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第十二章 年下男子と年上女子(2)

 なごみの頼りない幼少時の記憶を辿れば、幼稚園までは男女交際は割と普通のことだった。


仲のいい男の子と女の子が「ほっぺにチュー」をし合ったり、手を繋いで歩いたり。そういうことが大人の真似の、ままごと遊びの一環として、ごく普通に行われていた気がする。そこにどれほどの「恋愛感情」が存在するかはまた別として。



 しかし小学校に上がった途端、少し話は変わってくる。


男も女もなく楽しくきゃいきゃい遊んでいた幼稚園の頃とは違い、小学生ともなるとみんなおぼろげながらも「男」と「女」を意識しはじめ、幼稚園では普通だった「ほっぺにチュー」が、小学生では普通でなくなる。


男の子と女の子が仲良くしゃべっているだけで冷やかされたり、黒板に相合傘を書かれたりする。小学校入学というひとつの節目が、幼い者が幼い者なりに「異性」を意識する壁となるのだ。


 なので矢田辺傑の一言は、小学一年生の教室にそれなりの衝撃を与えた。



「なごみちゃん、今日、僕と一緒に帰ってくれない?」



 え、となごみの口が開いた。すぐ近くで聞いていた千瀬も、他の子どもたちもぽかんとしていた。


いつも一緒に帰らない男女が一緒に下校する。それは放課後デートに他ならない。この年頃の「デート」は大人が口にするようにさらっとした口当たりではなく、甘くくすぐったい響きを伴うものだ。


 なごみがいつまでもぼうっとしているので、傑が少しおずおずと聞いた。



「……ダメ?」

「え、いや、でも。わたしいつも、千瀬ちゃんたちと一緒に帰るし」

「いいよ、なごみちゃん、今日は傑くんと帰りなよ!」



 花鈴が声に力を込めて言って、その両側で千瀬と萌乃がこくこくしきりに頷いている。他の子どもたちは早速なごみの身に起こった小さな異変を嗅ぎつけ、教室じゅうに妙なムードが漂い始める。


何人かがなごみと傑を指差し合って、こそこそとしゃべっていた。なごみは背筋にむずがゆいものを覚えた。こんな気持ちになるのはいつ以来のことだろう。



「わたしたちのことは、気にしないでいいから!」

「なごみちゃん、頑張ってね」

「え、いや、頑張ってって言われても……」



 千瀬、花鈴、萌乃。おませ小学生三人娘の熱い声援とクラスメートたちの好奇の視線に曝され、なごみと傑は一緒に教室を出た。


途端に二人の前に大きなものが立ちふさがる。嵐だった。相変わらず両側に雷と大風。しかし取り巻きの二人がこちらを睨み付けるような険しい表情なのに対し、嵐はどこか切なそうに唇をへの字に曲げている。少なくとも、怒っているわけではないらしい。



「おい、なごみ」

「……何よ?」

「幸せになりな」

「は?」



 すれ違い様にぽん、と軽く肩に手を乗せ、嵐は去っていった。彼の両側で雷と大風が大騒ぎしている。嵐くん、すごい! とか、嵐くん、さすが男だ! とか。しかし当の本人の、小学一年生にしては大柄な背中が、今はやけに小さく見えた。


 それにしても幸せになりな、とは。小学一年生でこの台詞。意味をわかって言ってるのだろうか?



「行こうか、なごみちゃん」

「う、うん……」



 傑に促され、まるでエスコートされるようになごみは歩き出す。心なしか、廊下の両側から二人に注がれる視線が熱っぽい。まったく千瀬たちといい嵐といいクラスメートといいそして傑といい、今どきの小学生はどうなっているんだか。それとも単に、なごみが今どきの小学生事情についていけていないだけなのか。


 本当はいけないのだけど、定められた通学路を無視し、わざとあまり人の通らない道を通って二人は歩いた。仮にも「放課後デート中」のなごみと傑。


クラスメートや知り合いの視線が気になったのだ。学校から五分も歩けば、辺りは開発中の閑静な住宅街で、まばらに建つ家の間を空き地が埋めている。


どの空き地もどこからか飛ばされてきた種が芽吹いて、クローバーやヒメジョオンやよくわからない蔓植物、ピンクの可愛らしいヒルガオが無秩序に咲き乱れていた。



教室では優等生の傑が立ち入り禁止のロープを跨ぎ越え、空き地の中に入っていこうとするのでなごみは少し面食らった。



「いいの? ここ、立ち入り禁止って書いてあるよ?」

「いいの。僕いつもここで遊んでるけど、怒られたことないよ。誰か大人が通ったら、草の間にしゃがんじゃえば見つからない」



 およそ決まりやルールというものを破ったことがないような、傑らしからぬ行動だった。でもなごみも「大人」として咎める気にはならず、むしろ頼もしく感じられるその背中に黙ってついていく。スカートがめくれるのを気にしつつ、ロープを跨いだ。


 傑は、しゃべらない。小学校を出た時からそうだったのだが、「一緒に帰ろう」と自分から誘った割には、至って無口だ。今も背後のなごみには構わず、雑草の間で咲き乱れるヒメジョオンやヒルガオやツルクサ、そういうものを一心に摘んでいる。男の子が花を摘む姿というのも、奇妙なものだった。



「あの、傑くん、何を……」

「なごみちゃん」



 やや上ずった声と共に振り返った傑の胸には、立派な花束が出来ていた。お金は一円もかかっていない、でも花屋で買ったものに負けずとも劣らない、大きく美しい花束だった。


カスミソウの代わりにヒメジョオンが可憐な白い花を広げ、その間にちょこちょこと顔を覗かせるツユクサの青が、いいアクセントになっている。頭を垂らして零れるように咲いているヒルガオも可愛らしい。なんといっても、傑の心がこもっている。


 差し出された花束を、呆けたままなごみは受け取った。花束なんてもらったのは、きっと卒業式以来だ。寿は一度も、そんなロマンチックなことはしてくれなかった。



「なごみちゃん」


 傑がもう一度、名前を呼ぶ。よく見れば耳まで真っ赤で、口元は引きつっている。ずっと無口だったのは緊張していたからなのかと、初めて気付いた。



「……はい」

「大人になったら、僕のお嫁さんになってください」

「……え」

「なごみちゃんのことが、好きです」



 少し潤んだ、でもまっすぐな眼差し。それに射られたように、なごみの心臓がパチパチと熱く燃える。頬に赤みが広がっていくのが自分でもわかった。


 アスファルトを打つ重い足音に、二人は我に返った。首を伸ばしてみれば、四十半ばぐらいのおじさんがこっちに近づいている。憮然としたその顔つきは小学一年生の子どもを恐れさせるには十分だった。立ち入り禁止の場所で遊んでいるのを大人に見つかってはいけない。



「隠れて!」



 傑がなごみの、花束を持っていないほうの手を取った。その少し汗ばんだ手の温もりに、また心臓の燃える音が聞こえる。


 傑に促されるがまま、二人は地面に蹲った。小学一年生の背丈よりも遥か高く伸びたセイタカアワダチソウの茂みが、小さな二人の姿を外界からうまく隠してくれた。


大人の足音が近づいてくる。ちょっと怒られることぐらい何でもないし、そもそも立ち入り禁止の場所で子どもが遊んでいるからってわざわざ注意するほど、今の大人は人間ができていないことをなごみは知っている。


それでもさっきからひどく心臓が跳ねているのは、二人で共有する甘やかな秘密が愛おしいのは、どうしてだろう。


 いつのまにか、あまりにも近いところに傑の顔があった。傑も今初めてそのことに気付いたというように、ぎょっと目を見開いた。息が止まりそうな間だった。足音がゆっくり、二人のすぐ近くを通り過ぎていった。



 気がつけば唇が重なっていた。傑にキスされたことは、前にもあった。でもあれは「ほっぺにチュー」だったし、あのぐらいの年頃の子どもにとってはなんでもない。でも今自分が傑としているのは、正真正銘の、本物のキスだ。もちろん舌こそ入らないけれど、傑と触れているその部分が溶けそうに熱い。



 全力疾走する自分の心臓の音を、なごみは信じられない気持ちで聞いていた。キスなんて何度もしている。高校の時の元カレとも、寿とだって数えきれないほど。それよりすごいことだって、既に経験している。大人なんだから。


なのにこの、初めて感じるようなときめきは何なのだろう。相手は傑なのに。ただの小学一年生の子どもなのに……



 それは津幡なごみではなく、堀切なごみという女の子にとっての、まぎれもないファーストキスだったのだ。


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