ちゃらんぽらん社員の寿が入社して五年、初めて家に仕事を持ち帰ってきた。しかも今日は本来なら存分に息抜きが出来るはずの土曜日。しかし朝から寿愛用のVAIOはずっと働き続けている。そして寿の指もカタカタと、滑らかによく動く。
「寿くん、よかったら飲んでくれ」
「あ、ありがとうございます」
悪いなぁと思いつつ、なごみの父が淹れてくれたコーヒーのマグカップに口をつける。普段はもっぱら緑茶派で、コーヒーを淹れることに慣れていないのだろう。やたらと薄いインスタントコーヒーだった。
「なんかすいません、本当なら東京見物とか、俺がいろいろ連れ出してあげなきゃいけないんですけど」
「いやいいよ、休日はどこも混んでるし、それに仕事なんだから仕方ない。それより寿くん、そろそろなみちゃんを迎えにいったほうがいいんじゃないかい」
父親が顎をしゃくって壁の時計を示す。時刻はもうすぐ六時。蛍光灯を点けていない八畳間はそろそろ青い闇に浸されてきていた。夏のことでまだ明るいとはいえ、七歳の子どもをいつまでも外で遊ばせておくのはまずいだろう。寿は一旦VAIOの電源を落とし、パソコンの前から腰を上げた。座りっぱなしだったので腿が鈍く痛む。
昼間の熱気が少し緩み、涼しささえ感じる風がアスファルトの上を撫でていく。夕方の住宅街の路地には、そこかしこに犬を散歩させる人の姿があった。
老人に繋がれた主と同じぐらいのよぼよぼの柴犬、品のいい婦人に連れられて歩く服を着たテリア、子どもにリードを握られているゴールデンレトリバーは、どっちが散歩させられているのかわからない動きで寿たちの目の前を横切っていく。
犬のハッハッという健康的な息遣いときれいなピンク色の舌が、なぜか目についた。
「可愛いねぇ」
「そうですね」
ゴールデンレトリバーのことを言っているのか、子どものことを言っているのかわからない。彼女の父親と娘の彼氏という微妙な関係にしては、二人の仲はうまくいっているほうだと思う。しかし今日に限って父親は無口で、従って寿も話題に詰まる。気まずい時間が彼らの間を流れていった。
幸い、なごみたちが遊びに行った運動公園はアパートから歩いて十分もかからない距離にあったので、気詰まりな時間は長くは続かなかった。芝生の上ではフリスビーに興じる若者や保険のCMにでも出てきそうな幸福そのものに見える親子連れに混じって、はしゃぎ回るなごみたち四人の姿があった。
女の子にしては走ったり飛んだり、時にはキックやパンチの真似事をしたり、随分荒っぽい遊び方をしている。「ミラクルキック!」とか「ミラクルビーム!」とかいう言葉が聞こえてくるあたり、いつかなごみが話題にしていた幼稚園から小学校低学年の女の子に人気のアニメ、「ミラクルプリンセス」ごっこでもやっているんだろう。
それにしても、千瀬たちに混ざって遊ぶなごみは楽しそうだ。中身が二十七歳にもなる大人の女だなんて、まったく思えない。本当に無邪気で純粋無垢な、七歳の少女の顔になっている。
「ったくあいつら、しょうがねぇな。完全に時間を忘れて遊びまくってる」
ミラクルプリンセスの世界に夢中の少女らは、近づく寿と父親に気付かない。四人と男たちの間隔が五メートルほどにまで縮まったところで、寿の足が止まった。彫りが深めの浅黒い顔から一気に血の気が引いていった。その寿の斜め後ろで父親も立ち止まる。こちらはごく自然な動きで。
「なごみちゃん、ずるーい! ミラクルピンクは必殺ミラクルアタック使えないんだよぉ」
「え、そうだっけ? なんで? 主人公なのに必殺技使えないの?」
「だってミラクルピンクだけ、まだミラクルクリスタル手に入れてないもん。今その話やってるじゃあん」
「そっか。ごめんごめん」
花鈴はまだぶすっとしていて、なごみが必死に謝っている。どこにでもある、ごく普通の子どもたちの光景。しかしそれは決定的な瞬間でもあった。
「あの、お父さん……」
寿がゆっくり振り向いた。父親は不思議なほど穏やかな顔で、淡い微笑すら浮かべて、ミラクルプリンセスになりきる娘とその友だちを眺めていた。
「ちょっと前から気付いていたよ。なごみちゃん……堀切なみちゃんが友だちからそう呼ばれるのを聞いたのは、これが初めてじゃない」
「あの、なんて言えばいいのか、その……」
寿はどうしようもなくうろたえていた。この場をどうやって切り抜けるべきか、必死に考えても何ひとつ方法が浮かんでこない。彼女が寿の姪っ子の堀切なみという架空の人物などではないことに、この父親はとっくに気付いているのだ。どんな言葉を使っても、この場を誤魔化すことは寿にはできそうになかった。
「お父さん、実は……実はその……」
「わかっているよ」
「……」
「あれは、なごみだろう……?」
少し遠くでまた「ミラクルビーム」が発射された。まともに食らった「ミラクルイエロー」役の千瀬が大袈裟なリアクションで芝生に転がる。普段は協力して敵と戦うはずのミラクルプリンセスたちが、なぜか仲間同士で戦っている。妙ちきりんな設定だが、誰一人として気にしていない。
「親だから、わかるよ。あの子は間違いなくなごみだ、なごみそのものだ。他人の空似なんかじゃない。顔かたちも、しゃべり方も、仕草も、なごみだ」
「……」
「こんな考え方をするのは非常識かもしれないが、どうしてもそうとしか思えないんだ」
言い切ってから、ふうと大きく息を吐いた。寿とあまり背丈の変わらない彼が急に小さく縮んだように見えた。半世紀以上の人生の疲れが、いっぺんにこの人の肩に伸し掛かってきたみたいだった。
「あの子はいつから、あの状態なんだ……?」
「ここ一ヵ月半ぐらいでしょうか……俺も最初は信じられなかったんですけど、本人の話によると……」
怪しい占い師、パンドラの箱、魔法としか呼べないような超常現象。そんな言葉を並べても父親は一度も眉を顰めなかった。ただ黙って、寿の長い話を聞いていた。
その穏やかな沈黙が、寿には怖い。怒られるのでは、という怖さじゃない。むしろ、彼の心が傷ついて血を流すことを恐れた。もちろんその傷は寿によってつけられたものではないが、この父親は確実に傷ついたはずだ。大事な娘に起こった人生最大のピンチと、そしてそれを知ることすらなくいた今までの自分に。
「あの子はね、七歳の頃に母親を亡くしてるんだ」
寿の話が終わった後、父親は一言一言を振り絞るように言った。寿には随分唐突に聞こえた。この父親はいったい何を言おうとしているのだろう。
「下に三人も弟と妹がいて、一番下の子なんてまだ一歳だった。なごみは七歳にして、三人の子どもの母親に、身体の小さな大人にならなくてはいけなかった」
「……」
「本当になごみには苦労をかけたよ。まだ小学生の頃から家事の一切を任せきりで、遊びたい年頃だろうに可愛そうな思いをさせてしまった。習い事ひとつさせてやれなかった。東京に出て行くと決めた時も、費用は自分でバイトをして稼いだんだ」
「偉いですね。二十五まで親に仕送りもらってた俺とは、大違いです」
「偉くなんかないよ。子どもの仕事は料理や掃除や洗濯や、母親業じゃない。遊ぶことだ」
寿は改めて、千瀬たちと駆け回る小さな恋人の姿を見た。七歳らしい澄んだ瞳。世間の厳しさも大人としての苦労も何ひとつ知らないような、無邪気な笑顔。
大人であった頃、なごみは寿の前でこんな安心しきった顔をしたことがあっただろうか。かつての彼女はいつも何かに追い立てられ、神経が張り詰め、切羽詰っていたような気がする。
「寿くん、大人になるにはどうすればいいかわかるかい?」
「……わかりません。俺も最近、一生懸命考えてるけど……わからないんです」
「大人になる方法はただ一つ。子どもを精一杯やること。それだけだよ」
一陣の風が吹いて、なごみたちの背後に立つシイの木が、黄色く枯れた葉を何枚か地面に落とした。少女たちの鈴を転がすような甲高い笑い声がまた起こった。
寿はふいに思った。なごみが子どもの姿になったのは、本当に怪しい占い師の魔法のせいなんだろうか。子どもを精一杯やることができないまま、無理やり大人にされてしまったことへの後悔。子ども時代に対するやむことのない
なごみ自身が潜在的にその内側に抱えていたそういったものが、こんな非常識事態を生んだのかもしれない。
「寿くん。君はこれからどうするつもりだい?」
父親の口調が突然重くなった。
「どう、って……」
「なごみとこのまま、一緒に居続けるつもりかい? そうだとしたら、いろいろな面で大変だよ。あの子が成長し、進学することになったら、それなりの費用もいる」
「……」
「もっともわたしがあの子を田舎に連れ帰ったところで、あと三年で定年退職の身だ。いつまでちゃんと面倒を見てやれるかわからないが……」
「俺が、やります」
力強い声だった。握り締めた二つの拳から決意が溢れていた。
たった今、この瞬間で寿は決意した。
「俺に任せて下さい。俺となごみさんを、このままずっと一緒にいさせて下さい」
「……」
「お金のこととか、きっと俺が思ってる以上に大変だと思います。でも絶対途中で投げ出したりなんかしません。あいつがまた大人になるまで、俺は……」
「よく言ったね、寿くん」
父親の顔が中央からそっと崩れた。老いて窪んだ目が少しだけ潤んでいるように見えた。安心から出た、心からの笑顔だった。
「よく決意してくれた、ありがとう」
「……」
「なごみを、頼んだよ」
「あれー? あそこにいるのなごみちゃんのお父さんと、おじいちゃんじゃなぁい?」
千瀬の声がして、少女たちの注目が一斉に寿と父親に集まる。なごみは千瀬たちと一緒に息を弾ませて駆けてきた。無邪気そのものの表情から察するに、まさか自分の正体が父親に見破られているとは思ってもいないだろう。
「おーい君たち、空をよく見てみなよ。もう帰る時間だぞー」
「本当だ。どうしよ、遅くなったってママに怒られちゃう」
「みんなの家まで、おじちゃんたちが送っていってあげるよ。その前にこれから帰るって、一言連絡したほうがいいな。はい、スマホ。自分ちの電話番号、わかる?」
「わかる! ありがとうございまーす」
小学一年生の可愛らしく礼儀正しい返事に、寿の頬もつい緩む。なごみの視線と父親の視線がかち合った。寿の姪と、寿の彼女の父親。この複雑な関係の演技を、二人はまだ続けなくてはいけない。
「なみちゃん、どうだい? ピクニックは楽しかったかな」
「はい! すっごく楽しかったです」
満面の笑みでなごみは答える。父親は嬉しそうに悲しそうに、そんな娘の姿に目を細める。なぜか寿のほうが泣き出したい気持ちになっていた。
東の端から少しずつ夜が押し寄せてきていた。