その日はイベント日和、とでも言うべきだろうか。暑すぎず寒すぎず、外に出るにはうってつけの日だった。
イベント会場となるのは先日赴いたツキジからさらに東京湾に近い、むしろ東京湾に作られた埋立地にある巨大な展示場。様々な分野の大規模な商談会やサブカルチャーに関する即売会などに利用されるその会場に、源二は覚えがあった。
「……まだあったんだ……」
特徴的な逆三角形の構造体を持つ会議棟をはじめとしていくつかの展示棟が並んだ、特定の人種には聖地とも呼ばれているその展示場を見て、源二はほう、とため息を吐く。
「まさか俺がここで出展側にまわることになるなんてな……」
この展示場には元の時代にいた頃、来たことがある。と言っても学生時代にオタクだった友人に連れられて日本最大級の同人誌即売会に一般参加しただけだが、それでもこの展示場がただの展示場ではないことはよく分かっている。オタク文化には多少心得があった、ということがここへ訪れる最初のきっかけだったが、まさか百年以上も後のこの展示場に、今度は出展者として参加することになったのは源二としては感慨深いものがあった。
「なに感動してんだよ、行くぞ」
様々な資材を台車に乗せたヨシロウが源二を促す。
「お、おう」
ヨシロウに促され、源二も会議棟から視線を外し、会場に向かって歩き始めた。
施設自体はもう何度も改修されているのだろうが、それでもどことなく懐かしさを覚えるこの場所になんとなくの安心感を覚える。
まずは展示会の受付に向かい、入場証を提示、展示棟の中に入る。
指定されたブースに向かう間に周りを見ると、様々な企業がフードプリンタのデモンストレーションやホロサイネージにPVを流す準備をしている。
「おー、あのベジミール社の最新型か……」
ヨシロウが「後で見に行ってみるか……?」などと呟くのを聞き流し、源二も自分に割り当てられたブースの前に立った。
他の企業ブースほど大きくはないが、それでもフードプリンタを置いた上で何人かの来場者が立ち止まって試食できるくらいには広さはある。
用意されたテーブルには既に数台のフードプリンタが並んでおり、サトルの根回しの良さがうかがえる。
「お、プロモーション用に協賛企業の最新モデルを貸してくれたのか。太っ腹だな」
用意されたフードプリンタを確認したヨシロウが感心したように呟いた。
「使い方は分かるか?」
「ああ、ぱっと見た感じ、家にあるのと操作自体は変わりなさそうだな。これがユニバーサルデザインってやつか?」
ヨシロウの心配をよそに、源二が慣れた手つきでフードトナーの確認をする。
「とりあえず、冷めてても食えるクッキーから出力していこう。ヨシロウに設営を任せていいか?」
「任せとけ。シミュレーションはばっちりだし、もう少ししたらニンベン屋も応援に来てくれる」
スーツのジャケットを脱ぎ捨て、ヨシロウがぱん、と両手を合わせた。
「いっちょ、やりますかね」
「ヨシロウ、任せた」
「お前もしっかり出力しとけよ」
そんな言葉を交わし、二人はそれぞれ準備を始めた。
午前十一時。会場全体に開会のアナウンスが流れ、会場内の緊張が一気に高まる。
このイベントはあくまでも商談会。様々な企業やメディアが訪れるだけではなく、一般人も訪れ、場合によっては購入手続きを進めていく。
そんな来場者に視線を投げながら、源二とヨシロウは——。
「暇だ」
「ああ、暇だ」
そう、呟いていた。
そもそも、かつての同人誌即売会のような賑わいを想像していたのが間違いだった。あれは特殊な祭りであり、展示会自体がそこまで活気のあるものではない。
勿論、ブースによってはそれなりに足を止めて新型のフードプリンタを興味深そうに眺めている姿も認められる。しかしフードプリンタを展示するわけでもなく、試食自体も他の企業は行っているのでわざわざ足を止める来場者はいない。いや、足を止める来場者もいるにはいるが「味覚投影オフで食べられる」という謳い文句に恐れをなして立ち去ってしまう。
「うーむ、見誤ったか」
手にしたチラシの束をぱたぱたと振りながらヨシロウが呟いた。
「食ってもらえれば分かるんだがなあ……」
そんなことをぼやきながら、テーブルに置かれたクッキーを手に取り、頬張る。
「おいヨシロウ、それ試食品」
「いいだろ、誰も食わねえんだから」
うめえなあ、これを食わないなんてもったいない、そんなことを呟きながらヨシロウがクッキーを頬張っていると、
「あー! もう食ってんのかよ! 俺にも食わせろ!」
二人にとってお馴染みの男、ニンベン屋がブースに駆け寄ってきた。
「おー、遅かったな」
ほれ、お前の分、とヨシロウがニンベン屋にクッキーを手渡す。
「いやー、今日は南展示場で別のイベントやってるから、そっちの客に流されてな」
これじゃ昼過ぎくらいにこっちにも流れてくんじゃね? と言いながら、ニンベン屋はぐるりとブースを見回した。
「閑古鳥鳴いてんなあ……。人、来ないのか?」
「ああ、どいつもこいつも日和やがってな」
食えば分かるんだよ、食えば! と悔しそうに唸るヨシロウに、ニンベン屋がニヤリと笑った。
「なんだ、そういうことか」
「なんだとはなんだ」
事態を甘く見ているようにしか見えないニンベン屋に、ヨシロウが少々憤慨したように睨みつける。
しかし、ニンベン屋はニヤニヤ笑いを消すことなく、今度はオニギリの皿を手に取った。
「要するに食いたくなるように仕向けりゃいんだろ? だったら俺の出番だ」
そう言い、ニンベン屋はオニギリを頬張る。
「うんめー! 今日の具はシャケと……タラコか? やっぱオニギリは『食事処 げん』のものに限るわー!」
試食用なのでオニギリも一口で食べられるサイズ。それを立て続けに口に運び、ニンベン屋は心底幸せそうに声を上げた。
オーバーリアクションのようだが、源二の料理を食べるたび叫ぶのはニンベン屋のデフォルト。
普段なら「もっと静かえに食え」と思うヨシロウだったが、今日、この場所でニンベン屋のこのリアクションはとても心強かった。
次々にオニギリやクッキー、サンドイッチと源二が試食用に出力した小ぶりの料理を口に運ぶニンベン屋。しかも一口食べるごとにうまいうまいと声を張り上げるので素通りしていた一般客もちらほらと足を止め始めていた。
「うまいって……普通のプリントフードじゃ……?」
ニンベン屋のリアクションを怪訝そうに見ながら一般客がテーブルの上にある料理を見る。
「お、気になるか? 食ってみろよ。すごい体験ができるぜ?」
すかさずヨシロウが皿を差し出し、一般客に手渡す。
「すごい体験って……」
「おう、ここの料理はすごいぞ。何しろ味覚投影なしでぶっ飛ぶほど美味いからな!」
ニンベン屋もほらほらと一般客を煽る。
そこまで押されると、一般客も手にした皿を返すに返せなくなってしまった。
「……プリントフードなんてどれも一緒なのに……」
仕方ないな、と一般客が皿に乗せられたオニギリを口に運ぶ。
ニヤニヤと見守るヨシロウとニンベン屋。
次の瞬間、一般客は驚きのあまり目を見開いた。
「え、ナニコレ!?」
『オニギリ』
ヨシロウとニンベン屋の声が重なる。
「いやそれは分かります! でもなんですかこれ、味覚投影使ってないのに本当に味がする! しかもご飯と具で別の味がするんですけど!?」
「え、何それ気になる」
「今のフードプリンタ、そんなことできるの?」
オーバーリアクションなニンベン屋の反応と違い、純粋に驚いている一般客に他の客も興味を持ったらしい。
俺も俺もと何人かがオニギリを手に取り、口に運ぶ。
「な——」
「なんじゃこりゃー!!」
会場内に響く絶叫。
なんだなんだと一般客や商談のために訪れた企業の人間も源二のブースに集まり始める。
「はい、今度オープンする食堂、『食事処 げん』です! 今回は『げん』でしか味わえない料理の試食を用意しました!」
ここぞとばかりにヨシロウが声を上げる。
食堂? や、なんだただの宣伝か、といった声も上がるが、それでヨシロウ達の心は折れない。
試食だけでも、とヨシロウが声をかけると、最初に試食をした一般客も「いいから食ってみなよ!」と周囲に声をかけ始める。
「マジでこれは食わないと人生損する! 騙されたと思って味覚投影オフで食ってみろ!」
そんな一般客の声に背を押され、他の客もヨシロウから皿を受け取っていく。
——そして。
「やばいってこれ! みんな食べてみてよ!」
一般客までもが歩き回る売り子となり、源二のブースには試食を求めてひっきりなしに人が訪れ始めた。
「え、これあのメーカーのフードプリンタ? 造形きれいじゃん!」
元々はフードプリンタの展示会、出力された料理の形にも興味を持った一般客がそのメーカーのブースにも立ち寄るという副次効果が生まれ、開場したばかりの時とは打って変わり展示会そのものが大盛況となった。
ニンベン屋の言う通り、他の展示場で開催されていたイベントの参加客も「西展示場のイベントがやばい」という噂を聞きつけて訪れ、今までにないくらいの活気で人々がブースを覗き込んでいる。
「ほい、次の試食!」
出力が終わり、源二が次の料理を試食用に取り分ける。
——と、源二のブースにいた全員の鼻孔を何かがくすぐった。
それはタンパク質が焦げたような香ばしい匂い。そこに木材が燃えたような香りも混ざっている。
普通なら「火事か」と思いたくなるような匂いのはずなのに、その場にいた全員は「美味しそう」と本能的に悟っていた。
これは食べ物の匂いだ。味覚投影で食べる焼肉が、嗅覚にも干渉してこのような匂いを感じたはずだ。
そう思うと、一気に空腹感が襲い掛かってくる。
「焼肉!」
ニンベン屋がそう声を上げると、源二も「おうよ」と声を上げる。
「イベントに肉があるとテンション上がるからな! ぜひとも食べていってください!」
そう言って源二がテーブルに皿を置くと、あちこちから手が伸びてあっという間になくなってしまう。
「やべえ!」「こんなおいしい肉が食べられるなんて!」
そんな声があちこちから上がる。
「『食事処 げん』だって?」
「もうこれは行くしかないっしょ!」
試食に使った皿を返した代わりに受け取ったチラシを見た一般客が興味津々に源二を見る。
「楽しみにしてますから!」
その言葉に、源二は確かな手応えを感じた。
ほんの少し、試食しただけで彼らは魅了されてしまった。
これなら店を開いても大丈夫そうだな、と満足げに頷き、源二は次の料理の出力に取り掛かった。