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第17話 亀甲縛り・ピンク



 左近之丞の真言ラッシュに、悪霊〈海原伊央吏〉は防戦一方となっている。


「こうなるともう、騒々しいのは我慢するしかないね」


 あきらめた禮子が、「さてと、お清めからするよ」と伊勢崎の方へ向き直り、『呪い返し』の準備に入ろうとするも、伊勢崎もまた神楽殿の方を食い入るように見つめたまま、禮子の言葉はひとつも耳に入っていなかった。


 そのため「まったく、どいつもこいつも……」と、たっぷりの粗塩を手にした禮子から、またもや額をズリズリ、ゴリゴリされて、


「――ッタアア! グッ、つうぅぅッ……痛いッ!」


 悶絶した。


悪霊あれは、あの男にまかせておきな。こっちはこっちで、はじめるよ」


 集中力を高めた禮子が、寿々の聞きなれた祓詞はらえことばを唱えはじめる。


吐普加身依身多女トホカミエミタメ 寒言神尊カンゴンシンソン 利根陀見リコンダケン 波羅伊玉意ハライタマイ 喜余目出玉キヨメデタマウ……」


 粗塩まみれになっている伊勢崎の額に手をあてた禮子は、そのまま『呪詛返し』に入る。


「しかしくま、つるせみの、いともれとおる、ありしふゑ、つみひとの、のろいとく」


 受けた呪いを返す、呪詛返しの秘言。


 禮子が唱えた呪文から数秒後だった。伊勢崎の足元から黒い影のようなものが這い出てきた。


 それほど大きくはない影は、伊勢崎から切り離されるとさらに小さくなり、ついには黒ずんだ紙片となった。汚れてみえるのは、表面の墨字が滲んでいるからだった。


人形ひとがたの式神だね」と禮子。


「ほらね、だいぶ綻びかけているだろう。伊勢崎さんの悪霊に抗われて一年以上、不完全な呪いの状態だったからね。相手の呪術師は術式が完全に解かれて、さぞかし慌てているだろうねえ」


 そういっている間に、紙片はくすんだ色の蝶になり、ヒラヒラと舞い上がっていく。


「転移術が発動したらしい。ほら、転移先を探しているだろう」


 上に下へ。右に左へ。ヒラヒラ、ヒラヒラ。


 行き場のない紙蝶は、迷いながら舞いつづける。


 念のためにと、寿々と叶絵、七福には、禮子から強力な魔除けの護符が渡されている。万が一にも転移される心配はない。


 使役する式神・水鳥を呼んだ禮子が命じる。


「少し追い立ててやりな」


 草地をヒラヒラとしていた紙蝶は、あきらかに上位の式神に追われ、泉へと逃れていく。羽を広げた水鳥が水面を叩いて水飛沫をあげると、今度は水を厭がるように、より高く舞い上がった。


 そのまま呪詛師の元へ行くかと思った紙蝶は、あきらめ悪くヒラヒラ、フラフラと水面を旋回し、今度は神楽殿の方へ。


 そこには『呪詛返し』をされたときの転移先となっている悪霊〈海原伊央吏〉がいるが、寿々たちが持つ護符の数倍強力な結界に守られている神楽殿には、目隠しの隠形術が掛けられ、左近之丞もいるので大丈夫だろうと、寿々の視線は蝶を追い、自然と神楽殿に向いた――その瞬間、唖然となった。


「あの……バカ男!」


「い、いおり……がっ!」


 おなじく禮子と伊勢崎も絶句した。


 すでに勝負のついた神楽殿リングには、左近之丞によって捕縛された悪霊〈海原伊央吏〉がいた――が、なぜか柵から吊るされていた。


 しかも逆さ吊りで、その縛り方が……


 亀甲縛りいいいぃぃぃぃぃ!


 叫ぶ寸前で寿々が口元を押さえたのには、理由がある。


 亀の甲羅を模した亀甲紋様は、長寿吉兆の象徴として大変縁起が良く、神聖なものだ。


 それなのに、灰色の襤褸の上から縛り上げられた大柄な体躯というのは……どうしてもこうも卑猥なのか。


 しかもっ! しかも、であるっ!


 荒縄がわりにした霊力の縄は、青い光を放つ鎖だったはずなのに、いまは……まさかのショッキングピンクで、形状も変化して、鎖から色縄にかなり近くなっている。


 そのため、猥褻性は倍増。


 さらに天地が逆さなので、悪霊〈海原伊央吏〉の前後左右を包囲していた長髪はすべて逆立ち、毛先は水面に達している。それまでベールにかくされていた素顔が、遮るものなく晒された。


 悪霊というぐらいだから、世にも恐ろしい形相を想像していた寿々。しかし意外にもその面差しは優しげだった。加えて、あらわになった耳から首元までが、真っ赤に染まっていて、どうみても悪霊〈海原伊央吏〉は羞恥心を覚えている。


 寿々が思わず口元を押さえたのも、これが理由だった。


 悪霊相手に奇怪しい話ではあるけれど、これ以上の辱めを与えてはならないような気がした。


 しかし神楽殿には、この恥辱を与えた本人が、またしても片脚を柵にかけ、縛り上げた悪霊を見下ろしていた。


「悪霊ごときがジタバタしやがって! つぎ、歯向かったら水責めだ。そのときは大股開きにさせて、その襤褸も全部ひっぺがしてやるからな!」


 さらなる恥辱を加えようとする緊縛師・左近之丞。


 いったい何から、指摘したらいいの?


 鎖の色? 逆さ吊りのこと? それとも、やっぱり縛り方についてか?


 いや、それよりなにより、柵から吊るしているとはいえ、神楽殿の外側に悪霊〈海原伊央吏〉がいても大丈夫なのだろうか。


 さっきまで声援をおくっていた叶絵も七福も、この光景にはさすがに言葉を失っている。


「いや、ちょっと鬼畜キャラすぎない?」


「サコンノスケ……そこまでは、だれも求めていないんじゃ……」


 呆れ果てた禮子の声が聞こえてきた。


「あの馬鹿は……とうとう、真言につづいて忍の縛道まで使えるようになったのかい」


「しのび?」


 亀甲縛りは忍術なのかと寿々が訊き返すと、


「いいかい、寿々ちゃん。あんなのに興味を持つんじゃないよ」


 しっかりと釘をさしてきた禮子。


「一見、バカバカしい緊縛術だけどね、あれほど正確無比な霊力操作は視たことがない。おまけに重力まで制御している。本当に、才能の無駄使いだよ」


 この緊縛術は、霊力の縄に忍術を組み合わせた左近之丞のオリジナルらしく、霊力操作としては最高難易度らしい。


「あれを陰陽頭がみたら、また怒り狂うだろうね。まったく……なにひとつ、ふつうにできやしなんだから」


 神楽殿にて、ありあまる才能の無駄遣いを披露している左近之丞は、


「おい、こら、紙切れ。目の前でヒラヒラしやがって」


 今度は、逃げまどう紙蝶に矛先を向けていた。


 それを見て、寿々は思った。


 結局のところ結界などなくても、左近之丞のそばにさえいれば、呪いの式神は転移などできないのではないかと。





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