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第29話 帝王ゾグナス

 暗い森を、アストリアは全力で駆け抜けていた。


 が、マチルダを追いかけていたはずの足が、ふと止まる。


「……いない?」


 彼女の気配が、唐突に途絶えていた。


 まるで霧の中に溶け込むように、消えたのだ。


「おかしいな……」


 彼は周囲を見回しながら、手にした剣の柄を強く握りしめる。


 マチルダを捜索しようと進もうとしたその時、遠くから耳をつんざく叫び声が聞こえてきた。


「……人の声だ!」


 アストリアは反射的に声のする方向へ駆け出した。


 やがて、木々の間に広がる小さな開けた場所にたどり着く。


 目の前に広がる光景を見た瞬間、彼は息を呑んだ。


 魔獣の軍隊がいた。


 そしてその中央の馬車には、檻に閉じ込められた人間達がいる。


 よく見ると、それは魔獣と人間が共存する村、ステレ村で出会った人々だった。


 そして、ハウロンもいる。


「どうして……あの人達が……?」


 アストリアは眉間に深い皺を寄せた。


 捕らえられた村人達は、恐怖に満ちた目で助けを求めている。


 魔獣達は彼らを連行しながら、不気味な低い声で言葉を交わしていた。


 今、飛び出せば勝算はない。


 彼はそれを本能で理解していた。


 魔獣達の数は多く、どれも自分一人で立ち向かうには手強い相手ばかりだ。


 (どうする……冷静に考えろ……)


 彼は自分に言い聞かせようとした。


 (セラフィスなら『様子を見よう』と言うかもしれない....)


 だが、村人達の怯えた表情が頭から離れない。


 その瞬間、冷静な思考よりも先に彼の体が動いていた。


 アストリアは隙をついて檻の馬車に忍び込むと、布の中で素早く身を隠した。


 檻の中にいる人々の驚いた表情を見て、手早く人差し指を口に当てる


「しーっ……静かにしてくれ。」


 囚われの人々は互いに顔を見合わせたが、アストリアの真剣な表情を見て、静かに頷く。


 馬車はガタガタと音を立てながら進んでいく。


 外からは魔獣達の粗野な笑い声が聞こえてきたが、アストリアはじっと息を潜めていた。


 長い道中、アストリアは布の中で静かに身を丸め、周囲の音に耳を澄ませていた。


 やがて、馬車は巨大な城門をくぐり、帝国の中心部へと向かっていく。


 アストリアは布の隙間からそっと外を覗いた。


 目に映ったのは、巨大な城壁とその前に広がる賑やかな大通り。


 そこには魔獣達が溢れ、みな歓声を上げている。


 そこはガルム帝国──。


 急速に勢力を拡大し続けている、強大な帝国である。


 国民のすべてが魔獣で、人間が奴隷として扱われている。


 古くからノルヴィア王国との結びつきも強く、他の国々からは敬遠されている。


 まさに、北方の無法地帯だ。


 現在、凱旋パレードの真っ最中であった。


「ゾクナス様、万歳!」


「ゾクナス様、我らが帝王!」


 その名を耳にした瞬間、アストリアの眉がピクリと動いた。


 ゾクナス──その名は知っている。


 ミノタウロス軍の元総長にして、今ではガルム帝国を率いる帝王。


 彼の頭の中にマチルダの話が蘇る。


 かつてマチルダの両親、友人を手にかけ、圧倒的な力と冷酷さで名を轟かせた男──ゾクナス。


 その男が今、この国を支配しているのだ。


 布の中で拳を握りしめながら、アストリアは檻に隠れたまま外の様子を見続けた。


 通りの中央で大層豪華な玉座に鎮座し進むのは、黒鉄の鎧に身を包んだ巨大なミノタウロス。


 ──ゾクナスその人だった。


 その雄々しい姿に、魔獣達は歓声を上げ、拍手で迎えている。


「ゾクナス様、我らを守護し、力を与えたもうた偉大なる帝王!」


 高らかな宣言が響き渡る中、ゾクナスは民衆を見下ろしながら堂々と歩いていく。


 その姿には圧倒的な威厳があり、アストリアは息を飲んだ。


「あれが……ゾクナス……。」


 アストリアは布の隙間からゾクナスの手元をじっと見つめた。


 その巨大な手の中で、何かがぼんやりと水色の光を放っていた。


 (・・・あれはもしや....!)


 脳裏に一瞬、浮かんだ可能性。それが的中した瞬間、心臓が跳ねる。


 ゾクナスの手中には、"哀の魂"があった。


 深く澱んだ藍色の輝きは、どこか悲しみを帯びた雰囲気を放ち、見る者の心に重くのしかかるような力を感じさせた。


 (あの男が……何故あれを.....!)


 アストリアの脳裏に、かつてセラフィスから聞いた話が甦る。


 "哀の魂"──悲しみによって成長し、絶望を糧に力を増す特殊な魂。


 だが、それはあまりにも危険で、扱う者の心を侵食し、最終的には破滅へと導くとされている。


 ゾクナスの手の中で、"哀の魂"はまるで生き物のように脈打ち、ゆらゆらと揺れ動いていた。


 ゾクナスが高らかに声を上げた。


「見よ、これこそ我がガルム帝国の新たなる力、"哀の魂"だ!」


 魔獣達から驚きと興奮の声が上がる。


「これを手にした我が帝国は、いかなる敵にも敗れることはない!ゾクナス様が絶望さえも力に変えてくださる!」


 群衆の歓声は最高潮に達し、凱旋行進の熱気は頂点を迎えた。


 布の中で息を潜めるアストリアは、拳を強く握りしめた。


 (──まずい。このままでは奴がさらに力をつけてしまう。それだけは阻止しなければならない……。だが、どうする?)


 目の前の状況をどうにかしなければならないことは明らかだった。


 だが、ここで無策に飛び出せば、ただ捕らえられるだけだろう。


 "哀の魂"を奴の手から奪い取る……だが、そのためには......!


 アストリアを今まで感じたことのないような焦燥感が襲った....。




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