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第18話 半人半妖



「おい、紙きれヤロウ。おまえ、コイツに憑きたいらしいな」


 柵から吊るした悪霊〈海原伊央吏〉を、左近之丞は霊力でユラユラと揺らした。揺れる亀甲縛り。


 片手で口元を押さえているけれど、たまらず寿々からは「くううっ」と声が漏れた。


 結界の有無はともかく。神楽殿の外側であっても、変わらず霊体の質量は保たれているようで、揺れるたびに悪霊〈海原伊央吏〉の肢体は責め苦を受けていた。 そのつど悩ましげな息づかいが聞こえてきて、視覚的にも聴覚的にも刺激が強い。


 しかし、たとえどんなに目のやりどころに困っても、その痴態から寿々は目を逸らせない。いや、逸らすものかとガン見する。


 目の毒ほど、目の保養。


 凝視する先では転移術が発動しているものの、左近之丞に睨まれる形となった呪いの紙蝶は、転移先である悪霊〈海原伊央吏〉に近づけないでいた。


 あっちにヒラヒラ、こっちにヒラヒラと舞いつづけ、なんとか近づこうと試みているのだが、左近之丞が黙ってそれ見ているはずもなく、脅しのように右手にボウッと青白い炎をつくってみせた。


「嘘だろ……鬼火じゃないか」と、本気で驚く禮子。


「鬼火? あれも左近くんの霊力なの?」


「……さて、さて、わたしもはじめてみるからね。ちょっと待って、ちょうだいよ」


 紫瞳が輝き、霊視がはじまった。


「どう、禮子さん?」


「……どうも、こうも、ないね。どんな術式か知らないけれど、鬼火アレはたぶん、悪霊からじかに引っ張り出した呪気だね。悪霊が持つ妖力の一種なんだけど」


「そんなことできるの?」


「ふつうはできない、というよりも、良識的な呪術師はしようと思わない。あんな非常識なことをできるとなると、いよいよもってあのバカは、半人半妖の域だよ」


 半人半妖──ますますアニメのキャラクターらしくなってきた左近之丞は、悪鬼のごとく鬼火をメラメラさせて、紙蝶を脅している。


「ほら、来いよ。その羽が鬼火コイツで燃えるかどうか、試してやるから」


 伊勢崎を苦しめていた『呪い』は、悪霊〈海原伊央吏〉に近づけば鬼火に燃やされ、下に逃げれば水鳥に追い立てられる。


「あの式神にとっては、どちらも天敵だろうね。水で紙が濡れれば、飛べなくって水面に落ちる。水っていうのは、むかしから穢れを流す力があるからね。雛祭りだって、もとは穢れを祓う厄除けの儀式で、紙でつくった雛人形を川に流すだろう。かといって、あの半妖に近づけば……」


『祓い』と『水』の関係について禮子が話している途中だった。


「目ざわりだ。燃えろ。落ちろ」


 鬼火によって片羽を燃やされた蝶が、水面に落ちていく。


吐普加身依身多女トホカミエミタメ 祓い給い、清め給え……」


 泉に沈んでいく蝶を見ながら、禮子は繰り返し唱えた。


「伊勢崎さんの呪いは、これで呪詛師に送り返されたよ」


 呪詛師に依頼するほど伊勢崎に執着している同僚の問題はまだ残っているけれど、ひとまずこれで伊勢崎を悩ませてきた呪縛からは解放された。


 よかったね──と、声をかけようと振り返った寿々は、言葉を飲み込むように口をつぐんだ。


 台座に座る伊勢崎の視線は、水面に沈んでいった呪いの紙蝶よりも、神楽殿から逆さ吊りにされ、顔が露になった親友に向けられたままだった。


 まだ「よかったね」とは、いえない。


 伊勢崎にとっては、味覚異常に身体の痛み。どちらも『呪い』以上に長く苦しめられてきた元凶がいま、視線の先に吊るされているのだから。


 バイク事故で海原伊央吏が命を落としたのが高校一年のときであれば、同級生のふたりは、およそ十年ぶりの再会となる。


 よく見れば、海原伊央吏の左眉にはたしかに、昨夜、禮子がいっていた傷痕があった。あれも、中学時代に伊勢崎をかばってできた傷のひとつだったはず。それは伊勢崎からも見えているだろう。


 複雑だろうなと思う。


 悪霊になってしまったとはいえ、生前、怪我や事故から自分をかばってくれた親友は、死後も呪詛師の『呪い』に抗ってくれていた。


 しかし海原伊央吏が憑きさえしなければ、伊勢崎は長年に及ぶ味覚異常や身体の痛みに苦しむことはなかったはずだ。


 逆さ吊りされていた悪霊〈海原伊央吏〉が、神楽殿へとゆっくりと引き上げられていく。


「伊勢崎さん、このまま除霊をしてもいいけど、その前に少し話してみるかい?」


 禮子の言葉に伊勢崎は「そうします」と、すぐに立ち上がった。


「それじゃあ、橋を渡って神楽殿にいくといい。ただし、さすがに悪霊とふたりきりにはさせられないから、あの男はそばにいるからね」


 あの男とは、緊縛師・左近之丞のことだ。


「わかりました」


 奥宮に着いてすぐ、左近之丞と話すために寿々が渡った橋を、今度は伊勢崎が渡っていく。


 水際にいる寿々からは、下半身の緊縛は解かれた悪霊〈海原伊央吏〉が、神楽殿の舞台中央に座らされているのが見えた。


 首の結び目から伸びる色縄の先端は、角柵に腰を下ろしている左近之丞の右腕に、いまも巻き付いている。


 橋を渡り、舞台にあがった伊勢崎は躊躇なく中央へ向かい、悪霊〈海原伊央吏〉の前に腰をおろした。


 寿々からは、伊勢崎の背中しか見えないけれど、前かがみになった姿勢で少し震えているから、もしかしたら泣いているのかもしれない。


「諸行無常。仏教のありがたい経典を引用するなら、死を受け入れられないと、こうなるんだよ。死してなおも苦しむ」


 数多の霊と対峙してきた禮子が、生者でも死者でもない霊の存在を嘆いた。


「生きることを当たり前に思っているから、突として訪れる死を受け入れられない。死を受け入れないからを抱く。を抱きつづければ安楽は訪れない。憑いた方も憑かれた方も苦しみつづけるのさ」


 言葉にされると、さすがに重たかった。


 死んでも死にきれないほど好いた相手に、苦痛を与えつづけた男。


 命を救ってもらった相手に、苦痛を与えつづけられていたと知った男。


ままならない人の世の十年も、その苦しみを与えているとわかりながら離れられない霊の十年も、決して短くはないからね」


 親友〈海原伊央吏〉と話すことを選んだ伊勢崎が、いま何を思っているのか。寿々にはわからない。


 ただ、最期にふたりで話すことで、伊勢崎の心が少しでも晴れたらいいなと、寿々は願った。


「……うっ、うううっ、ううくくぅぅぅ」


 嗚咽が聞こえてきたのは、そのあとすぐだった。


 神楽殿の方かと思ったけれど、くぐもった音の出どころはかなり近い。


 出どころを探せば、草地に両膝をつき「も、護彌ぁ……」と、辛抱たまらずむせび泣く七福がいた。






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