久しぶりのデートだった。デートといっても傍から見れば仲のいい父と娘にしか見えない二人なのだが、本人たちにとっては立派な恋人同士の時間である。なごみは遠足前の小学生のように(いや実際今は小学生だ)、前の晩からはしゃいでいた。
原宿は二十代も半ばを過ぎたカップルにとっては、手を繋いで歩くのになかなかの抵抗を覚える街だ。なんせ、周りは圧倒的に若者が多い。
109ブランドの服で全身を固めた女子中学生のグループ、休日なのになぜか制服姿の女子高生たち、人形のようなメイクとフリルたっぷりの服に身を包んだゴスロリ娘。小学生姿のなごみはいいとして、今年三十を迎える寿にしてみればどうしても恥ずかしい。
確かに自分は結婚をしていないし子どもも持っていない故、同年代の連中に比べれば若く見える。それでも周りを歩いている若者たちから見れば、明らかにオジサンだ。
「それじゃあ結果的にプレゼン、大成功したんだ?」
「大成功中の大成功だよ、最優秀賞で俺の企画が採用されたんだから。で、来週から新製品を出すための新しい部署が出来るんだ、各課から選りすぐった人材による、ね。俺がそこの若きリーダー」
「すごいじゃない、寿!」
口の周りをクリームで真っ白にしながらなごみが興奮気味に叫び、寿は得意そうに微笑む。原宿名物のクレープを屋台で買い、中高生に混じって道の端に座って食べながらする話としては、仕事のことはあまり相応しくないかもしれない。しかし寿は八年も付き合ってきた恋人に対してやっと誇らしい報告をすることができ、なごみは自分のことのようにそれを喜んだ。
寿の目は十代の頃、音楽の夢を胸に携え東京に出てきた時の輝きを取り戻していた。
「俺、ちょっと心、入れ替えようと思う」
「それってどういう意味?」
「今まではどうせ好きじゃない仕事だし、興味も持てないし、適当にやって生活が成り立てばそれでいいと思ってた。でも俺、今回のことで気付いたんだ。別に好きじゃなくても興味が持てなくても、必死で仕事やるって、気持ちいいなって。頑張って認められるのって、すげぇいいことだなって」
なごみの小さな胸に、普通の七歳児は絶対持つことのない、名前のつけられない感情が湧き上がってきた。女はその母性でもって、どうしても男を育てようとする。
なごみにとって長い間寿は育てる対象であり、自分が守り教え導いていかなければならない雛鳥のようなものだった。しかし今雛鳥は立派に成長し、自分の翼で飛び立とうとしている。
逆に不意のアクシデントによって、自分が今度はかつての雛鳥に「育てられる」立場になってしまった。歳を取った親とその子どもの関係にも似ている。
「昔思ってたのとはちょっと違っちゃったけどさ、俺、頑張るよ。この場所で戦ってみるよ、心ゆくまで。そしてしっかり稼いで、バンバン出世する。なぁごのためにもさ」
「うん」
「だからなぁごは、何も心配しなくていいんだよ。俺がずっと守ってやるから」
なごみと同じくホイップクリームで口の周りに白髭を作った寿の笑顔は、眩しかった。それは充実感と、守るべきものと揺るぎない誇りを手に入れた大人の顔で、なごみがずっと寿にしてほしいと思っていた表情のはずだ。
けれど、どうしてだろう。なごみの胸に小さな不安、いやそれよりももっと些細でうっかりすれば見落としてしまいそうな、
「てか、思ったんだけどさ。なぁご、背伸びた? 小さくなりたての頃よりも」
「え、そう? 自分じゃ気付かないけど……そういえば、靴も少しきつくなったかも」
「すげぇ。やっぱちゃんと、成長してんだな。魔法だかパンドラの箱だか知んないけど、こういう特殊な状況でも」
「そうみたいね」
「コナンとかとは違うんだ」
「あれは漫画でしょう」
ここのところつま先が少し窮屈になり始めたスニーカーで地面を突きつつ、自らの身体の成長を素直に喜べない自分がいることに気付く。小さくなってしまった直後は元の姿に戻りたくて仕方なかったのに。
当たり前だが、子どもはいつまでも子どものままではいられない。いつかは嫌でも、大人になる。それは魔法という特異なもののせいでこんなことになってしまったなごみにとっても、同じだった。
そのことが、なぜか悔しいようで悲しいようで、仕方ない。ということは、自分はいつまでもこうしていたいのか。こうして子どもの姿で、千瀬たちとミラクルプリンセスごっこで遊んでいたいのか。そこまで思い至って、自分の心の変化に唖然とする。
「そっかー。なぁごもちょっとずつちょっとずつ、また大人になってくんだなぁ」
「そうだね……」
「俺も頑張らなきゃな、なぁごの将来の進学費用とか、稼がなきゃだし。なぁごさ、将来は何になりたい? またCGクリエスター?」
「うーん。まだ先のことだし、よくわからない、かな」
はぐらかすようにだいぶ小さくなってしまったクレープをひと齧りした。あれほど捨てなければいけないことが惜しくて仕方なかったキャリア。あんなに苦労して頑張って掴んだ自分の夢、自信、プライド。それが今は遠い過去のことにしか思えない……
「そっかぁ、せっかくの津幡なごみ、第二の人生だもんなぁ。今までとはまったく違うことにチャレンジしてみるってのも、ありだよなぁ」
そう言ってバナナチョコクレープに豪快に食らいつく。恋人の複雑な心中にはまったく気付かない寿の隣で、なごみは愛想笑いに近い笑顔を見せていた。そんな二人の上に背の高い人影が落ち、同時に見上げた彼らの目に意外な顔が飛び込んでくる。
「今澤さん」
そっくり同じタイミングで声が出た。動揺を抑えきれないなごみがゴボゴボと咳き込み、寿が慌てて背中をさすってやる。なごみの気道はたっぷり一分近く誤作動を起こしていた。そんな目の前の光景には大して興味ないというように、今澤が平らな声を出した。
「なみちゃんをまだ、預かっているんですか」
「えぇ、まあちょっと……ほら、せっかく今は親代わりなんだし、たまには家族サービスしてやんなきゃってことで、こうして原宿に連れ出してやりましたよぉ、アハハ」
笑い方がわざとらしい! と思ったが、まだ咳き込んでいるなごみは当然、突っ込めない。彼らの神経はぴんと張り詰めていた。今澤が登場した途端、二人はちょっと変わった運命に巻き込まれた恋人同士ではなく、仲のいい叔父と姪の演技をしなくてはいけない。
「今澤さんは、こんなところで何を?」
「独身男が原宿で一人で休日を過ごしてたらいけませんか? 表参道をぶらついてたんですが、ちょっとこっちのほうにも足を伸ばしてみたんです。しかし、ここは若者ばっかりで、とにかく人が多くていけませんね。いい大人の来るところじゃない」
いい大人、のところにわざとらしく力を込める。この人の嫌味っぽさにはもう慣れたので、寿もいちいち腹は立てない。それにしても、なんで今澤はいちいち自分に対して攻撃的なのだろう? この間、自宅に乗り込んできた時もそうだった。
「それでは、私はこれで失礼します。なみちゃん、元気で」
「あ、はい。今澤さんも」
ようやく咽るのをやめたなごみが引きつった笑顔で言う。炎天下の下できゃあきゃあはしゃぎ回る女子中高生の雑踏の奥に今澤が消えていくと、二人同時に顔を見合わせた。考えていることは同じだった。
「もしかして聞かれてたのかな? 今の話」
「さぁ、大丈夫だと思うけど……」
「でも、寿の最後の言葉は聞かれたらヤバかったと思う。津幡なごみ第二の人生とか……」
「平気だって。まさか大人が魔法をかけられて子どもになるなんて、誰も思わねぇよ。それもあんな、常識的な人が」
「……そうだよね」
すっかり温くなった不味いホイップクリームを舐めながら、なごみは一抹の不安を完全に拭えなかった。寿も同じらしく、その後の二人は急に言葉数が少なくなった。
仮に今澤が堀切なみの正体に気付いたとして、その時に何が起こるのだろう? それはまったくの未知数だった。