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第3話 相合傘



 高原市内にある高級住宅街。


 ひときわ広い敷地をもつ三階建ての邸宅では、一か月ぶりに帰ってきた家主が、バスルームで鼻歌を響かせていた。


 ガラス張りになった天井からは朝の陽光が降りそそぎ、窓からは秋色に染まった庭の樹々が眺められた。


「♪寿々さん、寿々さん、逢いたいな~♪」


 上機嫌のまま念入りに身体を洗い流し、浴槽に浸かり目を閉じると、瞼の裏に浮かぶのは、


寿々照大神すずてらすおおみかみ様……」


 実家での修練中、いつもそう呼んでいた、現人神・蓬莱谷寿々の御姿だ。


 首の薄皮が一枚つながった一か月前。その夜から今朝まで。


 左近之丞は、これまでの不規則な生活習慣を改め、何かと問題の多い言動を改善するために、実家である北御大社に身を寄せたわけだが、そうしなければならない理由は、もうひとつあった。


 つぎに会うまでの一か月間。寿々からは、手紙と切り絵、メッセージを禁じられてしまい、それを固守するためには、代用となる何かしらの抑止力が必要となったのだ。それが父と、ふたりの兄たち。


 まあ、よくやってくれた方だと思う。


 後半の二週間は、身体を動かしていないと手紙を書きたい、メッセージを送りたいなど、禁断症状があらわれそうで怖かったので、奥院に集まってきた悪霊や魍魎たちを祓いまくり、ヤツラがいなくなれば、父や兄たちを相手にフラフラになるまで修練を積んだ。


 おかげでますます霊力があがり、これまで以上に霊を引き寄せてしまう体質になってしまったが、寿々との約束を守れたので、それは良い。


 湯に浸かりながら左近之丞は、ふたたび寿々を思い浮かべた。


 檜扇ヒオウギの種子のように黒く美しい射干玉ぬばたま色の艶髪は1センチほど伸びただろうか。ピンクベージュだったネイルは、何色に変わっただろうか。


 寿々に関することなら完全記憶に近い能力を発揮する左近之丞は、一か月前に会ったときの寿々の服装からアクセサリー、ヘアスタイル、ネイルに至るまで、鮮明に記憶していた。


 ちなみにそれは映像だけにとどまらず、会話も同様である。とくに一字一句たがえずに記憶しているのは、これも首の薄皮一枚つながった前回。


 夜の公園で、正式に「お友だち」となったあと、次に会う約束について話していたとき。


「ちょうど一か月後。お互い都合が悪くなかったら、十一月の第一週の土曜日に会うというのは、どうかな?」


「無論、異論ありません!」


「それじゃあ、待ち合わせ場所は……近くなったら、わたしから連絡するね」


「はい。わかりました!」


「ああ、それから……わたしもこんな感じで話すから、北御門さんも、もっと気楽に話してね。あっ、そうだ、わたしも名前で呼んでいい?」


「えっ、名前?」


「キタミカドさんって長いから、左近之丞さん……それも長いな。苗字より文字数が多いのか」


 指を折りながら「サコンノジョウ、7文字だ」と、寿々に呼び捨てにされた左近之丞は、数分前に背中を触れてもらって、すでに色々と昂っていた節操なしの下半身が、ふたたび荒ぶりそうになったので、霊力によって無理やり捕縛。定位置に縛りつけた。


 当然、うっすら目尻に涙が滲むほどの痛みを伴ったが、寿々に軽蔑されるよりは百倍マシだった。


 しかし涙ぐましい左近之丞の努力もむなしく、


「そうだ、左近さんでもいい? ほら、サコンなら三文字だから」


 左近──まるで家族のように、親しみ込めて寿々が呼んできたので、左近之丞の下半身は霊力による捕縛を突破。節操なくコンマ一秒で荒ぶった。


 もう、こうなればと、


「あのっ! それなら僕の希望をいってもいいでしょうか」


 荒ぶる勢いのまま、左近之丞は願いでた。


「いいけど、なに?」


「できれば、さっくん──と」


 真理愛の彼氏が電話で「たっくん」と呼ばれるのを聞いていた左近之丞は、とても羨ましかった。


「えーっ! いきなりそれは無理だって」


「では、コンちゃんではどうでしょうか?」


 残念ながら、どちらも無理だと断られたが「それなら」と代案を提示された。


「その間をとって、くん付けで『左近くん』でいい? 年上に君付けするのも可笑しいけれど、もともと奇天烈で奇怪おかしいから、まあいいか」


「ぜひ、それでお願いします!」


 これは、八割勝ちの勝利だった。


「左近くん──かあ。いってみるものだなあ」


 浴室のガラスは、蒸気で薄く曇っていた。左近之丞は指先で、相合傘を描く。

傘の下にはもちろん──寿々さん、さっくん。


 いつの日か、と夢は広がる。


 会えない辛さがつのった一か月だったけれども、決して悪いことばかりではなかった。


 修練をして、以前のように身体も引き締まったし、規則正しい生活で精神面も鍛え直したから、これでひとまず、寿々さんを前にして粗相をはたらくこともないだろう──と、安心しきった矢先だった。


 湯に浸かる左近之丞は、何の気なしに自分の下半身を見て驚愕した。


 湯の中で、己の分身がそそり立っている。


 なぜ──実家暮らしをしていたこの一か月、こんなことは一度もなかったのに、と思い返してハッとなる。


 一度もなかったからだ。


 一度もなかったゆえに、処理も何も必要なかったのだと。


 まずい。まずいぞ。


 本日は『お友だち』として会う、大事な初日である。


 急いで浴槽から上がって処理を開始した左近之丞だったが、薄曇りの窓に描かれた相合傘が目に入ってしまう。それを見て、また下半身が猛りだす。


「ああ、ダメだ、消さないと!」


 しかし、消そうと思って手を伸ばしても──寿々さん、さっくん──が、なかなか消せない。そして視れば見るほどに、分身は節操なしに猛る。


「ああクソっ、最悪だ! おい、わかってんのか、首の皮一枚なんだぞ! 鎮まれ、馬鹿野郎がっ!」


 湯水のように口から放たれる悪態。


 結局、そう簡単に左近之丞の性根は矯正されないのであった。








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