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第17話

 数日が経過し、日南が「幕開け人」の仕事に慣れてきた頃だった。

 スマートフォンの着信音で目を覚ました日南は、寝ぼけまなこのまま惰性だせいで画面を操作してびっくりした。

 北野からのメッセージだ。そこには「シロウサギ復活!」との、喜びあふれる文面があった。

 スクロールすると添付画像が表示される。いつか高橋に見せてもらった、ライブ中の写真だ。不自然に空いていた真ん中のスペースに、端正な顔立ちのボーカルが写っていた。その横には赤い髪のギタリストの姿もある。

「戻った……本当に戻ってきたんだ」

 事実を口に出してみると、日南は嬉しさを隠しきれなくなって飛び起きた。

 急いで朝のルーティンを済ませ、トーストをかじりながら北野へ返信する。

「今日もよろしくな」

 あえてバンドのことには触れなかった。喜びは北野と会った時に分かち合えばいい。

 スマートフォンをテーブルへ置き、今日はどんな物語が始まるだろうかと考える。自然に頬がにやけていた。

 しかし日南が楽しい気分でいられたのは、ほんの数分だけだった。北野からの返信が彼をどん底へ突き落とした。

「今日は外に出ない方がいいかもしれない。シロウサギは有名なロックバンドだから影響が大きい。もしかしたらもう彼らに気づかれてるかも」

「もしかして消されるのか?」

 おそるおそる返信を打ち、日南は一気に不安な気持ちになる。返信はすぐに来た。

「わたしは大丈夫だけど、日南さんは消されるだろうね」

 かじりかけのトーストをそっと皿へ置いた。スマートフォンを手にしたまま、日南は頭を抱えてうなだれる。

「展開が早ぇよ……」

 覚悟していたことではあるが、思っていたよりも早くこの日が来てしまった。

 無性に悲しく虚ろな気持ちになって、日南はため息をついた。するとまたスマートフォンがメッセージを受信した。

「すぐそっちに行くから部屋で待ってて。絶対に外に出ちゃダメだからね」

 北野の心強い言葉に少しだけ気持ちを明るくしながら、日南は「分かった」と返信した。


 朝食の後、日南は久しぶりにパソコンを起動させた。

 スキルマーケットサイトを開いてみると、七篠洋子との取り引きが復活していた。以前に見たのと同じ画面に安堵し、あちらの物語も順調に再生していることを実感する。そのうちに娘の初子も戻ってきて、無事に依頼を終えられるだろう。

 そこまで考えたところで、何だか急に力が抜けてしまった。北野がいつ来るか分からないため、それまで退屈である。

 椅子の背に体をもたれ、何気なく天井を仰ぐ。――そうだ、小説を書いていなかった。

 思い出した直後、日南は自分がどんな小説を書いていたのか、分からないことに気づく。記憶をたどるが思い出せない。

 何故だろうと考えて、北野に会う以前から毎日、白紙の画面ばかり見ていたのを思い出す。そうだ、ずっとそうだった。

 日南梓は二作目の執筆に行き詰まり、ずっとそこで時が止まっていたのだ。物語の住人である日南は、季節が変わらないことや編集者からの連絡が途絶とだえていることに気づかず、ずっと同じ毎日を繰り返していた。

 あらためて非現実的な事象の中にいたことを自覚し、絶望的な気分になる。頭が真っ白になって、つぶやかずにはいられなかった。

「理不尽だ……」

 直後、玄関のチャイムが鳴った。北野だ。

 日南は慌てて姿勢を戻してから立ち上がり、「はいはーい」と声を返しながら駆け足で玄関へ向かう。

 狭い土間に裸足のまま片足だけ下ろし、かけていた鍵を外して扉を開ける。

「早かった、な……」

 外にいたのは見知らぬ細い男だった。髪を暗い赤色に染めており、前髪はアシンメトリーでやんちゃっぽい顔つきの青年だ。

 戸惑う日南へ男はにこりとわざとらしく微笑んだ。

「日南梓さんですよね?」

「え、ええ、そうですけど」

 直感が危険だと告げていた。しかし扉を閉めようにも、男が隙間に片足を入れているせいで動かせない。

「よかった。さっそくだけど、この世界が虚構だってことは知ってますよね?」

「虚構……?」

 言われてみればそうだと思ったが、日南の頭はうまく回らなかった。ただ体のどこかで警告が発せられている。逃げ出せ、梓。

 男は微笑んだままで「嫌だなぁ。自分がフィクションだってことですよぉ」と、返す。

 フィクション、それもたしかだ。日南は物語の中の登場人物なのだから。

「お、理解したっぽいな」

 表情の変化を見てとったのか、男がふと笑うのをやめた。

「まったく、面倒なルールだよなぁ。上の連中は温情だって言うけど、物語の中の登場人物だってことを自覚させてからでないと消せないんだぜ?」

「お、お前が『幕引き人』なのか?」

 震える声で日南がたずねると、男は両目を細めた。

「そういうあんたはどっかの誰かさんにそそのかされて、『幕開け人』になっちゃったらしいじゃん? マジ面倒なんですけど」

「お前……まさか、オレを」

 やばいやばいやばい。逃げろ逃げろ逃げろ。

 男はふと真顔になると、低い声でたずねた。

「それ以外に何があるって?」

「っ……!」

 日南はとっさに背中を向けて部屋の中へ逃げた。しかし男はすぐに追ってくる。

往生際おうじょうぎわが悪いな。まあ、暇つぶしにはなるか」

 奥の部屋まで逃げる日南だが、それ以上先には行けない。ここは五階だ、窓から飛び降りる勇気なんて日南にはない。

「と思ったけど、狭い部屋だなぁ。おい、作者に文句言ったらどうだ? もっと広い部屋にしてくれてたら、逃げ回れたのにって」

 日南の腰がパソコンデスクにぶつかって身動きが取れなくなる。にやにやと笑いながら、男が一歩一歩と近づいてくる。

 誰か助けに来てくれと、心の中で願っても無駄だった。分かっているのに、日南は願わずにはいられなかった。

「さて、もういいか? いいよな?」

 男は片手を後ろへ回すと、一瞬にして大きな鎌を取り出した。死神が持っているような、いかにも恐ろしい鎌だ。

「死ね」

 慣れた様子で両手に持ち、振り上げる。

 日南は思わず腰が抜けてその場に座り込んだ。大きな刃が自分目がけて振り下ろされるのを、どこか冷めた気持ちで受け入れる。

 ――ああ、されるってこういうことなのか。

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