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第九章 失った青春と大人の現実(3)

「この度は本当に、どうもすいませんでした」



 寿とさよりが同じタイミングで頭を下げる。腰から折り曲げ、声を合わせ、込められるだけの誠意を全身に込めて。しかし緊迫した空気はちっとも緩まず、下げたままの頭にマグマのような熱い苛立ちが降ってくる。



「別にね、うちはミスしたことを責めているんじゃないんだよ。こんなくだらんことをやらかしたあんたんとこの、仕事に対する意識が問題なんじゃないかと言いたいんだ。だからこんなものもらったって何の解決にもなんないんだよ、君」



 霜枯れした草原のような禿げ頭から湯気を立ち上らせた相手は、いかにも腹立ちが収まらないというように、机の上の、寿たちが持ってきた菓子折りを、叩き潰さんばかりの勢いでバシバシとやる。


この男はどうして仕事のことでここまで怒れるのだろうと寿は思った。きっと本当は、大して腹なんか立っていない。おそらく家で妻に邪険にされ、思春期の娘に粗大ゴミ扱いされ、溜まったストレスをこんな形で発散させているだけだ。



「申し訳ありません、過剰にお届けした分はすぐ引き取らせていただきますので……」


「当たり前だよそんなことは! あんたたちが余計に送ってきた分のコピー機で、こんな状態だよ、見てみなさい! これじゃあ仕事にならない!!」



 今にも火が噴き出しそうな真っ赤な顔で男が背後を指し示すと、その手が早速コピー機に当たり、痛っと呻き声が上がった。


狭いオフィスの壁をずらりと占拠した新品のコピー機は、明らかに仕事の邪魔をしている。立ち働くOLたちも進路を塞ぐコピー機の列に戸惑っているようだ。



 なごみにああは言ったものの、寿はまったく「新しいスタート」というやつを切れていなかった。それどころか本当に初歩的な、ものすごくくだらないミスをやらかした。


十台の注文だったコピー機を、どう目が狂ったのか0をひとつ付け加え、百台も相手方に送りつけてしまったのである。



 さよりは今にも殴りかからんばかりの怒号を寿に浴びせかけた後、寿を連れて会社を出た。これほど足の重い道中はなかった。何せわざわざ怒られに向かうのである。自分のやったこととはいえど、当然気は進まない。


そして相手は案の定、カンカンだった。そしてコピー機に壁際を占領されたオフィスはひどく狭苦しかった。



「まったく、君はいったい何を考えてるんだ!? わたしは自分のためじゃなくて、君のために怒ってるんだよ、君のミスひとつのせいで、うちのあんたの会社への信頼が地に落ちたんだよ、そのことわかってるのかい!?」



 ゆでだこのような、あるいは千鳥足の酔っ払いのようなひどい顔色で中年男は寿に迫る。先刻さんざんさよりに言われたのと、寸分違わぬことを言われていた。ミスをしたこちらの会社のことまで心配されるとは。寿の隣のさよりは、屈辱に顔を強張らせている。



「君も見たとこ、もう新入社員って歳じゃないだろう!? いつまでも甘ったれてるから、こんなことになるんだ! 君一人のせいでそっちの会社も、うちのところも、君の隣の綺麗な上司だって迷惑してるんだ!! 本当にわかってるのかい!?」


「わかってます、すいません」

「あー、何!? よく聞こえないねぇ」



 嫌みったらしい言い方で、寿の口に耳を寄せてくる。これでは目上の者の若者に対する説教、というやつを超えて完全に嫌がらせだ。半分やけになった寿が声を張る。



「わかってます、本当にすいませんでしたっ」



 喉に力が入った分、つい乱暴な言い方になった。それがかさついた神経に障ったらしく、「ゆでだこ」がぴくりと眉を持ち上げる。寿がまずいぞ、と思った時にはもう遅い。


 しかし今度は「ゆでだこ」はターゲットをさよりに変えてきた。



「ええと、副島さんとか言ったね? どうしようもないねぇ、この若造」

「本当にすみません、後でわたしからよく言って聞かせますので……」



 「ゆでだこ」の目が三角形に歪み、その端っこに邪悪な光が窺えた。



「いやもう、この人のことはいいよ、救いようもないし。それで本題に入るけれど、こんなことがあった以上、やっぱりうちとしてはそちらとの取引は、今後一切お断りせざるを得ないよねぇ」


「本当にすみません、今後再発防止に努めますので、どうかその件は前向きにご検討のほどを……」



 平身低頭に徹し続けるさよりの全身に、「ゆでだこ」の邪悪に濁った目が走る。肩から胸へ、胸から腰のラインへ、そしてタイトスカートからすらりと伸びた脚へ。若い娘のようなはち切れんばかりの瑞々しさはないが、その身体はまだ十分に女としての価値を留めている。「ゆでだこ」は明らかにその価値を値踏みしていた。



「ご検討を、か。うーん、どんなもんだろうねぇ。そちらが勝手にミスしておいてそんなことを言うのは、ちょっとムシがいいんじゃないのかねぇ」



 さっきまで怒りを全身から発散させていた「ゆでだこ」の態度が急に柔らかくなった。しかし顔は赤いままだ。怒ってるから赤いのではなく、もともと赤ら顔なのかもしれない。



「そこを何とか、どうぞよろしくお願いします」


「どうぞよろしく、かぁ。うーん、そうだねぇ。副島さん、もしあなたが今夜、ちょっと二人っきりで付き合ってくれるって言うなら、考えてやってもいいんだけどねぇ」



 おそらく、さよりよりもむしろ寿のほうが動揺していた。どう考えても、セクハラだ。それもここまで露骨に。しかもミスしたこちらの弱みを握るとは、やり方が汚い。



「すみません、そういったことはちょっと」

「何? できないっていうの? こんな汚いオヤジはお断りだって?」

「そんなことは申し上げておりません」


「じゃあ、付き合いなさいよ。付き合えないっていうんだったら、今後一切、あんたんとことの取引はナシよ?」

「お願いします、それだけはどうか……」



 寿は気付いていた。さよりは一見ポーカーフェイスだが、その横顔は今にも崩れそうだ。怒りたいのや泣きたいのや、自分の感情を必死で抑え、大人として背負った責務の重さだけでどうにか自分を支えている。よく見ないとわからないほど小刻みに震えている肩に、汚らわしい手が触れた。



「やめて下さい……!」

「何だい、逆らうのかい? 副島さんのせいでうちというお得意先がひとつ、ダメになっちゃってもいいのかなぁ。そしたら困るのはそっちだろう」

「申し訳ございませんでした!!」



 さよりの口が文字通りあんぐりと開いた。「ゆでだこ」の三角の目が丸くなった。オフィスを行き交っていた全員が時間が止まったかのごとく静止した。


 気がつけば寿は床に蹲り、少し前に嵐と大風がしたように、床にその頭をこすりつけていた。実際、自分でも何をやっているのかよくわかっていなかった。とにかく必死だった。



「本当に申し訳ございません! ミスをしたのは俺です、悪いのは俺です、だから責任は全部俺に取らせて下さい!!」

「……」

「副島さんは一切、関係ありません!!」



 支離滅裂な言葉が口を突いては雲散霧消していく。まったく現実感がなかった。自分は本当にいったい何をやっているのだろう。


***


 同じ頃、なごみは小学校の帰り道だった。定められた通学路を千瀬と花鈴と萌乃、四人ではしゃぎながら帰る。途中、たっぷり寄り道しながら。道端に咲いた小さな花、ツツジの葉で羽を休める蝶、落ちていたビービー玉。小学一年生の好奇心を刺激するものがこんなにも町に溢れていることに、いつもなごみは驚く。



「じゃあね、なごみちゃん、バイバーイ!」

「うん、バイバイ!また明日!!」



 子どもらしく元気に手を振って、足取りも軽く駆け出す。そこの角を曲がればもう、アパートだ。千瀬たちと別れた途端、なごみの頭は小学一年生モードから大人モードへと切り替わる。帰ったら早速洗濯物を取り込まなくては、今日の夕飯は何にしよう? 昨日は肉だったから、今日は魚だろうか。


 勢いよく角を曲がると、アパートを見上げて立っている男の姿が見えた。見かけない顔の中年男性が昼間から一人、まるで監視でもしているようにアパート前の路地に佇んでいる。警戒心が頭を擡げ、駆け足をやめて慎重に歩いた。男がこっちを向いた。


 なごみの足が止まった。男の目がゆっくりと見開かれた。



「お父さ……」



 語尾を何とか飲み込んだ。その一言をはっきり口に出すわけにはいかなかった。


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