高原市内にある高級住宅街。
ひときわ広い敷地をもつ三階建ての邸宅では、一か月ぶりに帰ってきた家主が、バスルームで鼻歌を響かせていた。
ガラス張りになった天井からは朝の陽光が降りそそぎ、窓からは秋色に染まった庭の樹々が眺められた。
「♪寿々さん、寿々さん、逢いたいな~♪」
上機嫌のまま念入りに身体を洗い流し、浴槽に浸かり目を閉じると、瞼の裏に浮かぶのは、
「
実家での修練中、いつもそう呼んでいた、現人神・蓬莱谷寿々の御姿だ。
首の薄皮が一枚つながった一か月前。その夜から今朝まで。
左近之丞は、これまでの不規則な生活習慣を改め、何かと問題の多い言動を改善するために、実家である北御大社に身を寄せたわけだが、そうしなければならない理由は、もうひとつあった。
つぎに会うまでの一か月間。寿々からは、手紙と切り絵、メッセージを禁じられてしまい、それを固守するためには、代用となる何かしらの抑止力が必要となったのだ。それが父と、ふたりの兄たち。
まあ、よくやってくれた方だと思う。
後半の二週間は、身体を動かしていないと手紙を書きたい、メッセージを送りたいなど、禁断症状があらわれそうで怖かったので、奥院に集まってきた悪霊や魍魎たちを祓いまくり、ヤツラがいなくなれば、父や兄たちを相手にフラフラになるまで修練を積んだ。
おかげでますます霊力があがり、これまで以上に霊を引き寄せてしまう体質になってしまったが、寿々との約束を守れたので、それは良い。
湯に浸かりながら左近之丞は、ふたたび寿々を思い浮かべた。
寿々に関することなら完全記憶に近い能力を発揮する左近之丞は、一か月前に会ったときの寿々の服装からアクセサリー、ヘアスタイル、ネイルに至るまで、鮮明に記憶していた。
ちなみにそれは映像だけにとどまらず、会話も同様である。とくに一字一句
夜の公園で、正式に「お友だち」となったあと、次に会う約束について話していたとき。
「ちょうど一か月後。お互い都合が悪くなかったら、十一月の第一週の土曜日に会うというのは、どうかな?」
「無論、異論ありません!」
「それじゃあ、待ち合わせ場所は……近くなったら、わたしから連絡するね」
「はい。わかりました!」
「ああ、それから……わたしもこんな感じで話すから、北御門さんも、もっと気楽に話してね。あっ、そうだ、わたしも名前で呼んでいい?」
「えっ、名前?」
「キタミカドさんって長いから、左近之丞さん……それも長いな。苗字より文字数が多いのか」
指を折りながら「サコンノジョウ、7文字だ」と、寿々に呼び捨てにされた左近之丞は、数分前に背中を触れてもらって、すでに色々と昂っていた節操なしの下半身が、ふたたび荒ぶりそうになったので、霊力によって無理やり捕縛。定位置に縛りつけた。
当然、うっすら目尻に涙が滲むほどの痛みを伴ったが、寿々に軽蔑されるよりは百倍マシだった。
しかし涙ぐましい左近之丞の努力もむなしく、
「そうだ、左近さんでもいい? ほら、サコンなら三文字だから」
左近──まるで家族のように、親しみ込めて寿々が呼んできたので、左近之丞の下半身は霊力による捕縛を突破。節操なくコンマ一秒で荒ぶった。
もう、こうなればと、
「あのっ! それなら僕の希望をいってもいいでしょうか」
荒ぶる勢いのまま、左近之丞は願いでた。
「いいけど、なに?」
「できれば、さっくん──と」
真理愛の彼氏が電話で「たっくん」と呼ばれるのを聞いていた左近之丞は、とても羨ましかった。
「えーっ! いきなりそれは無理だって」
「では、コンちゃんではどうでしょうか?」
残念ながら、どちらも無理だと断られたが「それなら」と代案を提示された。
「その間をとって、
「ぜひ、それでお願いします!」
これは、八割勝ちの勝利だった。
「左近くん──かあ。いってみるものだなあ」
浴室のガラスは、蒸気で薄く曇っていた。左近之丞は指先で、相合傘を描く。
傘の下にはもちろん──寿々さん、さっくん。
いつの日か、と夢は広がる。
会えない辛さがつのった一か月だったけれども、決して悪いことばかりではなかった。
修練をして、以前のように身体も引き締まったし、規則正しい生活で精神面も鍛え直したから、これでひとまず、寿々さんを前にして粗相をはたらくこともないだろう──と、安心しきった矢先だった。
湯に浸かる左近之丞は、何の気なしに自分の下半身を見て驚愕した。
湯の中で、己の分身がそそり立っている。
なぜ──実家暮らしをしていたこの一か月、こんなことは一度もなかったのに、と思い返してハッとなる。
一度もなかったからだ。
一度もなかったゆえに、処理も何も必要なかったのだと。
まずい。まずいぞ。
本日は『お友だち』として会う、大事な初日である。
急いで浴槽から上がって処理を開始した左近之丞だったが、薄曇りの窓に描かれた相合傘が目に入ってしまう。それを見て、また下半身が猛りだす。
「ああ、ダメだ、消さないと!」
しかし、消そうと思って手を伸ばしても──寿々さん、さっくん──が、なかなか消せない。そして視れば見るほどに、分身は節操なしに猛る。
「ああクソっ、最悪だ! おい、わかってんのか、首の皮一枚なんだぞ! 鎮まれ、馬鹿野郎がっ!」
湯水のように口から放たれる悪態。
結局、そう簡単に左近之丞の性根は矯正されないのであった。