拓朗と二人、滔滔と昔話に花を咲かせ、アパートに帰り着いた頃にはもう十一時を回っていた。なごみはアパートの部屋の前で寿を待っていた。
いくら中身は大人でも身体は小学一年生、この時間帯まで起きているのは辛いはずで、垂れた頭がうつらうつらと動いている。近づく寿の足音に気付いてハッと顔を上げた。
「遅い!」
第一声は、それだった。子どもっぽい膨れっ面に、寿はつい苦笑する。
「危ないだろ、外で待ってちゃ。だいたい風邪でも引いたらどうすんだよ」
「平気だよ、そんな季節じゃないし」
「油断禁物。いいから、中入るぞ」
なごみの小さい背中を押すようにして部屋に入る。なごみは早速主婦の顔になってせかせかと忙しく立ち働く。半ば習慣で夕食の用意をしようとするのを寿が手のひらで制した。
「ご飯はいい、飲んできたから」
「そうなの? あ、本当だ。お酒臭い。もう、遅くなるなら連絡してよ」
「ごめん……あのさ、俺、拓朗に会ったんだ」
背伸びして寿の背広をカーテンレールにかけようとするなごみの手が止まる。無垢な子どもの瞳が大きく見開かれた。
「拓朗って、あの拓朗さん!? この間メジャーデビューした!?」
「そう、その拓朗。偶然、そこでバッタリと」
「すごいじゃない! それで? どんな話をしたの!?」
「……拓朗がどれだけ大きくて、そして俺がどんなにちっぽけか、って話」
しばらく、二人とも何もしゃべれなかった。寿は脱力してベッドの上に腰掛け、畳の目に目を当てていた。なごみは重そうに大きな背広を抱えたまま、見つからない言葉を探していた。
「俺さ、考えてみたら、ずっと逃げてただけの気がするんだよな」
「逃げてただけ?」
「そう。俺は、自分の親や周りの奴らみたいに、平凡な道を歩みたくなかった。いずれ自分がつまらない大人になるんだって事実を、どうしても受け入れられなかった。だから、音楽に逃げた。夢を追いかけるって言葉を借りて」
なごみはそんなことないよとも、寿は真剣に夢を追いかけていたよとも、言ってやれなかった。寿の心は既に結論を導き出している。自分なんかの一言に、惑わされそうにない。
「音楽に走ったのが逃げなら、音楽を捨てたのも逃げなんだ。いつまでこんな生活続けるんだろうって焦りとか、さっさと音楽なんか諦めて就職しろって親に責められるのとか、そういうのから逃げたんだ。そんなんだから今でもダメなままなんだよな、俺。しっかりしろって、なぁごがわけのわからない箱に願いをかけるくらい」
「寿、それは……」
「いいんだよ。俺がダメダメなのは、本当だし」
寿のこんなに悲しい顔を見たのは初めてだった。五年前、ついに夢を諦め、ギターを捨てた時だって、寿はこんな顔はしなかった。一方で、ついに寿は大人に向けての大きな一歩を踏み出したのだと、そんな気もした。
「俺になくて拓朗にあったのは、才能でも運でもない。本気で夢を追いかける力、音楽が好きだって気持ちそのものなんだ。それがなかったから、俺は拓朗に負けた」
「……」
「俺、本当言うとなぁごにも嫉妬してた」
「わたしに?」
なごみの声が軽く裏返った。寿が拓朗に嫉妬するならともかく、自分なんかに嫉妬するなんて、今の今まで思いもしなかった。
「なぁごは夢を叶えたじゃん、俺と違って。欲しかったものを手に入れて、やりたいことをやれている」
「あのね、夢が叶うのだっていいことばっかりじゃないんだよ。いくらずっとやりたかった仕事だって、大変なこといくらでもあるし……」
「それでもなぁごには、自分は夢を叶えて大人になれたんだって自信があるんだろ? その気持ちにしっかり支えられてるから、頑張れるんだよ」
なごみにはもう何も言葉が残っていなかった。寿の言うことは間違っていない。今自分にできるのは、慰めることでも励ますことでもない。すっかり打ちひしがれてしまった彼の側に、ただいてやることだけなのだ。
「俺、もっとちゃんと考えてみるよ。今回のことを機に、自分の生き方ってやつを」
「それって……まさか仕事辞めるとか言わないよね?」
「それはしない。今辞めても、次がないし。それにもしなぁごがずっとこのままだったら、お前の進学の費用だって俺が払わないといけないから」
「寿……」
進学。寿は既にそこまで考えていたのだ。なごみの考えの及ばないところに、いつのまにかたどり着いている。寿が自分より三歳年上だったことを、なごみは今さらながらに実感した。
「とにかく、今日からまた新しくスタート切るような気持ちで、頑張ってみる。大丈夫、なぁごに心配かけることは絶対しない」
「……」
「じゃ、風呂入ってくるわ」
明らかに無理をして笑って、腰を上げた。風呂に別々に入ることは、既に二人の間の暗黙のルールになっていた。
一人になってから、なごみも少し考えてしまった。自分の生き方をちゃんと考える、新しくスタートを切る気持ちで……寿はいったい、どんなやり方で新たなスタートを切るつもりなのだろう?