今澤が再び寿のアパートを訪れたのは、その次の日だった。なごみがキッチンで夕食の支度をし、寿がリビングでテレビを見ながらぼうっとしている時に、チャイムが鳴った。ドアの向こうに現れた顔を見て、なごみも寿もつい「ぎょっ」とした。
悪い予感が二人の頭を同時に過ぎった。
「すいません、また突然お伺いしてしまって。この間、あなたの連絡先を聞くのを忘れたものだから……」
「あ、そういえば。えっと、とにかく上がってください」
この前と同じように、炬燵テーブルを挟んで男二人が向かい合う。なごみが麦茶を運んできた時、彼らの間には肌を刺すような空気がぴんと張り詰めていて、寒気に似たものを覚えた。今澤がなごみについと視線を向け、七歳の細い肩がびくんと震えた。
「堀切なみちゃん、だっけ」
「あ、はい」
「これからするのは大人の話だ。向こうの部屋に行ってなさい」
「あ、はい……わたし、向こうで夕ご飯の支度、してます」
そうは言ってみても、もちろん目の前の作業に全然集中できなかった。野菜の下ごしらえをしながらも、耳はしっかり隣の部屋の音を窺っている。上の空になっていたせいで、なごみには珍しく何度か指を切り落としそうになった。
「津幡さんはまだ、入院されているんですか?」
「え? あ、はい……その、相変わらず、面会謝絶で……」
「堀切さん」
なごみの包丁を持つ手が止まる。隣室の緊張感が、寿の心臓の高鳴りが、壁を通して小さな身体に伝わってくる。
「そろそろ、本当のことを話していただけませんか」
今澤はそう言った。もちろん見えてはいないが、なごみの瞼の裏に顔を固まらせている寿の姿が浮かんだ。そのなごみも完全に硬直しているのだが。
まさか今澤は、津幡なごみに起こった信じられないことの真相に気付いたとでもいうのだろうか?
「津幡さんは、入院してなんかいない。そうですね?」
「えっとそれは、あの」
「誤魔化さないで下さい。これは緊急事態でしょう」
終わった、と思った。今にも包丁を取り落とし、床に崩れ落ちそうな自分をなごみは必死で支えた。正体がばれてしまったら、何が起こるかわからない。これから自分はいったいどうなるのだろう。
実験動物のように檻に入れられ、学者たちの好奇の目に曝される七歳のなごみ。いつか頭に浮かべたイメージが、蘇ってくる。
「津幡さんは、失踪されたんですね?」
次に出てきた今澤の言葉になごみは引っくり返りそうになった。おそらく今澤と対峙している寿も同じだろう。
「彼氏のあなたも知らないうちに、突然に行方をくらましてしまった、どこかへ行ってしまった……そうではありませんか?」
「あ、あ、はい、そうなんです。本当に俺もわけがわからなくて、心配していて……」
寿がとりあえず話を合わせている。なごみは心から安堵のため息をつき、額に浮いた汗を手首で拭って、包丁を握り直した。よくよく考えたら、理性的な今澤がこんな突飛な結論にたどり着くわけがない。大人が魔法をかけられて子どもになるなんて、ありえないことなのだ。自分だって未だに少し、信じられていない。
「きっと、よほどのことがあったんでしょう。津幡さんは仕事も何もかも放り出して突然消えてしまう、無責任な人間ではありません。私たちはまったく彼女の異変に気付けませんでした……堀切さんは何か、思い当たることはありませんでしたか? こんなことになりそうな兆候とか」
寿は鈍い頭を一生懸命回転させた。今はとにかく話を合わせることだ。
「兆候、ですか……特に、なかったと思います。ほら、あいつ、心配事とかあっても、あまり人に頼らないで、自分で解決しようとする性格だから……」
「確かに、そういうところはあったかもしれませんね」
納得した顔で頷く今澤に、寿の内心がささくれ立つ。お前はただのなごみの上司じゃないか、なごみの何を知っているのだ。この自分のほうが、八年間も付き合ってきた恋人のほうが、彼女のことをお前なんかよりよほど知り尽くしている……そう言ってやりたかった、本当は。
「それで、捜索願は出されましたか?」
「え……出してませんけど」
「なんで出さないんですか」
急に今澤の声が尖り、寿はいきなり露になった相手の怒りに戸惑う。驚いたように見開かれた寿の目が鋭敏な今澤の神経をより刺激したらしく、今澤は説教めいた口調でまくし立てた。
「特に家出の兆候はない、変わった様子は一切見られなかった。となれば、犯罪に巻き込まれた可能性だってあるでしょう。あるいは事故、例えばひき逃げとか」
「……」
「あなたはそういう考え方はできないんですか」
「え、いや、その……」
咄嗟にいい言葉が浮かばなかった。捜索願も何も、本当のなごみは今ここに、すぐ隣の部屋にいるのである。でもまさかそのことを今澤に説明するわけにもいかない。うろたえるばかりの寿に、今澤の声が一層低くなった。
「あなた、それでも津幡さんの恋人ですか」
「……」
「こんなことはあまり言いたくはありませんが、あなたには大人の自覚が欠けているというか、思慮が浅く軽率なところがあるような気がします。二度お会いしただけの私に言われたくはないでしょうが、二度会っただけでもはっきりそのことがわかるんですから、本当でしょう」
「……」
「とにかく、捜索願は今すぐに出すことです」
ぎろり、という擬音に相応しいすごみの効いた睨みときつい一言を残し、今澤は寿のアパートを退散していった。残された寿は今澤に食らったカウンターパンチが思いのほか効いていて、畳の上にへたり込んだまま立ち上がれない。
「大丈夫、寿?」
キッチンで一部始終を聞いていたなごみが、心配そうに寿の顔を覗き込む。まるで母親に叱られて、父の膝の上で慰められながら諭される子どもの頃の自分みたいだな、と寿は思う。
「うん、平気……なんか、今澤さんに叱られちゃったよ」
「気にすることないよ。捜索願出してないのは当たり前で、今澤さんは何も事情を知らないんだから」
「でも、あの人が言ったことは当たってる。思慮が浅いとか軽率とか」
数秒、苦い沈黙があった。寿はなごみがそんなことないよ、と言ってくれるのを、心のどこかで期待していた。しかしなごみは少し悲しそうに寿を見つめているだけだった。
「とにかく早く夕飯、作って」
「あ、うん……」
寿が沈黙を終わらせた。大人用の長すぎるエプロンを揺らしながら、なごみがキッチンへ駆けていく。