『おはようございます、神子様』
そう言って部屋の扉をノックするのが、ルナ・リージョンにとって毎朝に行う習慣の1つとなっていた。
彼女は天使という種族の中で純白の光輪と翼を持つ白天使であり、10代の若く麗しい容姿の持ち主だ。
それぐらいの若い天使の少女は、普通なら両親と共に暮らし、学校で勉強をしながら友達や恋人と一生に一度しかない青春の時間を過ごしている年齢だ。
ルナは違った。
豊かな自然以外に周囲に何もない、丘の上に建てられた教会に血の繋がらない年下の子どもとたった2人だけで住んでいた。
朝早くに起き、教会内の掃除をし、中庭にある菜園の手入れをし、朝食の用意をする。
諸々を1人だけで済ませた後に、まだ眠っているはずの子どもを起こしに行く。
子どもは、神が作り、天使が統治するこの天界で唯一の人間であり、神子と呼ばれている。
天界にとっても、天使たちにとっても他に代替の無い貴重な存在とされており、ルナは神子の身の回りの世話をし、神子が魂の使命を果たすための助力をするための、世話役と言う重要な役職を任されていた。
「…………」
ルナはノックを躊躇し、深呼吸をして湧いてくる不安に乱れた心を整える。
神子には、重大な問題があった。
生まれて10年目を迎えた日から、記憶障害という大きすぎる欠陥を抱え始めた。
ひとたび眠ると、記憶が無くなる。
毎日顔を合わせているルナの事も、自分の名前すらも全てを忘れてしまう。
毎日毎回、何もかもを1から説明して関係をやり直す羽目になる。
医師に聞いても、神子の記憶障害は前例がなく、対処法がわからないという。
そもそも神子の種族は人間。天使の医療技術が通用するかも不明な部分が多く、命に係わる程の 問題でもないため、下手な行為をするべきではないと言われた。
そうして何もできず、3年の月日だけが過ぎていった。
いつ起こるか分からない奇跡を信じて繰り返される、何もできない日々。
嫌気が差す時もあったが、神子を見捨てる選択肢は彼女には最初からなかった。
ならばどうするべきかと考え、己が魂の使命を果たすためだけに集中し、私的な感情を理性で抑え込むべきだと結論付けた。
その1つとして、全てを忘れてしまうのならそれを前提に行動する習慣を身に付ければいいというアイデアを思いつき、神子を眠りから起こす時には必ず名前ではなく、神子様と呼ぶようにしていた。
「おはようございます、神子様」
今日もまた忘れられていると予想して、声を掛けてから神子の部屋の扉をノックしようとする。
でも、その日はいつもと異なる出来事が起きた。
ノックよりも先に扉が開けられた。
「おはよう、ルナ」
出迎えたのは、昨日までなら目覚めては名前を教える事から始まるはずだった神子、ニジカだった。
きめ細やかな桜色の髪。
性別が曖昧にさせられる、中性的で可愛げのある顔立ち。
天使と似た姿形をしながらも、頭上には光輪も、背中には翼もない。
これが人間。
これが神子。
これが天界に現れる災禍を打ち払い、全ての魂の罪を洗い流して救済を齎す、神が天使に授けた救世の希望。
「もう大丈夫だよ、ちゃんと昨日の事も名前も全部覚えてるから」
「そうですか、なら」
子どもらしく無邪気な笑顔をしたニジカに。
「おはようございます、ニジカ」
習慣を改めなければならない。
ずっと、この状態が続いて欲しい。
嬉しさに弾む胸元に手を添えながら、願いながらルナは微笑んだ。
🌈
朝食を食べ終わった後、ルナとニジカは2人分のサンドイッチを作り、井戸水を入れた水筒ごとランチボックスに詰め込んでいた。
今日の天気は青天、昨日に約束したピクニックに行くためだ。
ニジカに記憶障害さえ起こらなければ、約束を忘れるなんてありえない。
ニジカが忘れなければ、ルナも諦める必要なんてない。
きっと、ルナの機嫌が良く見えるのは彼女もピクニックに行くのを楽しみにしていたからなんだとニジカは思った。
楽しい気持ちを共有する誰かが居て、その誰かはとても大切な天使で、彼女が嬉しそうだと自分も幸せな気分になれた。
「あの、私の顔に何かついていますか?」
横顔を見つめているとルナが気づく。
「ううん、ルナが機嫌良さそうで僕も嬉しいなって思っただけ」
「そうですね、ニジカとまたこうしてピクニックに行けるのが私はとても嬉しいです。こうして、いつもどおり喋れるだけでも幸せな気分になれます。大好きですよ、ニジカ」
「うん、僕もルナが大好きだよ」
恥ずかしげもなく好意を伝え合って、幸せそうに微笑み合う。
神子は幼い頃から育ててくれた天使を、実の家族同然に信頼し、慕っていた。
天使も、神子が例え血の繋がりもなく、種族が異なる存在だとして、1人の人間として愛情を注ぎ、大切に育てて来た。
ニジカが記憶障害を患う前、こうして純粋な好意を伝え合うのは2人の間ではよくある光景だった。
10歳から続いた記憶障害、その唐突な終わりの兆しが現れた今日まで、3年も月日が経っていた。
世話役と言う、保護者としての立場も兼ねて幼い頃からニジカを世話して来たルナは、改めて帰ってきた当たり前の日々に目頭が熱くなる。
でも、せっかく元通りの笑顔を取り戻したニジカに涙なんか見せたくない。
世話役として意地が、彼女に我慢をさせていた。
「じゃあ僕、着替えて来るね」
「あ、待ってください」
ダイニングキッチンを出て行こうとしたニジカは、ルナに呼び止められる。
ピクニックへ早く行きたいと逸る気持ちをぐっと抑えて、振り返った。
「渡したい物がありますので、少し待っていてくれませんか?」
「うん、わかった」
ルナは、別室から折りたたまれた真新しい衣服を持ってくる。
「以前、エヒメルの都に出向いた時に見つけた服です。先日ようやく届きました、貴方に似合うと思って買ったのですが着ていただけませんか?」
少し不安そうに、でもきっと似合うという期待を込めて。
そんな気持ちのこもったプレゼントを、他でもないルナから受け取らない理由はなかった。
「僕のために買ってきてくれたの? ありがとう、それだけでも凄く嬉しいよ! すぐに着替えて来るね!」
「はい、お待ちしています」
ニジカは急いで自室に戻って着替えると、走って戻って来る。
勿体ぶるように入り口から顔だけを出して、今度は待つ側となっていたルナと目を合わせてから両腕を広げて全身を見せる。
「どうかな! 似合ってる?」
「とても似合っていますよ」
満足そうにうなずいて、ルナは告げた。
ニジカの好奇心旺盛で活発な性格と、桜色の髪や白い肌などの繊細な色鮮やかさを持つ魅力に考慮して、基調色を白とした、軽やかで丈夫な繊維で編まれた最高級の布を惜しみなく使って仕立てた服だ。
ルナの拘りである炎をイメージした刺繍も無理なくデザインに組み込まれており、職人の腕の良さが伺えた。
極めつけは、ニジカに何度も聞き、職人に無理を言って再現させた虹色のマフラーだ。
虹とは、神子のニジカにのみ視えるという、神の世界に通じる扉の道標となる7色の光の橋だ。
見た事もない色を再現しろと言われた職人の苦い顔も理解できない訳ではなかったが、どうしても譲れなかった。
何か月も掛けて職人と意見交換をしながらデザインを模索し、製作までの期間も含めれば1年近くの時間を要したルナの渾身の力作だった。
それがようやく着てもらいたい人の手に渡り、イメージ通りに似合っていた。
この結果に作った本人が満足しない訳がなく、ささやかな嘘をついて努力を隠すのは彼女なりの見栄であり誇りだった。
「本当?」
「もちろんです、私の眼に間違いはありませんでした」
「僕もすごく気に入ったよ! 本当にありがとうルナ!」
「こちらこそ、ありがとうございますニジカ」
髪を撫でれば、ニジカは満面の笑みで喜んでくれる。
裏表を感じさせない素直な感情は、透明で澄んだ心の持ち主だからだ。
世話役として関り、これまで成長を見守ってきた彼女は、そんなニジカの感謝の気持ちと言葉だからこそこんなに嬉しく感じるのだと、心の底から愛おしさと幸せを噛み締めていた。
「では、支度も整いましたし、ピクニックに行きましょうか」
「行こう! ピクニック!」
ニジカは、元気いっぱいに手を挙げて返事をした。
🐍
教会の出入口である扉を施錠するルナの背中を、ニジカはランチボックスの取っ手を腕に引っ掛けながら足踏みをして、落ち着かない様子で見つめていた。
「お待たせしました」
「もう、ルナ遅いよ!」
「すいません、忘れ物を探していました」
彼女は、鞘に納められた細身の剣を腰に佩いていた。
「あまり離れないでくださいね」
「わかってるー!」
雲一つない青空、そよ風も心地よく、ピクニックには最適の気候だった。
有り余る元気で草原を走り出したニジカの後を、ルナは歩きながら付いて行く。
向かう方角の空には、虹が架かっていた。
「子どもみたいですね、子どもなのでしょうけど」
ニジカの見た目は13歳程度、相応の言動にルナは微笑ましくなった。
神子の種族は人間。人間のニジカと天使のルナは、似た姿はしていても根本的に異なる種族だ。
種族が異なれば、身体の構造、寿命の長さ、成長の度合いが異なる。
「また少し、身長が伸びましたか?」
「え、どうなんだろう? 自分じゃよくわからない」
「そうですね、帰ったら身長を測ってみましょうか」
離れすぎたと思ったニジカが戻って隣に並んだ時、ルナはまたニジカの身長が伸びたのを知る。
つい先日まで頭の先が自分の胸元ぐらいだと思っていたのに、肩に届こうとしていた。
種族は異なれど、育ち盛りな年齢なのを考慮すれば不自然ではなかった。
神子の世話役であるルナにとって、日々成長を続けるニジカの観察は常に意識して行っている事だった。
「良い風だね」
「ええ、祝福の風ですね」
風でさわさわと草花が揺れる草原をしばらく歩いていると、1本の大きな木が立つ丘の上に辿り着く。
赤い実の成るその木の下に荷物を置いて、腰を落ち着かせる。
快晴の陽気が樹冠で遮られ、そよ風が肌を撫でる感触は程良い涼しさを齎していた。
木の立つ丘の裏手には色とりどりの花が咲く天然の花畑があり、近くには清水が流れる川が、北側には森が広がっている。
これまで教会の周囲を散策して見つけたピクニックに最適な場所の中でも、豊かで綺麗な自然を堪能できるここを最もニジカは気に入っていた。
「そろそろお昼の時間ですね、食べましょうか」
「うん! お腹空いてきたところだったんだ!」
太陽の位置から時間を推測するまでもなく、ニジカのお腹の虫が鳴っていた。
広げた風呂敷の上でランチボックスを開け、水筒に淹れた冷たい井戸水と自分たちで作ったサンドイッチを堪能する。
「これ、僕の好きなイチジクのジャムだ!」
「今朝の採れたての物を使って作りました。最近は天候も安定していたので育ちが良く、自信作だと思っています」
教会の中庭の一角にはルナが育てている菜園があり、サンドイッチの具のほとんどはそこから取れた野菜や果物だ。
「ルナの作る食べ物はどれも美味しいね」
「ありがとうございます、作った甲斐があります」
お喋りをしながら昼食を堪能していると、木の上や空からリスや小鳥が集まってくる。
美味しそうな匂いに誘われて、おこぼれを貰おうとやってきたらしい。
リスがニジカの肩に乗ってきて、愛嬌しかない丸くクリクリした眼で見つめる。
「あら、人懐っこいリスですね」
「ねえルナ、ちょっとだけあげてもいい?」
リスの可愛らしさに負けて、ニジカはルナに願ってみる。
「良いですよ、でもあげ過ぎてはいけません。私たちが普通に食べられる物でも、この子たちには毒になってしまうかもしれませんから」
「ありがとう!」
許しを得て、ニジカはパン生地の端を千切ってリスの口元に近づける。
リスは器用に手で持って頬張り始める。
「可愛いね」
「はい、癒されます」
パンの切れ端はすぐになくなってしまい、もっとないのかとせがむリスはまたニジカを見つめる。
おこぼれが貰えるとわかれば、群がるのが動物の習性だ。
様子見をしていた他のリスや小鳥たちも寄って来る。
最初は可愛くて次々とあげていたニジカだったが、何度もおかわりをせがまれる内に自分が食べる分のサンドイッチがなくなっていくのに気づいた。
「も、もう駄目だよ、僕の食べる分がなくなっちゃうから! そんな目で見ても駄目! ルナ助けて!」
「ニジカがあげ始めたのですから、責任を持って対応してください」
「ルナのいじわるー!」
結局、小動物たちに押し負けて全てのサンドイッチをあげてしまった可哀そうなニジカを見かねたルナが、自分の分を分けた事でニジカのお腹も満たされた。
「どうなるかと思った」
「良い勉強になりましたね」
食後の水で口を清めながら休憩していると、1匹のリスが赤い木の実を鼻先で押してニジカの前に転がしてきた。
「もしかして僕にくれるの?」
リスは何を考えているのか、小首を傾げる。
「ねえルナ、これって食べれる?」
「リンゴですね。この子たちは食べられるのでしょうが、私たち天使や人間には毒になる成分が入っています」
「そうなんだ、残念」
「そこまで強い毒ではないのでちょっとだけなら齧っても問題ないと思いますが、持ち帰って毒抜きをしてから食べましょう」
「わかった。じゃあありがたく貰うね、リスさんありがとう」
物言わぬリスは、ニジカの視線とは少しズレた場所を見つめながら、再び小首を傾げるだけだった。
お腹が落ち着いたニジカは、川や花畑に入って遊んでいた。
サンドイッチを分けたリスや小鳥とはすっかり仲良くなったのか、言葉が通じないはずなのに楽しそうに戯れている。
そんなニジカを、ルナは木の下で荷物番をしながら眺めていた。
風の悪戯で乱れた髪と捲れそうになったスカートを手で押さえる。
ニジカから目を離したのは、ほんの一瞬だ。
すると、いつの間にか成体の猪も遊びに加わっていた。
肝が冷えたが危害を加える様子もなく、放っておくと決めた。
「ひゃあ!? ちょっと駄目! そんなところに鼻を入れないでよ、くすぐったいてば!」
が、次の瞬間には猪がニジカを押し倒し、股下に鼻を突っ込んでいた。
「なっ!?」
なんて卑猥な生き物だろうか!
神子であるニジカは天使にとって、天界にとって至宝に等しい存在。
そのニジカの股下に、大胆に顔を埋めて羞恥心を与えるなどという下劣な行為が許されるはずがない。
やはり斬捨てるべきかと剣を抜こうとしたが、相手は動物だと考え直した。
過剰反応したこっちが卑猥な思考をしていると言われているような気がして、恥ずかしかった。
「相手は動物、そう動物、卑猥な意図はない、はず」
独り言を呟いて荒れた心を落ち着かせながら、柄から手を離し、座ろうと膝を曲げる。
「!?」
ルナは無駄のない素早い動作で再び柄を握り、抜剣、頭上に剣を振るった。
彼女の剣の刃は、先端に向かって反りのついた独特の形状をしている片刃だった。
その刃は細く、頑強には見えない。
しかし、鍛冶師が独自の技術で洗練して磨き上げた姿は白銀の輝きと纏っており、発揮される切れ味はいとも簡単に敵の頭部と胴体を切断した。
「蛇?」
地に落ちた肉片から、襲撃者の正体を割り出す。
蛇は、平たい頭部と手足の無い細長い胴体を持つ、嫌悪感を抱く形状をした生き物だ。
天界に遥か昔から在る伝承では、かつて幾度となく天界を破滅へと追い込み、幾人もの天使たちの命を葬ってきた災禍の中には必ず蛇の悪魔が居たという。
更に蛇の牙には猛毒があり、特段天使には効き目が強く、少量でも命に係わる凶器になる。
これらの理由から、天使にとって蛇とは許容し難い天敵であり、嫌悪と畏怖の対象となる生物だった。
だが、多くはそれほど脅威にはならない。所詮はただの蛇だからだ。
問題だったのは、斬った蛇の全身が青銅のように煌めく青い鱗に覆われ、額に3つ目の眼があったからだ。
ルナは本能から恐怖を覚えた。
「まさか、あんな化け物がここに!?」
ルナは真っ先にニジカの方を向き、周囲を注意深く観察する。
嫌な予感が外れていて欲しい。もし当たっていた場合、必ずわかりやすい目印はある。
ニジカたちのいる場所から少し離れた花畑の一角。
そこの地面が不自然に盛り上がり、巨大な眼が現れ、細長く黒い瞳をぎょろぎょろと四方に動かしていた。
瞳が捉えたのは、まだ身に迫る危険に気づいていないニジカだった。