の?」
「いちどでも、ほかの人間の生気を、取り込むと、喉が、ひらく」
ああなるほど、と彼はうなづく。おそらく、母親はオリイに対して、それを誰にもさせなかったのだろう。あの蛇姫の女。そして、自分と一緒に居た時に、いくら本能が知っていたとしても、この相棒ができる訳がない。
色々と聞きたいことはあった。夢の中の出来事だけでは断片的すぎる。おそらく… いや必ずオリイは知っているのだ。母親から聞いたのか、遺伝子の記憶なのか、そのあたりははっきりとはしないが。
だが彼はまず何から聞くべきか迷った。そして目の前の、元養い子の姿に、目を細めた。
「…メシにしようか」
ようやく見付けられた言葉ときたら、それだけだった。
*
オレンジの皮を指で器用にむきながら、幾つもオリイは口に放り込む。鷹はそんな斜め横の相手を見ながら、ずいぶんと自分が空腹だったことにやっと気付いた。無理もない。三日も眠っていたのだというのだから。
それに。彼は思う。疲労と言葉にできるまでではないが、何やら奇妙な餓えの様なものが身体にはあった。いつも口にする紅茶を、やや濃いものにしたら、何やらもう、涙が出る程美味と感じてしまうほどに。
だが、生気を摂ったと言うわりには、相棒はいつもと同じ様な食事もしている。何気なく彼は訊ねた。
「お前の主食って、結局何なの?」
オリイは首をかしげる。
「俺の生気を摂ったって言ったろ?」
うん、とオリイはうなづく。
「でも、いつも要る訳じゃ、ない」
「いつもじゃない?」
「要る時に、摂る。なにも、いつも要るわけじゃない」
そういうものだろうか、と彼は思う。まあつまり、食事とは別の次元らしい、ということは鷹にもその端的すぎる言葉から想像はついた。
夢の内容を、彼は頭の中で整理する。
シャンブロウ種は、どうやら生気を摂る相手を一人に決めているらしい。そしてその相手の死ぬ時に、同時に死ぬ。オリイの母親も、あの宗主の得た女もその様なことを言っていた。
「お前は」
鷹は言葉を止める。オリイは顔を上げる。何、という様に、相手は頭を軽くかしげた。彼は手を伸ばして、その顎の下に指を差し入れる。猫をあやす時の様に、指を動かす。するとひどく心地よさそうに、相手は目を細めた。
どうやらそれは、夢ではなかったらしい。
ではあの言葉も夢ではなかったのだろうか。
今の今になって、それが聞けない自分に彼は気付く。
それに気付いたのだろうか。自分をあやす手をゆっくりとその手に取って、オリイは何気なく、言った。
「大丈夫俺は、あなたが死ぬのを見届けるから」
…やっぱりまだ言葉に問題がある、と彼は思った。
*
「何も起きてはいない」
と彼はモニターの向こうのマルタに言った。嘘、と頬杖をつきながら彼女は言った。
「いや本当に。あなたの通信を切ってから、一応あちこちを当たってみたんだ。オリイの行ってた雑誌社の方にも、病欠を言わなくてすみませんというついでに祭典の様子はどうとかついでに聞いてみたんだけど、別段何も変わったことはないし」
『本当に?』
「シェドリス・Eが動く様子は無さそう…とディックは言っていた、と」
『…答えになっていないわ』
「こないだ彼と会ってね」
マルタはそれを聞くと、眉を大きく上げた。
「どうにもこうにも、彼は花園に行くつもりはないらしい。それが保護であろうが、天使種と関わっていくのはごめんだ、ということらしいよ」
『それで、ユタ氏には何の危害も加えない、って約束したとでもいうの?』
「そう言った訳じゃあないけどね」
彼にしても、正直言えば、何かが引っかかっている。だがそれが何故なのか、いまいちよく判らないのだ。
『…情けないわね』
マルタはふとつぶやいた。
「うん?」
『情けないって言ってるの。珍しい』
「そうかな?」
『そうよ。気になることがあるなら、とにかく動けば?』
彼は苦笑する。そういえばそうだ。
『何が、引っかかっているの? こちらとしては、本当にシェドリス・Eが何もしないんなら、それはそれでいいのよ。だけどそれを見極めて欲しいだけ…』
ふと、モニターの中の彼女の表情が翳った。首筋に、くすぐったいような感覚が走る。椅子の背もたれに、何か重みが加わったような気がした。
彼女は微かに眉を寄せ、目を一瞬伏せる。そして口の端を少しだけ上げた。
「…マルタ?」
『…ああ、それから、確かあなた一つ調べて欲しいって言っていたでしょ?』
「え?」
『ほら、本当のシェドリス・Eの母親のこと』
ああ、と彼は顔を上げる。
『忘れていたんじゃない?』
「いや、覚えていたよ」
『嘘つき』
彼女はそう言って、口元を上げた。目を細めた。まぶしそうにこちらを見た。
だけど、その表情は彼が見る初めてのものだった。
「…マルタ?」
『判っては、いたんだけど』
「ちょっとあなた」
『資料、送るわ。またね』
止める間もなく、彼女は通信を切った。ふと、椅子を回そうとしたが、動かない。後ろにオリイが、椅子の背に腕を乗せて、体重を掛けていた。そしてその腕を解いて、くっ、と彼の首に回す。
かろん、と音がして、資料が届いたと知らせる。
「彼女、どうしたの?」
オリイは訊ねる。ああそうだ、彼女は。鷹は気付く。
彼女が自分のことを思っていることは知っていた。
だが仕方が無いのだ。
彼女が自分のことを思っていることは知っていた。身体の関係だけでなく、それ以上も欲しがっていることも。ただいつもかわしていた。そして彼女もその彼の姿勢を知っていた。だから踏み込まなかった。
踏み込んでも、仕方ないと、そう感じていた。お互いに。それでいいと思っていた。無意識に、そうしていた。だからいつか別れると、それは判っていたのだけど。
ねえ、と相手は答えをねだる。ああ、と彼はうなづく。
「ふられちゃったんだよ」
ふぅん、とオリイは素っ気なく言った。
そしてやってきた資料をモニターの上に置く。「本物の」シェドリス・Eの母親についての資料のはずだった。今となっては、何かそれもどうでもいい様な気もしなくはない。だがせっかく彼女が揃えてくれた資料ではあるし、何かにならないとは限らないので、鷹はざっと目を通した。
「あれ?」
すると、背後で声がした。どうした、と彼は首だけ振り向く。相棒はこれ、と彼の肩越しにモニターの一部分を指さした。
「何お前、この名前に」
「それ、見たことある」
え? と彼は今度は身体ごと振り向いた。読めない表情が、そこにはあった。
「何処で見たんだ?」
「ディックの日記」
「悪い奴め」
そう言って、鷹はくっと笑う。そしてくしゃ、と相棒の髪に手を差し入れる。手に髪が、絡みつく。ああ、やっぱり夢ではなかった。今更の様に、彼は実感する。そして決してそれは、悪い感触ではない。
「日記ではなくて、日誌じゃないのか?」
「似てる」
確かにそうだが。とにかくディックの最近の行動範囲にあった名前らしい。
「ディックは会ってる。そのひとに。でもディックはそのひとがシェドリスの、ってことは知らない」
「とすると? 何でディックはその女性に会ってるんだ?」
「彼女が立ち退かなかったから。地雲閣から」
ちょっと待てよ、と鷹はそこでオリイの言葉を制した。
何かが、もう少しで解けそうな気がする。
「……ディックは、地雲閣でその女性に会ったんだよな? その時、彼は一人だったか?」
オリイは黙って首を横に振る。そして付け足す。
「シェドリスと」
「何で、その女性は立ち退かなかったんだ?」
「娘を待ってるから。シェドリスはそのひとに、探すと言って連れ出した。今は現場監督の家」
よくそんなことまで覚えていたものだ、と彼は感心する。そんなことは、大して今の状況には必要であるてと思わなかったろうに。
だが、ふと今何かをあっさりと聞き逃したような気がした。
「ちょっと待ってオリイ、今、娘を待ってるって言ったな?」
相棒はうなづく。
「息子の間違いじゃないのか? アナ・Eには子供はシェドリスしかいないはずだよ? マルタそう書いてる」
オリイは首を横に振る。
「娘」
そう言ったら絶対にそうなのだろう。ちょっと待てよ……
鷹は額に手を当て、軽く目をつぶると、幾つかの物事を、頭の中で整理し始める。数分その状態を続けたのち、ぱっと目を開く。
そして勢いよく相棒の手を取ると、彼は立ち上がった。
「行くよ」
*
幾つかの路面電車を乗り継いで、二人は高い建物と低い建物がごちゃごちゃと建ち並ぶ街へと飛び降りた。
石畳の道路を、彼等は早足で通り過ぎる。湿った風が、二人の横を通り過ぎる。通り過ぎ、そして舞い上がる。オリイは髪を押さえる。
それを見て鷹はふっと笑うと、手早く後ろでその髪を緩く編んだ。そしてその端をオリイに持たせると、こう言った。
「そこの雑貨屋で、似合う止め紐を買ってやるよ」
彼が指さす先には、赤い中華文字で「雑貨屋」標準アルファベットで「Drugstore」と書いてあった。
扉を開けると、そこにはやはり、気難しそうな顔で、ホッブスが新聞を読んでいた。入ってきた客にも、顔一つ上げない。鷹は眉を片方上げる。そしてレジスターの上にどん、と手を置いた。何だね、とホッブスはまだ新聞から目を離さない。ったく店を片手間でやってる奴は。
「リボンは無いかな」
「リボン?」
そしてやっと顔を上げ…… 次の瞬間、店主はひどく嫌そうな顔になった。
「またお前か」
「今日は客だよ。リボンとか髪紐とか綺麗なゴムって無いのかな?」
「……また女をたぶらかしおって」
そう言いながら新聞を椅子の上に置き、よっこらしょと声を掛けて立ち上がった時、彼は目を大きく見開いた。
「どうしたの。こいつに似合う髪紐が無いかなあ?」
鷹の斜め後ろで、編んだ髪の端を前に回し持ったオリイがそこには居た。ホッブスは身体が凍り付くのを感じた。
「……お、おま、おまえ……」
「綺麗な髪でしょ? ねえ君、そう思わない?」
ぐい、と鷹はホッブスに詰め寄る。中腰だった男は、そのままよろよろと、それまで座っていた椅子に倒れ込んだ。そして鷹はレジスターに拳を叩き付けた。ふらり、と一瞬ためらうかの様に機械はその身体を震わせると、床にその身をひるがえした。
がしゃん、という音が、客のいない店内に大きく響き渡る。中のコインが、高い音を立てて、その場に広がった。
「つ、連れて来ないとお前、言っただろう……」
「嘘つきには、約束も無効になるんだよね」
「う、嘘つきだと?」
ぐい、と彼はレジの落ちたあとのカウンターの上に身を乗り出す。
「ようやく糸がつながった。まさかこんなところに端っこがあったとはね」
「……何のことだ」
「娘と息子を間違えちゃいけないよ。D伯の子供のシェドリス・Eは男じゃない。女だ」
「何故貴様それを……」
「あいにく俺は君より頭がいいんだよ」
ちら、鷹は横を見る。オリイはまだ三つ編みの端を持ったままふら、と店内を眺めている。何か考えるところがあるのだろうか?
「ひょんなことから、シェドリスの母親を見つけてね。何があったんだか、ちょっとばかり記憶のつながりがおかしくなってる。その彼女が待ってるのは、『娘』だ。息子じゃない」
オリイが言った断片をつなげ、多少の脚色を加えて彼は言った。そう間違ってはいないだろう、と彼は思う。目の前のホッブスの顔はこわばったままだ。
「シェドリス・Eはここに当初来たのか?」
店主は押し黙る。鷹は同じ言葉をもう一度繰り返した。
「……来た。ひどく懐かしげな顔をして、わしの前にやってきた」
「無論君は、それが偽物だと知っていたな。そうだろう。同じ黒髪薄青の目でも、君の死っているシェドリスは少女だったはずだ。青年になっている筈がない。それとも性転換したとでも思ったか?」
とことこと、オリイはそう広くも狭くもない店内をあちこち歩き回る。ホッブスがそれを目で追っているのが鷹には判る。おかしい、と彼は思う。まるで何かを隠したがっているかの様だ。
「そしてディックのことを切り出したろう? 幼なじみに一度会っておくといいとか」
「いや違う、それは奴が」
言ってから、ホッブスは途中で言葉を切った。
「なるほどそれは君が言う前から、彼を知っていたという訳だね。まあいいさ。シェドリスを名乗る彼の思惑は判った。問題は、君だよホッブス」
「……だからわしが何を」
「具体的なことはよくは判らないさ。だけど、君がそんな顔をして、未だに現役の戦争屋であることは、よぉく俺にも判ったってことだよ!」
その時、店の中に、大きく風が巻き起こった。