暗い森を、アストリアは全力で駆け抜けていた。
が、マチルダを追いかけていたはずの足が、ふと止まる。
「……いない?」
彼女の気配が、唐突に途絶えていた。
まるで霧の中に溶け込むように、消えたのだ。
「おかしいな……」
彼は周囲を見回しながら、手にした剣の柄を強く握りしめる。
マチルダを捜索しようと進もうとしたその時、遠くから耳をつんざく叫び声が聞こえてきた。
「……人の声だ!」
アストリアは反射的に声のする方向へ駆け出した。
やがて、木々の間に広がる小さな開けた場所にたどり着く。
目の前に広がる光景を見た瞬間、彼は息を呑んだ。
魔獣の軍隊がいた。
そしてその中央の馬車には、檻に閉じ込められた人間達がいる。
よく見ると、それは魔獣と人間が共存する村、ステレ村で出会った人々だった。
そして、ハウロンもいる。
「どうして……あの人達が……?」
アストリアは眉間に深い皺を寄せた。
捕らえられた村人達は、恐怖に満ちた目で助けを求めている。
魔獣達は彼らを連行しながら、不気味な低い声で言葉を交わしていた。
今、飛び出せば勝算はない。
彼はそれを本能で理解していた。
魔獣達の数は多く、どれも自分一人で立ち向かうには手強い相手ばかりだ。
(どうする……冷静に考えろ……)
彼は自分に言い聞かせようとした。
(セラフィスなら『様子を見よう』と言うかもしれない....)
だが、村人達の怯えた表情が頭から離れない。
その瞬間、冷静な思考よりも先に彼の体が動いていた。
アストリアは隙をついて檻の馬車に忍び込むと、布の中で素早く身を隠した。
檻の中にいる人々の驚いた表情を見て、手早く人差し指を口に当てる
「しーっ……静かにしてくれ。」
囚われの人々は互いに顔を見合わせたが、アストリアの真剣な表情を見て、静かに頷く。
馬車はガタガタと音を立てながら進んでいく。
外からは魔獣達の粗野な笑い声が聞こえてきたが、アストリアはじっと息を潜めていた。
長い道中、アストリアは布の中で静かに身を丸め、周囲の音に耳を澄ませていた。
やがて、馬車は巨大な城門をくぐり、帝国の中心部へと向かっていく。
アストリアは布の隙間からそっと外を覗いた。
目に映ったのは、巨大な城壁とその前に広がる賑やかな大通り。
そこには魔獣達が溢れ、みな歓声を上げている。
そこはガルム帝国──。
急速に勢力を拡大し続けている、強大な帝国である。
国民のすべてが魔獣で、人間が奴隷として扱われている。
古くからノルヴィア王国との結びつきも強く、他の国々からは敬遠されている。
まさに、北方の無法地帯だ。
現在、凱旋パレードの真っ最中であった。
「ゾクナス様、万歳!」
「ゾクナス様、我らが帝王!」
その名を耳にした瞬間、アストリアの眉がピクリと動いた。
ゾクナス──その名は知っている。
ミノタウロス軍の元総長にして、今ではガルム帝国を率いる帝王。
彼の頭の中にマチルダの話が蘇る。
かつてマチルダの両親、友人を手にかけ、圧倒的な力と冷酷さで名を轟かせた男──ゾクナス。
その男が今、この国を支配しているのだ。
布の中で拳を握りしめながら、アストリアは檻に隠れたまま外の様子を見続けた。
通りの中央で大層豪華な玉座に鎮座し進むのは、黒鉄の鎧に身を包んだ巨大なミノタウロス。
──ゾクナスその人だった。
その雄々しい姿に、魔獣達は歓声を上げ、拍手で迎えている。
「ゾクナス様、我らを守護し、力を与えたもうた偉大なる帝王!」
高らかな宣言が響き渡る中、ゾクナスは民衆を見下ろしながら堂々と歩いていく。
その姿には圧倒的な威厳があり、アストリアは息を飲んだ。
「あれが……ゾクナス……。」
アストリアは布の隙間からゾクナスの手元をじっと見つめた。
その巨大な手の中で、何かがぼんやりと水色の光を放っていた。
(・・・あれはもしや....!)
脳裏に一瞬、浮かんだ可能性。それが的中した瞬間、心臓が跳ねる。
ゾクナスの手中には、"哀の魂"があった。
深く澱んだ藍色の輝きは、どこか悲しみを帯びた雰囲気を放ち、見る者の心に重くのしかかるような力を感じさせた。
(あの男が……何故あれを.....!)
アストリアの脳裏に、かつてセラフィスから聞いた話が甦る。
"哀の魂"──悲しみによって成長し、絶望を糧に力を増す特殊な魂。
だが、それはあまりにも危険で、扱う者の心を侵食し、最終的には破滅へと導くとされている。
ゾクナスの手の中で、"哀の魂"はまるで生き物のように脈打ち、ゆらゆらと揺れ動いていた。
ゾクナスが高らかに声を上げた。
「見よ、これこそ我がガルム帝国の新たなる力、"哀の魂"だ!」
魔獣達から驚きと興奮の声が上がる。
「これを手にした我が帝国は、いかなる敵にも敗れることはない!ゾクナス様が絶望さえも力に変えてくださる!」
群衆の歓声は最高潮に達し、凱旋行進の熱気は頂点を迎えた。
布の中で息を潜めるアストリアは、拳を強く握りしめた。
(──まずい。このままでは奴がさらに力をつけてしまう。それだけは阻止しなければならない……。だが、どうする?)
目の前の状況をどうにかしなければならないことは明らかだった。
だが、ここで無策に飛び出せば、ただ捕らえられるだけだろう。
"哀の魂"を奴の手から奪い取る……だが、そのためには......!
アストリアを今まで感じたことのないような焦燥感が襲った....。