左近之丞の真言ラッシュに、悪霊〈海原伊央吏〉は防戦一方となっている。
「こうなるともう、騒々しいのは我慢するしかないね」
あきらめた禮子が、「さてと、お清めからするよ」と伊勢崎の方へ向き直り、『呪い返し』の準備に入ろうとするも、伊勢崎もまた神楽殿の方を食い入るように見つめたまま、禮子の言葉はひとつも耳に入っていなかった。
そのため「まったく、どいつもこいつも……」と、たっぷりの粗塩を手にした禮子から、またもや額をズリズリ、ゴリゴリされて、
「――ッタアア! グッ、つうぅぅッ……痛いッ!」
悶絶した。
「
集中力を高めた禮子が、寿々の聞きなれた
「
粗塩まみれになっている伊勢崎の額に手をあてた禮子は、そのまま『呪詛返し』に入る。
「しかしくま、つるせみの、いともれとおる、ありしふゑ、つみひとの、のろいとく」
受けた呪いを返す、呪詛返しの秘言。
禮子が唱えた呪文から数秒後だった。伊勢崎の足元から黒い影のようなものが這い出てきた。
それほど大きくはない影は、伊勢崎から切り離されるとさらに小さくなり、ついには黒ずんだ紙片となった。汚れてみえるのは、表面の墨字が滲んでいるからだった。
「
「ほらね、だいぶ綻びかけているだろう。伊勢崎さんの悪霊に抗われて一年以上、不完全な呪いの状態だったからね。相手の呪術師は術式が完全に解かれて、さぞかし慌てているだろうねえ」
そういっている間に、紙片はくすんだ色の蝶になり、ヒラヒラと舞い上がっていく。
「転移術が発動したらしい。ほら、転移先を探しているだろう」
上に下へ。右に左へ。ヒラヒラ、ヒラヒラ。
行き場のない紙蝶は、迷いながら舞いつづける。
念のためにと、寿々と叶絵、七福には、禮子から強力な魔除けの護符が渡されている。万が一にも転移される心配はない。
使役する式神・水鳥を呼んだ禮子が命じる。
「少し追い立ててやりな」
草地をヒラヒラとしていた紙蝶は、あきらかに上位の式神に追われ、泉へと逃れていく。羽を広げた水鳥が水面を叩いて水飛沫をあげると、今度は水を厭がるように、より高く舞い上がった。
そのまま呪詛師の元へ行くかと思った紙蝶は、あきらめ悪くヒラヒラ、フラフラと水面を旋回し、今度は神楽殿の方へ。
そこには『呪詛返し』をされたときの転移先となっている悪霊〈海原伊央吏〉がいるが、寿々たちが持つ護符の数倍強力な結界に守られている神楽殿には、目隠しの隠形術が掛けられ、左近之丞もいるので大丈夫だろうと、寿々の視線は蝶を追い、自然と神楽殿に向いた――その瞬間、唖然となった。
「あの……バカ男!」
「い、いおり……がっ!」
おなじく禮子と伊勢崎も絶句した。
すでに勝負のついた
しかも逆さ吊りで、その縛り方が……
亀甲縛りいいいぃぃぃぃぃ!
叫ぶ寸前で寿々が口元を押さえたのには、理由がある。
亀の甲羅を模した亀甲紋様は、長寿吉兆の象徴として大変縁起が良く、神聖なものだ。
それなのに、灰色の襤褸の上から縛り上げられた大柄な体躯というのは……どうしてもこうも卑猥なのか。
しかもっ! しかも、であるっ!
荒縄がわりにした霊力の縄は、青い光を放つ鎖だったはずなのに、いまは……まさかのショッキングピンクで、形状も変化して、鎖から色縄にかなり近くなっている。
そのため、猥褻性は倍増。
さらに天地が逆さなので、悪霊〈海原伊央吏〉の前後左右を包囲していた長髪はすべて逆立ち、毛先は水面に達している。それまでベールにかくされていた素顔が、遮るものなく晒された。
悪霊というぐらいだから、世にも恐ろしい形相を想像していた寿々。しかし意外にもその面差しは優しげだった。加えて、あらわになった耳から首元までが、真っ赤に染まっていて、どうみても悪霊〈海原伊央吏〉は羞恥心を覚えている。
寿々が思わず口元を押さえたのも、これが理由だった。
悪霊相手に奇怪しい話ではあるけれど、これ以上の辱めを与えてはならないような気がした。
しかし神楽殿には、この恥辱を与えた本人が、またしても片脚を柵にかけ、縛り上げた悪霊を見下ろしていた。
「悪霊ごときがジタバタしやがって! つぎ、歯向かったら水責めだ。そのときは大股開きにさせて、その襤褸も全部ひっぺがしてやるからな!」
さらなる恥辱を加えようとする緊縛師・左近之丞。
いったい何から、指摘したらいいの?
鎖の色? 逆さ吊りのこと? それとも、やっぱり縛り方についてか?
いや、それよりなにより、柵から吊るしているとはいえ、神楽殿の外側に悪霊〈海原伊央吏〉がいても大丈夫なのだろうか。
さっきまで声援をおくっていた叶絵も七福も、この光景にはさすがに言葉を失っている。
「いや、ちょっと鬼畜キャラすぎない?」
「サコンノスケ……そこまでは、だれも求めていないんじゃ……」
呆れ果てた禮子の声が聞こえてきた。
「あの馬鹿は……とうとう、真言につづいて忍の縛道まで使えるようになったのかい」
「しのび?」
亀甲縛りは忍術なのかと寿々が訊き返すと、
「いいかい、寿々ちゃん。あんなのに興味を持つんじゃないよ」
しっかりと釘をさしてきた禮子。
「一見、バカバカしい緊縛術だけどね、あれほど正確無比な霊力操作は視たことがない。おまけに重力まで制御している。本当に、才能の無駄使いだよ」
この緊縛術は、霊力の縄に忍術を組み合わせた左近之丞のオリジナルらしく、霊力操作としては最高難易度らしい。
「あれを陰陽頭がみたら、また怒り狂うだろうね。まったく……なにひとつ、ふつうにできやしなんだから」
神楽殿にて、ありあまる才能の無駄遣いを披露している左近之丞は、
「おい、こら、紙切れ。目の前でヒラヒラしやがって」
今度は、逃げまどう紙蝶に矛先を向けていた。
それを見て、寿々は思った。
結局のところ結界などなくても、左近之丞のそばにさえいれば、呪いの式神は転移などできないのではないかと。